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ラブレス・マリアージュ

 冬の寒さがようやく緩み始めた春の日。伯爵の書斎の掃除に訪れたメイド、アリスは見慣れない美麗な封書に目を止めた。主のプライバシーを侵害するようなアリスではないが、拡げて置かれていると嫌でも目に入る。
 ――これは、絵? 美しいお嬢様の……。良くみると辺りには数枚似たような姿絵があって、机の端の方に乱雑に積まれていた。
 姿絵と、手紙。文面は読まぬようにしてアリスはそれに背を向け、書棚にはたきを掛ける。そこに並ぶ解剖書や医学の専門書の類にも、もう随分と慣れた。無論、背表紙しか目に入らぬことが前提ではあるが。
「……ああ、アリス」
 扉が開き、ふらりと彼女の主人が姿を見せた。ゼロ・ハングマン伯爵――痩せぎすに猫背、仕立ては良いのにどこか着崩れた印象がするのはその姿勢の悪さゆえだろう。いくら梳いてもすぐにだらしなく跳ねる黒髪と、そのやや長すぎる前髪の下から覗くぎょろりとした黒目。
「お掃除ですか、ありがとうございます」
「あ、いえ!」
 メイドが掃除をするのは当たり前のことで、礼を言われるようなことではない、とアリスは慌てて首を振った。
「あの、机の上にお手紙が拡げてありました。汚してはいけないので触っていませんが」
「手紙?」
 ゼロは怪訝そうに首を傾げ、そして机の側に歩み寄り、ああ、と呟いた。
「これのことですか」
 先程アリスが気付いたうら若い女性の絵とそれに添えられていたのであろう手紙。ゼロはそれを抱え上げると、迷うことなくダストボックスへと突っ込んだ。
「なっ、ゼロ様!!」
 アリスは声を上げ、慌てて絵を拾い上げる。
「そんな、簡単に捨ててしまうなんて!!」
 別に描かれた人の魂が宿っている、などというつもりはない。ただ、美しく着飾って描かれた彼女らがダストボックスに入れられてしまうのは、何とも心が痛んだのであった。
「しかし」
 ゼロは眉を寄せる。
「そんなもの、嵩張るだけですし……邪魔でしょう?」
 さっさと庭でリデルに燃やしてもらいましょうか、とゼロは言う。
「え……ええっと」
 アリスは戸惑った。
「これは、一体……?」
 ゼロはまじまじとアリスを見返すと、深々とため息をついた。いつも通りの無表情に、うんざりとした風情を湛えて――。
「私の……妻候補、だそうです」
「…………」
 アリスはぽかんと口を開ける。その腕から絵を奪い取ったゼロは、再びそれらをダストボックスに投げ込んだ。

「ああ、時々あるのですよ」
 リデルは己の執務室でお茶を口にしながら、驚いた様子で先程の件を語るアリスに向かい穏やかに微笑んだ。
「ゼロ様はあれでも伯爵でいらっしゃる。資産もおありで爵位も、となればね。ご年齢も適齢ですし」
「はあ」
 アリスは呆けた返事をかえす。さりげなくリデルは主のゼロに対して失礼なことを言っているのだが、彼女は気付かなかった。
「まあ、ゼロ様が実際にどなかとお会いになったことはありませんが……」
 いつも見もせずすぐに断れと私に仰るので、とリデルは言った。今回はたまたま机の上に放っておいたまま、ゼロが忘れていたのだろう。
「そ……そうなのですか?」
「ええ。……まあ」
 リデルは微妙に笑みの質を苦みのあるものへと変えた。
「大体そういう縁談を望む家というのは、爵位との繋がりを欲しがる成り上がりの商人たちや地方貴族、あるいは身分はあるけれど没落寸前の貴族がハングマン家の財産を狙って、などでね。当然、当人の娘たちの意思は関係ありませんし、そもそもゼロ様とその方々とは面識すらないことがほとんどなのですよ」
「……そんな」
 アリスは口元を抑える。――娘をそんな、金や身分などの目的の為に? それとも、そういったことはごくありふれていることなのだろうか。平民出の、しかも孤児院出身のアリスにはよくわからない。
「いずれにせよ」
 リデルはカップをソーサーの上に音も立てずに置き、静かに目を伏せた。
「ゼロ様がこのハングマン家を今後どうなさるおつもりなのか、私には判りませんので」
「…………」
 ハングマン家は血塗られた一族と言われる――その伝承の詳細をアリスは知らないが、ハングマン家には分家なるものがなく、血筋は常に直系しかない。つまり、ゼロ・ハングマンは現時点でハングマンの名を冠する最後の人間なのである。
「ですから、ゼロ様が子をもうけられるか、さもなくば養子をとられるかしなければ、ハングマン家はここで絶えることになりますね」
「…………」
 さすがにそれはメイドの私には関係ない話だけど、とアリスは思った。でも、ゼロ様にはきっと家族が必要なのではないかしら。打算や損得ではなくて、本当の愛情で結びついた家族が。
 ――いずれにせよ、私はゼロ様にお仕えするだけ。アリスはその決意も新たに、箒を手に取り直した。先程は中途半端になってしまったあの書斎の掃除に、もう一度向かうために。

