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ベリアル・イントゥ・フレイム

 セント・レヴァイン教会は、緑に囲まれてぽつりと佇んでいた。歴史ある場所なのだろう、壁の細かな彫刻はところどころ欠けてしまっている。扉は開いており、そこに向かって伸びる短い階段はよく掃き清められていた。
 からからと馬車の音がしたかと思うと、やがてその扉の前にひとりの男が立った。黒ずくめの痩身――ゼロ・ハングマン伯爵であった。
「…………」
 黒い瞳が、じっと十字架を見上げる。その背後から、リデルが近付いた。
「参りますか、ゼロ様」
 彼は頷き、信者を迎え入れるためにであろう、半開きの扉の中へと身を滑り込ませた。

 ゼロは窓を彩るステンドグラスになど見向きもせず、ただ真っ直ぐ、正面に飾られた聖母子像へと進んだ。
「…………」
 裏側へ周り、膝をかがめる。そんなゼロの背後に控えていたリデルは、ひとりの男が彼らの方へと近づいてきていることに気付いた。若い牧師である。リデルとそう年は変わらないだろう。柔らかそうな栗毛を伸ばし、優しげな笑みを湛えている。
「何かご用ですか?」
 床にうずくまるゼロを見て、牧師の表情が曇る。
「大丈夫ですか? ご気分が優れないとか……」
「大丈夫です」
 ゼロは牧師を遮って立ち上がり、まっすぐに彼を見据えた。
「貴方が、ジョセフ・ネーベルですか?」
「は、はい」
 ジョセフは面食らったようにゼロを見返す。ゼロはいつもの通りの無表情で、ぽつんとその言葉を口にした。
「貴方が――ふたりを殺したのですね?」
「…………」
 ジョセフはぽかんと口を開けた。その顔色が赤から青へと、めまぐるしく変化する。
「あ、あなたは一体、何を……そもそも、貴方は誰なんです? わたしが、え? 何だって?」
「貴方はここで彼女を絞め殺した――その時、彼女の爪がつけた傷が、この像に残っています」
 ゼロは淡々と言葉を紡いだ。
「彼女の爪に残っていた石膏と、一致するはずです」
「か、彼女……?」
「男の死体の調達も簡単だ。何しろここは教会。裏には墓地がある。埋められたばかりの若い男の体には、不自由しない」
「い、」
 ジョセフは怒りも顕に怒鳴り声を上げた。
「いい加減にしないか!!」
「…………」
 ゼロは唇を閉じた。その瞳には、なんの感情も宿ってはいない。
 ジョセフは肩で息をしながら、リデルの方に向き直った。
「あなたのお連れ様が、訳のわからないことを言って私を責めるんだ。どうか、病院に連れて行ってやってはくれませんか」
「残念ですが、その必要はありません」
 答えたのは――ゼロだった。
「クラウディア・イーストをご存知ですね?」
 ジョセフは目を細める。群青色の瞳がゆらりと揺れた。
「その問いに答える義務が、私にありますか?」
「答えていただがなくても構いません。勝手に話を続けますから」
「……!」
 ジョセフの顔が怒気に染まった。
「貴方、一体誰なんです? いきなり現れて、ひとを人殺し扱いして――非常識だし、失礼極まりない!」
「……ゼロ・ハングマンと申します」
 ゼロはあっさりの名を明かした。これで気が済んだか、というような調子だった。
「ハングマン……?」
 ジョセフは眉を寄せた。
「あの、首つりの伯爵? 死体愛好家の、神に背く恐るべき悪魔……」
「私のことは結構です。問題は」
 ゼロは面倒くさそうに言葉を切り、じっとジョセフを見つめた。
「……誰がクラウディアたちを殺したか、です」

