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ラメント・リブ

 ネイビー・ヒルズ男爵が、屋敷に押し入った盗賊の手に掛かり命を落とした――そのニュースは、翌朝にはすぐにロンドン中を駆け巡った。
 盗賊はロマ――いわゆるジプシーであるとのまことしやかな噂も流れ、人々は彼らに向ける目をそれまで以上に厳しいものとした。彼らは元より決して歓迎されてはいない流浪の民である。賊は逃走したが、事実ロマの者だとすれば、このまま足もつかず、捕まえることはできないかもしれない――何しろ彼らはたやすく国境を破り、行き来する。イングランドとその対岸、フランスを隔てるドーバー海峡すら、彼らにとっては大した障害ではないのだ。

「犯人が見つかっていないとは、物騒ですね」
 ハングマン城の執事、リデルは己の主人にお茶をサーブしながらそう呟いた。ソファに座るゼロ・ハングマン伯爵はローテーブルの上に号外の新聞を広げ、ぎょろりとした目を蠢かせて紙面を眺めている。不健康そうな痩身、黒目がちな瞳、櫛を通してもすぐにぼさぼさに乱れてしまうこわい黒髪。彼の母にはロマの血が流れていたという噂もあるが、その真相は定かではない。そんなことは、リデルにとってはどうでもいいことだ。
 彼は俯いたまま、ふむ、と呟いた。
「奇妙な事件だな」
「奇妙……とは?」
 リデルは首を傾げる。
 ――事件そのものは単純明快なものであった。ヒルズ邸に盗賊数名が押し入り、鉢合わせた男爵を殺害。金目のものを奪い、逃走した。妻である男爵夫人が、窓から逃げ出す賊の姿を目撃したという。
「何か気になるところがおありなのですか?」
「……盗賊の出入りした部屋は書斎だったというな」
 ゼロは呟く。
「書斎にそんなに金目のものがあるか? 強盗目的だったのなら、夫人の宝飾品を盗む為に寝室にでも向かうだろう。壮年男性をなんの躊躇いもなく刺殺するような賊だ、ついでに夫人を殺しても良かったんじゃないか。何故すぐに逃げた」
「…………」
 乱暴な言い方ではあるが、一理ある。
「しかし」
 リデルは異を唱えた。
「男爵を殺してしまったのは予定外だったのかもしれません。それで、急いで立ち去った――」
「…………」
 そうかもしれない。だが、そうではないかもしれない。ゼロは黙ったが、決して納得はしていないようだった。リデルは軽く咳払いをする。
「いずれにせよ、アリスが少し怖がっています。早く解決されると良いのですが」
「アリスが?」
 ゼロが顔を上げる。その素直な反応に、リデルは思わず笑みを零しそうになった。
 アリス・ウェーバー。ハングマン城とゼロ・ハングマン伯爵にまつわる数々の不吉な噂にも関わらず、彼に誠心誠意を尽くして仕えているこの城唯一のメイドである。
 ハングマン城に住まうのは、ゼロとリデル、そしてアリスの三人のみである。アリスが心細く思うのも無理はない。それはいけない、とゼロは思った。アリスにはこの城にいてもらわねば困るのだ。彼女の作るお菓子は美味しいし、お茶を淹れるのもとても上手い。それに……とにかく、彼女が去る日のことは考えたくない。
「ルイスに捜査の進捗を聞きましょうか」
 旧知の警部の名を挙げ、リデルはゼロに尋ねる。
「そうだな」
 ゼロは無表情に頷いた。
 ――だが、そのルイスが既にハングマン城に向かっていたとは、二人には思いもよらぬことであった。

 ハングマン城を取り巻く噂は、そのほとんどが嘘である。
 ゼロ・ハングマンは生き血を啜りなどしないし、棺桶で眠っているわけでもない。当然、悪魔崇拝の儀式などもしていないし、執事は巨人などでもない。
 だが、そのような根も葉もないような噂の中に、数少ないながらも真実がある。
 ――ハングマン城には死体が集う。
 ――ゼロ・ハングマン伯爵は死体を暴く。
 それは、確かなことなのだった。

