instagram

ラヴド・ヴィクティムズ

「休みを?」
「ええ。今日一日、お休みをいただきたいのです」
 真剣な面持ちで現れたアリスは、そう言ってじっと主人であるゼロ・ハングマンを見つめた。ゼロは無表情に角砂糖をピラミッド型に積み上げている。
「何か理由が?」
 ゼロは彼女を見ないままに尋ねた。アリスが休暇を願い出たのは、彼女がハングマン城に勤めるようになってから初めてのことである。彼女は少し、俯いた。
「……孤児院に、帰りたいのです」
 ゼロの肩が小さく跳ねた。
「孤児院に?」
「ええ。孤児院にいた子供がひとり、亡くなって……追悼のミサに出席したくて」
「…………」
 ゼロの視線が一瞬、彼女の手元に動いた。エプロンの前で組んだ彼女の手には、白い便箋が挟まっている。
「なるほど。そうでしたか」
「はい。一日だけ……お願いします」
「わかりました」
 ゼロはつぶやいた。アリスがほっと息をつく間もなく、彼は言葉を継ぐ。
「では、わたしも伺いましょう。リデルも連れて行きます」
「え?」
 アリスはぽかんと口を開けた。ゼロは山積みになった角砂糖をシュガーポットの中に投げ戻しながら、そのうちのひとつを頬張った。がり、と鈍い音が響く。
「馬車の用意をしますから、少し待っていて下さい」
「え、でも……」
 声を上げるアリスにかまわず、ゼロは執事の部屋に繋がる呼び鈴を引いた。そうしてから、ようやくちらりとアリスの顔を見上げる。
「アリスも、出掛ける準備を」
「は、はい」
 彼女は思わず素直にうなずき、ゼロの部屋をあとにした。

  × × ×

 一時間後。アリスはリデルの駆る馬車の中にいた。日ごろは精彩に満ちている彼女の碧い瞳も、今は深く沈み込んでいる。黒い喪服に包まれた肩の上に、ブロンドの巻き毛が零れ落ちていた。
「その子の名前はローザ・カーター。わたしが十歳くらいの時、孤児院の前に捨てられていたんです。寒い冬の日で……まだミルクしか飲めないような、ほんの赤ん坊だった」
「…………」
 ゼロは普段と変わらぬ黒づくめの格好をして、アリスの向かいに腰を掛けていた。その静まり返った表情からは、何一つ感情をうかがうことはできない。
「ひと懐こい子でした。だから、彼女が貴族の養子になるって聞いたときも、きっとうまくいくと思った……」
 何故ゼロにこんな話をしているのか、アリスにはわからない。そもそも何故彼が自分についてきたのかもよくわからなかった。
「貴族の養子に?」
 不意に、ゼロが口を開いた。いつもの猫背ではなく背筋がぴんと伸びていて、瞳は彼女をまっすぐに映している。
「その、ローザという子は誰かの養子になったのですか?」
「え、ええ」
「で、養子に行った先で亡くなった?」
「はい」
「…………」
 ゼロは再び背中を丸め、馬車のシートに深く体を埋めた。
「引き取られてからすぐ、彼女は何か重い病気に掛かったらしくて……驚いた孤児院は引き取って看病しようかと申し出たんだそうです。でも、それには及ばないと言われたと……ローザはもう自分たちの娘なのだから、娘のために親である我々が手を尽くす、と言われて」
 アリスはすぐに再び口を開いた。――話し続けずにはいられなかった。そうしなければ、思い出してしまう。ローザのくりくりとした愛らしい瞳。その名を体現するかのように、いつも薔薇色に上気していた頬。
「きっと、ローザはしあわせだったんだと思います。少しの間だったけど、優しい親に恵まれたんだから……だから、きっと」
「アリス」
 低い声が彼女の名を呼んだ。そして、俯いていた彼女の頭の上に何か固いものが載る。
「…………」
 アリスはおそるおそる顔を上げた。彼女の髪に触れていたのは、ゼロの手だった。しかし、彼はすぐに手を引き――そ知らぬ顔で横を向いた。
「もう、着くようですよ」
 小さな窓から外を眺め、ゼロは言う。アリスは彼の横顔を見つめ、やがて黙ったままうなずいた。