  × × ×

 ――簡単なことですよ、とゼロは言った。
 ハングマン城を出る前のこと。ルイスとリデルにゼロは説明する。
「男と女が二人で死んでいれば、たいていの人はそれを心中ではないかと考える。しかも油を被って焼け死んでいたのだとしたら、尚更です。けれど――本当に、彼らは焼け死んでいたのでしょうか? 焼かれる、その前に死んでいた可能性は? そもそも彼らは本当に同時に死んでいたのでしょうか?」
「そりゃ、どういうことだ?」
 ルイスは眉を寄せた。何となく、わかるようなわからないような、漠然とした感じを受ける。
 ゼロはゆっくりと言葉を紡いだ。
「クラウディアの死因は、絞殺です。気管が物理的に潰された痕が残っていました」
「絞殺?! じ、じゃあ無理心中か? 男がクラウディアを絞め殺して、それで自分も死んだ――」
「違います。ですが、多分犯人はそのミスリードも計算していた」
 ルイスの言葉に、ゼロは首を左右に振った。
「つまり――クラウディアが他殺だと露見しても、罪は隣で死んでいた男が被ってくれる、と。そう考えたのでしょう。クラウディアに言い寄っていた男たちは数多いたそうですし」
「隣で死んでいた男?」
 唖然とするルイスに、ゼロはきっぱりと言った。
「彼らは、別々の場所で、別々の原因で死んだのです」
「はあ?!」
「あの二人の気道には、少しも煤を吸い込んだ痕がなかった。焼死であれば、当然あるはずの痕跡が」
「…………」
 ルイスはぽかんと口を開けた。ゼロは言葉を続ける。
「見たところ、男の死体はクラウディアのものよりも少々古いもののようでした。つまり、クラウディアは殺害された後、男の死体と並べられ、灯油を撒かれて火を放たれたのです」
「……いったい誰が」
 言い掛けたルイスは、はっと息を呑んだ。
「もしかして――遺体を引き取りたいと言ってきた教会が関係しているのか?」
「可能性はあるでしょう」
 教会には、死体が集まる。――この、ハングマン城とは異なる意味で、だが。
「けど、何のために……?」
 ルイスのつぶやきに、ゼロは何も言わなかった。

「私じゃない」
 ジョセフは言った。白い額に、うっすらと汗が滲んでいる。
「私はクラウディアさんを殺してなどいない。彼女の花屋とは親しくしていたけれど、そんな、殺すだなんて」
「クラウディアの首を絞めたものは」
 ゼロはあくまで静かであった。
「鎖状のものでした。多分、発作的に殺害してしまったのでしょう、恐らくは犯人が普段から身に着けているもの――たとえば」
 骨ばった指が、ジョセフの首元を指す。そこには、鈍い輝きを宿すチェーンと、垂れ下がる十字架が――。
「その、ロザリオとか」
「違う!! あの時、私はこれをしてなど」
「『あの時』?」
 ゼロに鸚鵡返しに問われ、ジョセフは息を呑んだ。
「なるほど、『あの時』は、それを外していたと。――で、『あの時』って、なんの時です?」
 途端、凄まじい形相でゼロに掴みかかろうとしたジョセフを、リデルが遮った。
「ジョセフ・ネーベル!! 大人しくしろ!!」
 駆けつけたルイスが加勢する。
 教会の磨かれた床に抑え込まれるジョセフを、ゼロは冷ややかに見下ろした。
 
 
 ――クラウディアとジョセフが親密であったことは、半ば公然の秘密であった。ジョセフがクラウディアのいる花屋で花を買うのも、彼女に会いに来ているのだと誰もが認識していた。聖公会では妻帯は禁止されていない。だから、ジョセフはクラウディアと結婚しても良かったのだ。
 それなのに、何故――。
 ジョセフを重要参考人として連行してから、数日。ルイスはふらりとハングマン城を再訪した。
「実は、ジョセフは既婚者だった」
 彼自身は否認を続けているというが、随分と捜査は進んだようだ。
「だが、誰もそれを知らなかった――そりゃあそうだ、ジョセフの妻は遠方で入院中だったんだな。心を病んで数年前からずっと、だそうだ。ジョセフは年に数回見舞いに行っていたようだが、それも最近は途絶えがちだったとか」
「……そうですか」
「だから、皆ジョセフは独身だと思っていた。クラウディアといつかは結婚するのだろうと――美男美女の、お揃いのカップルだと、誰もがそう思っていたんだそうだよ……」
 暖炉の炎の爆ぜる音。ゼロは背を丸めて、それをじっと見つめている。
「――なあ、ゼロ」
 その横顔を眺めていたルイスは、身を乗り出して彼に尋ねた。
「お前は、ジョセフに『ふたり』を殺したと言ったよな。ふたりって、誰のことだ? お前が言うには、男のほうの死体は教会にあった身寄りのない死体か何かを使ったんだろうっていう話だっただろう?」
 今、そちらの方も調べているところなのだ、ルイスは言う。
「まさか、ジョセフはその男の死にも何か、関わっているのか?」
「いいえ、そうではありません」
 ゼロは速やかに答えた。
「私が言いたいのは――」
 ちらりとルイスのほうを見遣る。その瞳に、色はない。
「クラウディアは、身ごもっていたのです。だから――ふたりを殺した、と言いました」
 クラウディアと、そして胎内に宿っていた名もなき赤子と。ふたりの遺体は、彼女の面倒を見ていた花屋の老夫婦が引き取り、手厚く葬ったとのことだった。
「…………」
 ルイスは絶句する。
 ――クラウディアは、自分の身に起こった異変を知っていたのだろうか。それで花屋を出奔し、ジョセフに婚姻を迫ったのだろうか……諍いが生まれたのだろうか。
 だが、それでも。一度は愛した女を、何故ジョセフは殺してしまったのか。共に暮らせぬ妻と離婚し新たな妻を迎え入れなかったのは、聖職者としてのジョセフが外聞を気にしたせいなのか、それともやはり病める妻を愛していたからなのか。それならばなぜ、クラウディアと深い仲になったのか。
 ジョセフが何も語らない以上、何もわからない。いくらクラウディアの死の状況がわかっても、たとえ隣で死んでいた男の身元が分かっても、きっと何もわからないままだ。
 それから――ゼロがクラウディア・イーストの事件に興味を惹かれた理由も、わからないままだ。ルイスはそう思った。