  × × ×

 ルイス・ブラウンはロンドン市警勤めの警部である。その彼がハングマン城を訪れるのは、決してそう珍しいことではない。そしてそのようなときは大抵死体を連れている。いわゆる変死体というものだ。
 ゼロは伯爵でありながら、解剖学を始めとした医学に造詣が深く、毒物や薬品についての知識も豊富である。死因不明の死体、不審な死体を城に持ち込むと、彼自らの手で解剖し、何かしらの手掛かりをルイスに与えてくれるのであった。その行為こそがハングマン城にまつわる噂の根源なのだが、ゼロはその点にはいたって無頓着である――少なくとも、無頓着であるかのように振る舞っている。
 ルイスはいつものように馬車でハングマン城に向かっていた。だが、いつもと違う点がひとつある。彼に、生きた同乗者があるということだった。
「…………」
 その若い男は、むっつりと黙り込んでいる。仕立の良いコートを着込んだその姿は、警察関係者ではない。
「もう少しです」
「……ああ」
 相槌はひどくぶっきらぼうだ。ルイスは顔を顰めつつ、それでも言葉を掛け続けた。
「ハングマン伯爵とは面識がおありで?」
「ない」
 男は短く答えた。
「もしかすると、父ならば一度くらいは会ったことがあるかもしれないが……」
「……そうですか」
「伯爵はほとんど外には出ないのだろう?」
「はあ、まあそういう話ですな」
「ブラウン警部は、彼と親しいのか」
 淡いグリーンの瞳がルイスを見遣る。ルイスは曖昧に頷いた。
「……お世話にはなっています」
「彼が、手を貸してくれると良いのだが」
 不安そうに呟く男に、ルイスはため息を噛み殺す。
 ――ヒューゴ・ヒルズ。ネイビー・ヒルズ男爵の独り息子である。ルイスがハングマン城に向かっているのは、彼、ヒューゴに請われたためなのであった。

 彼らを出迎えたリデルは、少し驚いたようであったが、それでも慇懃に彼らを案内した。途中、ぼそりとルイスに尋ねる。
死体(ボディ)はありますか?」
「……いや」
 ルイスは首を横に振る。彼が持ち込む変死体を、地下の解剖室に運び込むのはリデルの役割であった。
「では、こちらでしばしお待ちを」
 リデルは二人を応接室に残して立ち去る。程なくひとりのメイドが現れ、ルイスを見ると控えめに微笑んだ。二人の前のカップに紅茶を注ぎ、クッキーの盛られた小皿を置いて下がっていく。
「……案外普通の城だな」
 ヒューゴはぽつりと呟いた。
「はあ」
 どんな城だと思っていたのです、とルイスは言わない。どうせおどろおどろしい、薄暗くてじめじめとした、廃墟のような城をイメージしていたのだろう。実際は使用人こそ少ないが、手入れは隅々まで行き届いている――少なくとも、ルイスの目に触れる範囲は。
 ルイスがお茶を飲み干し、クッキーをひとつふたつかじり終えた頃。
「お待たせいたしました」
 リデルに先導されるようにして、ゼロ・ハングマン伯爵が姿を見せた。痩身を包む白いシャツに黒のパンツ。ヒューゴは目をすがめるようにしてその姿を見つめた。
「初めまして、ゼロ・ハングマンです」
 無感情な声が己の名を名乗り、ヒューゴは会釈を返した。
「ヒューゴ・ヒルズです。――突然の訪問、失礼致しました」
「いえ」
 ゼロはちらとルイスを見て、そして何も言わぬままにソファに腰を下ろした。その直後、ノックに続いてドアが開き先ほどのメイドが姿を見せる。ゼロのためにお茶をサーブしにきたらしい。
「ありがとう、アリス」
 ゼロが呟くと、メイドはやわらかな微笑みを浮かべた。
 彼女が応接室を辞した後、ゼロは口を開いた。
「それで? お父様のことに関して……ですか」
「ええ」
 ヒューゴは頷いた。
「不躾なお願いとは重々承知ですが、貴方にしか頼れない」
「警察公認で、というわけですか」
「まあ、一応な」
 ルイスは腕を組み、ゼロを見つめた。その隣で、ヒューゴが軽く座り直して身を乗り出し、膝の上で両手を握っている。
「私は……父が賊に殺されたとは思えないのです」
「ほう?」
 ゼロが興味を示したように顔を上げた。ヒューゴは、真っ直ぐにゼロを見つめ返した。
「隠しても仕方ありませんから、はっきりと申し上げますが……私は父と折り合いが悪かったのです。それで、もう長く離れて住んでおりました。ですから、事件の何かを見聞きした、というわけではないのですが」
「事件の証言をしたのは、ヒルズ男爵夫人ですよね? 貴方のお母様ですか」
「いえ」
 ヒューゴの顔がはっきりと歪んだ。そこに浮かぶのは、明確な嫌悪、或いは憎悪。
「母は私が幼いころに死にました。あの女と私は無関係です」
「なるほど」
 ゼロは軽く頷く。
「しかし、何故私のところへ? 私は探偵ではありませんよ」
「手を貸していただきたいのです」
 ヒューゴははっきりと言った。
「父は殺されたのだ。賊にではない。あの女に、殺された」
「男爵夫人に……ですか」
「ああ」
「何か、根拠はあるのですか」
「今朝、私に父から手紙が届いたのです。一昨日投函されたものだった」
 ヒューゴは懐から封書を一通、取り出した。便箋を広げ、テーブルに置く。
「拝見しても?」
「はい。この筆跡は、確かに父のものです」
「…………」
 ゼロは黙ってその便箋を眺めた。