 その孤児院はロンドンの下町に位置しており、敷地内に建つ教会の壁は、周囲の建物と同じようにやや薄汚れていた。急ぎ中に入っていくアリスの後を追うように、ゼロは辺りを見回しながら一歩一歩足を進める。――その歩みが突然、止まった。
「…………」
 ゼロの鼻先を石が飛び去り、石塀にあたって音を立てる。ゼロは特に驚いた様子もなく、石の飛来した方向を見遣る。そこにはひとりの少年が立っていた。ぼさぼさに乱れた赤毛、赤銅色の瞳。年齢はまだ十歳になるかならないかといったところだろう。
「ゼロ様?」
 気付いたアリスが振り返り、ゼロに駆け寄った。
「おまえのせいだ! おまえのせいでローザがしんだんだ!!」
 甲高い叫び声に続いて、投石。
「…………」
 ゼロはそれを右手で受け止めた。相変わらずの無表情で、声の主である少年をじっと眺めている。アリスは慌てて声を上げた。
「やめなさい、ルイ!」
 その言葉に、少年はぴくりと体を震わせた。
「アリスねえちゃん……?」
「お客様に無礼を働いてはいけないと、シスターにならったでしょう」
 アリスはルイの足元にしゃがみこみ、視線を合わせた。顔を逸らそうとする彼の頬を両手で固定し、逃がさない。
「そもそも、ひとに石を投げるなんて、絶対にしてはいけないことよ」
「けど!」
 ルイはきっとゼロを睨み上げた。ゼロはコートのポケットに両手を突っ込み、アリスの背後に佇んでいる。ルイには興味などないかの様子で、教会を見上げていた。
「あいつはきぞくだろ。きぞくがローザをつれていっちゃったんだ。つれていったから、しんじゃった!」
「ルイ」
「きぞくなんて、だいきらいだ!」
「ルイ!」
 叫ぶ彼をたしなめようとするアリス、だがそんな彼女の側にゼロが並んだ。
「安心なさい」
 ゼロは低くつぶやく。
「わたしはあなたがたを連れて行きたいとは思いませんから」
「……ゼロ様?」
「…………」
 ゼロは相変わらずルイを見てはいなかったが、ルイはどこか気圧されたかのように押し黙った。
「アリス」
「え? あ、はい!」
「シスターに挨拶をしてきます。あなたは子供たちと一緒にいてください」
「はい。……あの、ゼロ様、お怪我は……」
 気遣うアリスに、ゼロは首を横に振った。
「大丈夫です。……では」
 ゼロはアリスらに背を向け、その場を立ち去った。
「……アリスねえちゃん?」
 黙って彼の背中を見つめていた彼女に、ルイがおそるおそる話し掛ける。
「あのひと……だれ?」
「だれかもわからない相手に石を投げたの?」
「う……」
 ルイはうつむいた。アリスは苦笑する。
「後でちゃんと謝りましょうね?」
「う……」
 ルイは顔を伏せる。
「わたしも付いていくから」
「……うん」
 その返事を聞いたアリスは満足げにうなずき、そしてぽつりとつぶやいた。
「でも、ゼロ様は、どうしてわざわざここに……」

  × × ×

 初老のシスターは、突然現れたゼロとリデルを目の前にして驚いたようだった。
「伯爵様が、一体どのようなご用件で……?」
「うちのメイドについてきただけです」
 ゼロは淡々と言う。
「メイド?」
「アリス・ウェーバー。こちらの出身ですね?」
「あ、ああ!」
 シスターは顔をぱっとほころばせた。
「そうでしたか。……では、アリスもここに?」
「ええ。今は子供たちと一緒にいますが」
「そうですか」
 シスターは慈母のような微笑みを浮かべ、ゼロを見つめる。
「時々アリスが手紙をくれるのですが、あなたのことをよく書いていますわ」
「…………」
 ゼロはぎょろりとした瞳でシスターを見つめた。
「本当に良くしていただいていると……自分はしあわせだ、と」
「…………」
 黙って身じろぎもしないゼロの横から、リデルが口を出す。
「こちらこそ、本当に良いお嬢さんに来ていただいてありがたく思っております。ここでの教育の賜物でしょう」
「――ところで」
 不意に、ゼロが口を開いた。
「ローザ・カーターを養子にした貴族というのは、キース子爵夫妻ですか?」
「な」
 シスターは大きく目を見開いた。
「何故、それを……?」
「…………」
 ゼロはその問いには答えず、別のことを言った。
「ミサが終わるまで、どこか休む部屋をお借りしてもよろしいでしょうか。リデルとアリスを待ちたいので」
「伯爵様は、ミサには参列されないのですか?」
「ええ」
 ゼロはあっさりと答える。シスターは何か言いたげな表情だったが、彼の瞳に浮かぶ拒絶の色を見て取ったのか、結局はひとつ小さなため息を零しただけだった。
「……わかりました。お部屋は用意させていただきます」
「助かります」
 ゼロは軽く会釈すると、窓の側へと歩み寄った。中庭ではアリスが数人の子供たちに取り囲まれている。
「リデル」
 ゼロは小さな声で言った。シスターには聞こえないほどの、かすかな声だった。
「はい」
「『ボディ』を手に入れろ」
「はい」
「それから――」
 ゼロはがり、と爪を噛む。
「ドクター・ロスチャイルドを呼べ」