  × × ×

 とんとん、とんとん……。
 アリスは緊張した面持ちで粉を篩にかけていく。
 少し前、何の気まぐれかゼロがふらりと厨房にやってきた。アリスは彼のためのおやつを作ろうとしていたところだったのだが、何か用事かと尋ねた彼女に、ゼロはただ「見ていたいだけです」と答え、彼女を面食らわせた。
「あの……」
 じいっと見つめられると、とてもやりづらい。抗議の意味を込めて声を上げたのだが、それ以上何も言えずにアリスはまた口をつぐんだ。
 ゼロは静かで、穏やかな眼差しで彼女を見ていた。その視線はまるで彼女を暖かく包み込む陽だまりのようで、アリスは心の奥底から、なにか温かいものが沸き起こってくるのを感じた。――それは、ゼロに優しくしたいというような、守りたいというような、甘やかしたいというような……アリスがかつて身を置いていた孤児院の子どもたちに感じていた気持ちを、もっと濃くしたような、何か。
 その感情に名付ける術を持たないまま、アリスはただそれに己の心を委ねていた。

 ――ゼロはアリスを見守りながら、小さく呟いた。
「……あの時、彼女は偽名を使っていた」
 ――クリスティン・ウェストです。よろしくお願い致します。
 だが、彼女も他のメイドと同様、やはり長くは勤めてはくれなかった。ひと月ほど経って「首つりの城」にまつわる噂の一つ――「首つりの城」には死体が集まる、という――が真実であるとわかった途端、震えあがって辞めたいと申し出た。その時、彼女はゼロに本当の名前を伝えて去ったのである。
 ――申し訳ありません、伯爵様。私、嘘をついていました。最初に申しあげた私の、名前……、嘘なんです。
 クラウディアはゼロへの怯えを垣間見せながらも、それでもそれは他の少女たちの表現よりもずっと控えめであった。
 ――伯爵様は本当にお優しい方でした。今までいろんなお屋敷に勤めましたが、こんなに優しい場所はありませんでした……心から、お慕いしておりました。だから、私の本当の名前も……。
 今から思えば、であるが――クラウディアはそれまで勤めた先々で、いろいろな男から嫌な思いをさせられてきたのだろう。それが、ハングマン城では起こらなかった。ここに住まうのはゼロとリデルのみで、二人ともそういうタイプではない。
 それでもやはり、ここにはいられない、と彼女は言った。私は神様が怖いから、と言って。
 そしてクラウディアは――神に仕える者の手で、命を落とした。
「アリス」
 ゼロは目を細め、その名を小さく呼ぶ。彼女はくるくると忙しく立ち働いていて、いつの間にかゼロのことは意識の隅へと追いやられているようだった。その生き生きとした動きを目で追いながら、ゼロはつぶやいた。
「私は、貴方を……」
 アリスを守りたい。その相手がたとえ神であろうとも、私は恐れはしないだろう。いつかこの城を離れる日が来ても、貴方が必ず、幸せであるように。笑っていられるように。
 けれど、ああ、もしアリスがずっと自分の側にいてくれたなら――ゼロはぼんやりと、それでいて焼けるような強さで、思った。自分の目が届くところにいてくれるなら、決して彼女を傷つけさせたりはしないのに。
「…………」
 ゼロは軽く身震いした。私は今、何を? 思い上がった思考だ――私はゼロ・ハングマン、「首つりの伯爵」なのに。手のみならず肘までも赤く血に染まった自分が、アリスを汚してはいけない。リデルのように、己のエゴで己に縛りつけてはいけない……。
 せめて、私がアリスを傷つけることがないように。ゼロは願う。彼女の幸せを、私の存在が曇らせることのないように。そのような時が来てしまったなら、彼女をちゃんと手放せるように。
 ゼロはじくじくと痛む胸に気付かぬふりをして、そうしてまた、アリスの残像をぼうっと追い掛けるのだった。