『騙されていた。二人で会いたい。話がしたい。頼む』

 走り書きといっていいような、短い文面である。
「騙されていた……というのは何のことでしょう」
「お恥ずかしい話ですが、私と父とが疎遠になったきっかけはあの女なのです。私とそう変わらぬ若い女に入れ込む父を、見てはいられなかった」
「…………」
「それが、私にこのような手紙を寄越したのです……恐らくは、あの女が父を何かしら騙していて、そのことに父は気付いたのではないかと」
「はあ」
 ゼロはあいまいに相槌を打った。
「しかし、それは何の証拠にもならないのでは? そうとはっきり手紙に書かれているわけでもありませんし」
「……おっしゃる通りです」
 ヒューゴは苦々しげに首肯する。
「実はもう一つ気になることが。それは、父が同時に弁護士にも連絡を取っていたということなのです」
「弁護士?」
「そうなんだ。遺言状を書き換えたいとの用件で呼ばれていた、と証言している」
 ルイスが口を挟んだ。
「ちなみに――現存の遺言では全てがあの女のものになります。爵位すらも、長子の私にではなくあの女との間に設けたまだ幼い弟――とも呼びたくはありませんが、それに継がせる、と」
「ふむ」
 ゼロが軽く顎を撫でる。
「なるほど、わかりました。貴方の推理は、お父様が何かしらの妻の裏切りに気付き、長年疎遠だった息子――貴方に連絡を取って、さらに遺言状も書き換えようとした。そのことに気付いた夫人が、お父様を殺した……ということですか」
「そうです」
 ヒューゴは頷く。ゼロはルイスを眺めた。
「それで? 貴方は私に何をさせたいのです?」
「どうすれば、真実に近付けますか」
 ゼロの問いに答えたのは、ヒューゴであった。
「私の思い違いなのであれば、それはそれで構いません。一刻も早く賊が捕まることを祈るのみです。だが、もしそのような賊などいないのだとしたら。真犯人がのうのうと生き延びることが許されるのだとしたら。それは納得できない」
「…………」
 ゼロはしばし考え込むように視線を落とした。
「……現場の状況はルイスに教えて頂くとして。もしまだ明らかになっていない証拠が残っているとするならば、男爵のご遺体そのものに、でしょう」
「…………」
 それは、とヒューゴがかすかに蒼褪める。つまり――父の遺体を暴かせろ、ということなのか。
 ゼロは軽く肩をすくめた。
「繰り返しますが、私は探偵ではありません。私がこれまで警察に差し上げた助言は、すべて遺体に残された痕跡を探り出し、辿ることで得られたもの。私のやり方がお気に召さないのであれば、私には何もできることはありません」
「…………」
 ヒューゴはわずかな時間天井を睨みあげていたが、やがて頷いた。
「わかりました」
 ゼロは静かにカップのお茶を口に含む。ヒューゴの苦悩になど、全く興味はないとでもいうように、
「ではルイス、男爵のご遺体の手配を」
 と言い放った。
「ああ」
「それで、私は何を……」
 困惑顔のヒューゴに、ゼロは淡々と告げる。
「いえ、何も」
「…………」
 ヒューゴは険しい表情のまま、じっとゼロのその無表情な顔を見つめたのであった。