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ベリアル・イントゥ・フレイム

 ハングマン城の周りには、いつもと変わらず冷たく重い霧が立ち込めていた。城の若き主、ゼロ・ハングマン伯爵は暖炉の前のロッキングチェアに腰掛け、組んだ足のつま先で規則的に床を蹴り飛ばしている。
 暗い瞳に、炎の色が映り込む。彼が深々としたため息をついた時――。
「ゼロ様」
 扉の向こうから、落ち着いた声が響いた。執事のリデルだ。
「入れ」
 ゼロの声に、リデルは扉を開けて部屋の中に踏み入れた。乱雑に床の上に広げられている新聞に、眉をひそめる。
「ゼロ様、新聞はお片付けなさいと何度申し上げたら……」
「リデル」
 ゼロは執事の小言を遮り、顔を上げた。そこに浮かぶのは、いつもの通りの無表情だ。
「ボディを、手に入れてきて欲しい」
「は……」
 リデルの怜悧な顔に、緊張が走る。
「この記事の、です」
 ゼロは床に散らばった紙のうちの一枚を手に取り、その骨ばった指でとある記事を指し示した。
「…………」
 リデルの翡翠色の視線が、紙の上を滑る。やがて、彼はそれをゆっくりと細めた。
「かしこまりました、ゼロ様」
 それは、心中事件を扱った記事だった。若い男女が焼身自殺したというもので、女の身元は判明したものの、男の方は未だわからないという。男の方の遺体の損傷が、女に比べて激しいのだとか。
「警察からは特に連絡は来ておりませんが?」
 念のため、リデルはその事実を口にする。
「判っている」
 ゼロはその黒い目をぎょろりと蠢かせた。
「心中と記事に出ているのだから、警察はきっとそう処理する予定なのだろう」
「…………」
 リデルは黙って記事の文面に目をやる。――女の名は、クラウディア・イースト。少し前まではとある花屋に住み込みで勤めていたらしいが、半月ほど前に暇を出されたのだという。男の身元については、彼女の交友関係を中心に捜査されている、とのことであった。
「何故……」
「何だ?」
 ゼロに聞き返され、リデルは続く言葉を飲み込んだ。出過ぎた詮索は、すべきではない。自分は彼の――ゼロ・ハングマン伯爵の執事なのだから。それが死体の入手という、常ではあり得ない命令であっても、彼は受け入れるのみである。そうすることを、かつて過去の彼は未来の自分に対して決定したのだ。
「早急に手配を致します」
 リデルは恭しく頭を垂れ、主人の元を辞した。

 その二時間後。警察署内で、リデルは旧くからの友人と対峙していた。長身ではあるが細身のリデルよりずっと大柄な彼は、ルイス・ブラウン警部である。ストロベリーブラウンの髪をくしゃくしゃと掻きながら、困ったようにリデルを見返している。
「どういう風の吹き回しだ? 何だって伯爵様がただの焼死体を欲しがる?」
 声を低め、ルイスは尋ねた。
 ルイスがハングマン伯爵との窓口であることは、警察署内では公然の秘密である。これまでも何度か変死体が警察からゼロの元に運ばれ――そうして彼の手により「暴かれ」て――何らかの、しばしば非常に重要な手掛かりを添えられ、戻ってきた。だからといって、警察内部のゼロへの印象が良いというわけではない。ゼロの行為は神への冒涜だと考える者は、ルイス周辺にも多い。だからこそ、ルイスがゼロとの交渉を一手に引き受けさせられているのだ。彼自身はそれを苦にはしていないから、そのこと自体は別に構わないのだが――しかし、ゼロの力を借りておきながらその存在を忌避する矛盾には、苛立ちを感じずにはおられない。
 ハングマン伯爵の代理であるリデルのことも、周囲の人間は不自然なまでに無視を決め込んでいる。だが、彼はそんなことには全く頓着する様子もなく、うっすらと微笑んでいた。
「理由は存じ上げません。ただ、ゼロ様がそのようにしろと仰ったので」
「……あのな」
 二人を遠巻きにして興味津々の視線を向けている同僚らに背を向け、ルイスはリデルに耳打ちをした。
「クラウディアのいた花屋と懇意にしていたという教会が、彼女らを弔ってやりたいと言ってきている。彼女に身寄りはないから遺体も引き取ると」
「ほう」
 リデルは目を細めた。
「自殺を禁じているはずの教会が、たかが花屋の娘に? 随分と手厚いことですね」
「確かにな……でもまあ、そういうわけなんで、いくらお前の――ゼロの頼みとはいえ、そうやすやすとは」
「なるほど」
 不意に、ルイスははっとリデルの背後に視線をやった。そこにぼんやりと開く、暗い闇。
 一体いつの間に現れたのか、そこに佇んでいたのは、ゼロ・ハングマン伯爵そのひとであった。黒いコートの下には黒いスーツ。黒い髪に黒い瞳。血色の悪い肌。不吉で血生臭い、「首つりの伯爵」――。
 気付くと周囲にひとけはなく、どうやら皆はどこかへ散り散りに身を潜めてしまったものと見える。仮にも伯爵に対して失礼な応対だ、とルイスは内心で憮然とした。
「相変わらずのご歓待、痛み入ります」
 ぽつんと嫌味をつぶやいたあと、ゼロはぎょろりと目を上げる。
「その教会の話は初耳です。一体どちらの教会ですか?」
「それは言えない」
 無理を言わんでくれよ、と言いかけたルイスに、ゼロは首を横に振った。
「ルイス。私には確かめたいことがあります」
「確かめたいこと……?」
 クラウディアの遺体を手に入れて、彼が確かめたいということ。ルイスは手を額にあてた。
「でも遺体は、引き取られることになっていて……」
「代わりの遺体を用意します」
 ゼロはあっさりとそう言った。
「身元不明の若い女の遺体など、そこら中にある。焼死体なのだし、似た背格好のものを探して、同程度に焼いて、先方に引き渡せばいい」
「ええ?」
 ルイスは目を白黒させた。
「お前、何言って……」
「ルイス」
 ゼロはずい、と彼の顔を覗き込む。ルイスは一歩後ずさった。ゼロの黒い瞳が、引きつった表情のルイスを映している。
「心中は、二人でするものですよね?」
「そりゃあ……」
「では何故」
 ゼロは淡々と言葉を紡ぐ。
「クラウディアのことばかりが明るみに出て、彼女と運命をともにした男の名が出ないのでしょう? それも口止めがあったのですか? それとも、本当にわからない?」
「……わか、らないんだ。本当に」
 ルイスは弱々しく言った。ゼロはさらに追及する。
「クラウディアは、本当に心中したのでしょうか? したとすれば、誰と、何故?」
 ゼロの顔に開く二つの深淵が、ルイスを飲み込まんとするかのように迫ってくる。
「クラウディアの遺体を引き取りたいといった方々は、男の方については何と?」
「……そちらも、そのまま引き取ると言ってきている」
「ほう」
 ゼロは片側の眉を上げた。
「それは奇妙ですね? まるで、その男の方にも心当たりがあるか――もしくは、知り合いであるかのようだ」
「…………」
 ルイスは顎に手を当てて沈黙し、やがてゆっくりと顔を上げた。
「なんだってお前がこの件にやたらとご執心なのかはわからんが、確かに不可解な点はある。俺個人としては、お前があの遺体を調べたいというのを止めるつもりはない。だが……」
 ――代わりの遺体を使う、という、その発想は。
 ためらう彼の心情などまるで無視をして、ゼロはルイスを促した。
「ルイス。私は今まで、数々の貴方の依頼に応じてきたつもりですが?」
 その言葉に、ルイスはぐっと詰まる。確かに、その通りだ。自分は――自分たちは、いつだってゼロを体よく利用してきたのではないか。
「……わかった。この件は内密だぞ」
 結局のところ、ルイスはゼロに従わざるを得なかったのだった。