  × × ×

 彼女のことはただミランダ、と呼んでいる、とルイス・ブラウン警部は言った。
 生来の名はミランダ・メロー。歳は三十を少し過ぎた頃である。豊かなブルネットに蠱惑的な碧眼。特別な美人という程ではないが、ぱっと人目を引く女――否、人目を引く術を心得ている女である。彼女の今の名はミランダ・サリヴァン子爵夫人――昨日からは未亡人であり、一年程前にはミランダ・ハーディス男爵夫人であった。そのさらに二年前にはミランダ・ヘムズ子爵夫人。
「その前は、」
「もう結構です」
 ゼロは手を挙げて遮った。
 ミランダはいずれの夫とも死別して未亡人となり、そして次の夫と出逢って結婚、そしてまた死別――それを繰り返している女なのだという。今までの夫はいずれも壮年からやや初老に差し掛かるほどの男性で、ミランダとは親子ほど歳が離れている。尚、今回の夫は五十半ばの年齢で、婚姻は半年ほど前だ。
「つまり、彼女が今までの夫の死の原因である可能性を考えている……ということですか?」
「そういうことだな」
 ルイスは頷いた。彼はこの城を訪れる数少ない人物のうちの一人であり、そしてゼロに警察からの非公式な依頼を伝える人物でもある。――すなわち、死因に疑義のある遺体を「解剖」し、「分析」して欲しいとの依頼だ。死の知識を豊富に蓄えた「首つりの伯爵」ゼロ・ハングマン、彼はそういった依頼をしばしば受け入れている。
「今までは誰も表だって指摘しなかったから、彼女はまんまと同じ犯行を繰り返して来たんじゃないかな。まあ、騒ぎ立てる遺族もいないような、そういう人物を選んで結婚してきたんだろう」
「なるほど」
「しかし――だ。今回のサリヴァン子爵は、それまでの夫ほど純粋じゃなかった。つまりミランダを疑う気持ちがどこかにあったんだろう。それで、彼は一通の手紙を書き残していたんだ」
 亡きジャン・サリヴァン子爵には死に別れた前妻がいて、その妹である婦人に手紙を書き送っていたというのだ。それは彼の死の半月ほど前。その婦人が慌てて子爵の元を訪れたところ、既に彼は危篤状態にあると言われ――そしてそのまま亡くなった。
「そこで婦人はその手紙を持って警察に駆け込んできた。手紙には『もし私が死んだら、私の死体を調べてくれ。妻の罪の証拠が隠れているかもしれない』――とあった」
 無論、筆跡は鑑定済だとルイスは言う。
「それで、私に死体を調べろと?」
「明らかな外傷はないんだ。だから、俺たちが疑っているのは――」
「毒物、ですか」
 ゼロは顎を触りながら答えた。ルイスは頷いた。
「ミランダは病死だと主張している。医師も一度はそう診断して診断書も書いているしな」
 異常な体重減少、脱毛、そしてひどく乾くようになった唇、喉、目。皮膚も異常に乾いて、掻くとぱらぱらと剥がれ落ちるのだと、サリヴァン子爵は前妻の妹への手紙の中で訴えていた。病気かもしれない。だが、そうでないかもしれない。そうでない可能性が高い、と警察は見ている。一度ならともかく、ミランダの夫ばかりがそう都合良く病に倒れ、死んでいくだろうか。
「わかりました」
 と、ゼロは頷いた。
「お引き受けしますよ」
「いつも悪いな」
 ストロベリーブラウンの髪を掻きながら、ルイスは言う。ゼロはいいえ、と呟いた。ゼロが死因不明の遺体に興味を持っているのは事実で、そのための手段が「解剖」である。そこに法的な罪があるかどうかを裁くのは、ゼロの領分ではないが。
「それでは、子爵のご遺体を地下室へ」
「ああ、もうリデルに頼んである」
「そうですか。ところで」
 不意に、ゼロが声を上げる。
「ルイスは結婚しないのですか?」
「はっ?」
 彼は頓狂な声を上げた。その顔に一瞬で朱が差す。
「な、ななな、何を、いきなり」
「いえ、純粋な興味です」
 ゼロはすっとカップに手を伸ばし、冷めてしまったお茶を啜った。
「答える必要はありません、失礼致しました」
「……別にお前に隠すこともないから、いいけどよ」
 ルイスは職務を離れた話題になると、途端に砕けた口調になる。
「一応、近々結婚しようかな、と思ってる相手は――いる。俺もいい年だしな」
「そうでしたか」
 ゼロは無表情に頷いた。
「それはおめでとうございます」
「今度紹介しても?」
「やめておいた方がいいでしょう」
 ゼロはあっさりとそう言った。ルイスは驚いたように目を見開く。
「え、何故だ?」
「何故って」
 ゼロは肩をすくめる。
「私を何といって紹介するつもりですか? 死体解剖が趣味の伯爵だ、とでも? おやめなさい、貴方の人格までもが疑われかねない」
「そんな言い方はしないさ、俺はお前の友じ――」
「ルイス」
 ゼロは彼の言葉を遮った。その暗い色の目は、じっとルイスを見据えている。
「すみません、貴方の私的なことに口を出すべきではありませんでした」
「別にそれは謝ることじゃあ、」
「貴方は警察を代表して、私に遺体の解剖を依頼に来ている」
 ゼロは目を伏せた。
「そうでしょう?」
「それはそうだが!」
 思わず立ち上がり、ルイスは言う。
「俺はそれだけのつもりじゃ」
 ――とん、とん。
 控えめなノックの音に、ルイスは言葉を途切れさせた。
「入れ」
 ゼロの言葉に扉が開き、リデルが姿を見せる。
「……準備が整いましたよ、ゼロ様」
「わかった。すぐに向かう。――それではルイス、また連絡します」
 ゼロはジャン・サリヴァン子爵の遺体と向き合うべく、ルイスを残して部屋を後にする。彼は肩を落として俯いたまま、暫くの間じっとその場に座っていた。