  × × ×

 クラウディア・イースト。
 彼女は非常に美しい娘であったと、誰もが口を揃えて言った。だがその美貌ゆえのトラブルに、彼女はいつも悩まされていたらしい。彼女は両親を流行病で早くに亡くし、叔父に引き取られた。成長するにつれ、従兄弟から執拗に迫られるようになった彼女は、やがて身一つで飛び出し、貴族の屋敷で下働きとして仕えるようになった。だがその先々で、彼女は様々な男に言い寄られ、時には暴力に晒され、やがて行き着いた先が、人のいい老夫婦の営む花屋だったのだという。だが、その花屋からも彼女は離れ――そして唐突に命を落とした。
 ルイスは訥々と彼女の身の上を語り、そして深くため息をつく。
「薄幸の美女、か……」
 ハングマン城の応接間。ゼロが彼女とその連れの男の遺体を地下で「解剖」する間、彼はここで待つことになったのである。
 彼の目の前には、城に仕える唯一のメイド、アリスの入れた紅茶。添えられていたビスケットをつまむと、ほろほろと口の中で溶けるバターの風味。いつもながら、この城で出される菓子はとても美味しい。
 壁際にはリデルが佇んでいる。向かいに座るようにルイスは勧めたのだが、「私は執事ですから」と一蹴された。
「なあ、なんでゼロはこの事件に興味を持ったんだろうな?」
 ルイスの言葉に、リデルは小首を傾げた。
「さあ、私には判りかねます」
「……お前にわからないんじゃ、俺にわかるわけもないか」
「…………」
「けど」
 ルイスは不意に顔を引き締める。
「確かに、男の方の素性がさっぱりわからないのは……気に入らない。心中する程の仲なら、彼女の交友関係からある程度は絞られるはずだし、そもそも行方不明になっているんだから、男の周囲の人間が騒いでもおかしくはないだろう。まあ、身寄りのない男なのかもしれんが、それにしても……」
「……死体は」
 リデルは、ぽつりという。
「我々には喋ってはくれませんが、ゼロ様に対しては雄弁なのでしょう。ゼロ様は、その声に耳を傾けておられる」
「……死者の声、か」
 ルイスは顔をしかめた。
「そんなものをひとりで聴き続けていたら、ゼロは――」
「ひとりではありません」
 リデルはきっぱりと言った。
「私たちは、あの方をひとりにはしません」
 ルイスはリデルの言葉に目を見開く。私たち、とリデルは言った。そこに含まれているのは、リデル自身と、恐らくはアリス。そして――自分もだ。自分も、ゼロをひとりにはしない。
「……そうだな」
 そして、ルイスは力なく微笑んだ。

 シャワーを浴び終えたゼロは、柔らかなタオルで体を包んだ。アリスの干したタオルはふんわりとして、どこかあたたかい。
 のろのろと衣服を身に着ける。髪は濡れたまま、シャツのボタンは掛け違っている。だが、ゼロが気に留める様子はなかった。
 ソファに座り、火があかあかと燃える暖炉の側へと裸足を突き出す。
「クラウディアは、殺された」
 つぶやく。
「しかし、誰が一体ふたりを――」
 数分後、部屋の様子を見に来たアリスに「風邪を引いてしまいます!」と大目玉を食らうまで――大急ぎで髪を拭われ、シャツをきちんと着せられ、靴下を履くように言われ、そうしてその後ようやくあたたかなお茶とお菓子を入れてもらうまで――ゼロはぼんやりと、炎を見つめて座り込んでいた。