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ベイビ・オブセション

 ルイス・ブラウン警部が馬車を駆ってハングマン城を訪れたのは、どんよりとした曇天の日であった。初夏の昼下がり、生ぬるい空気と湿度とが相俟って、じっとりとひとを不快にさせる気候である。
 首筋に滲んだ汗を拭いつつ、ルイスは城の応接室に通された。馬車に積んできた「死体」は、既に執事のリデルに引き渡してある。メイドのアリスの淹れてくれたお茶も、湯気の立つその様を見るとすぐに手を付ける気にはなれなかった。少し冷まして、それから飲もうと心に決める。熱かろうが味は美味いのだ、そのことは良く知っている。
 ほどなくして、城の主であるハングマン伯爵が姿を現した。ゼロ・ハングマン。不健康な顔色、無精に伸ばされた黒髪――そのくせ髭が伸びているところは見たことがないから、そこはリデルにうるさく言われているのかもしれない。シャツの首元は暑さのせいかだらしなく緩められ、姿勢もやや猫背で、それがより一層印象を悪いものにしている。……だが、いくら身なりを整えたとしてもこの当代のハングマン伯爵、いわゆる「首つりの伯爵」にまつわる血塗られた噂が払拭されるには足りないであろう。たとえ、そこに含まれている真実がどんなに僅かなものであったとしても。
 ゼロはルイスの向かいに座ると、それで、と話を切り出した。
「今回はどういった事件です?」
 ルイスはひとつ頷き、とつとつと語り始めた。
「最初はただの事故だと思われていたんだ――」
 噂の中の、数少ない真実――ハングマン城、通称「首つりの城」には死体が集う。ゼロ・ハングマン伯爵の手によって、その真の死因を暴かれるために。

  × × ×

 ロンドンの街角で辻馬車が人を撥ねた。その一報が警察にもたらされたのは、その日の早朝のことであった。馬車による事故そのものはそう珍しいことではない。近隣の署から出向いたスパイク・ラシュビーが目にしたのは、真っ青な顔で動揺する辻馬車の御者と、ぐったりとした小さな体――明らかに既に事切れている、幼い少女の遺体であった。
 早朝でもあり馬車に乗客はなかったが、あたりに何人かの目撃者はいた。彼らの証言は、御者のそれと全く一致していた――突然、少女が路地裏から飛び出してきて馬車に轢かれたのだ、と。御者の素行に不審な点はない。ラシュビーは事故として処理しようとして、はたと困惑したのだった。
 何故、こんな早朝に年端もいかぬ――見た目は十にもならぬような――少女がひとりきり、街をうろついていたのだろうか?
 ストリートチルドレンだというのならわかる。或いは、下町育ちであるとか。しかし、少女が身に着けていた洋服は明らかに高級な仕立てのものであった。ラシュビーには妹がいるが、彼女がこんな高価な衣服を身に着けているのを見たことがないし、もしいつか彼が娘を持ったとしても、決して買ってやることなどできないだろう。ふんだんにあしらわれたレースやフリル、小ぶりなペチコートの上にふんわりと広がったスカート。今となっては泥に塗れてより一層痛々しいが、それにしたってまるで小さなお姫様のようだ、とラシュビーは思う。少女は貴族か、または豪商の娘なのではないか? しかし、それなら何故彼女はたったひとりで早朝の街をふらふらと出歩いていたのか。
(しかも)
 とラシュビーは思った。
(この子は靴さえ履いていないではないか)
 その小さな足には、刺繍の施されたこれまた高価そうな靴下――今はそれも泥に塗れている――が履かされていたが、それに見合うような靴はラシュビーの見回った限り、どこにも落ちていなかった。
 どうにも不自然な事故だ。ラシュビーは首を捻り、一度署に戻った。念のため、少女の風貌に合致するような人探しの依頼がなかったかどうかを確認するためである。しかし――彼が半ば予想していた通り――そのようなものは存在していなかった。そして少女自身も、自分の身元を示すようなものは何も身に着けていなかった。
 ラシュビーは迷った結果、ロンドン警察へと連絡した。その結果、「首つりの伯爵」とのパイプを持つ、ルイス・ブラウンのところに話が回ってきたというわけだったのである……。

「なるほど、良い勘ですね」
 話を聞いてゼロは頷いた。彼の言うのはスパイク・ラシュビーのことだろう、とルイスは合点する。
「確かに奇妙な事故です。それだけお金の掛かっていそうな衣服を纏う少女の身元が分からないというのは、どうもにおいますね」
「そうなんだ。……けど」
 ルイスはやや汗ばんだ己の髪を掻いた。
「じゃあ、その子が見た目明らかにストリートチルドレンだったら誰も気にしなかったのかっていうと……それはそれでどうなんだって気もするがなあ……」
「……確かに貴方の言う通りです、ルイス」
 ゼロはひとくち茶を啜った。それは既によく冷めているだろう。ルイスもつられてカップを口に運ぶ。
「でもね。ひとは、他人の死に整合性を求めるものです――たとえばさっき貴方の言ったように、孤児が辻馬車に撥ねられても、それはそういうストーリーなのだと容易く納得することができます。朝早くから路地裏をうろついていて、うっかり馬車の前に飛び出して轢かれても、それは不自然ではない、あり得る話だと。もっといえば、わかりやすい悪人が不幸な目に遭って亡くなったとしたら、それは自業自得だと、整合性のとれたストーリーだと皆安心するのです。逆に」
 彼はその薄い唇を、己の舌で軽く舐めた。
「非のうちどころのない善人に不幸が襲い掛かってきたとしたら、どうでしょう? 皆それに同情するでしょうか? それとも、心の内のどこかで、その善人が何か不幸に見合う悪事を働いていたのではと邪推するでしょうか?」
 ルイスは眉を寄せる。
「そんな、わざわざ悪くとることなんてあるか……?」
「少なくとも、後者である方がひとは安心するでしょうね」
 ゼロは落ち着き払ったものだった。
「因果応報。あのひとは悪いことをしたから悪い目に遭ったのだ。自分は何も悪いことをしていないのだから大丈夫だ、と」
「実際はそんなことないと思うんだがなあ……」
 現実の事件を良く知るルイスであればこそ、そう思わざるを得ない。首を捻るルイスに、ゼロはごく僅かに微笑した。
「だからこそ、でしょう。実際、不幸や不運はひとを選んだりはしません。であるがゆえに、そうやってひとは不安と戦っているのです」
 ――人間なんてそういうものですよ、とゼロは突き放すように言った。
「…………」
 そうかもしれない、と不意にルイスは思った。「首つりの城」にまつわる噂も、それに近いものなのかもしれない。
 死を畏れ、死を忌避するがゆえに、死に近しくあるゼロ・ハングマンにはありもしない噂が並べ立てられている。まるで、ゼロがひとから遠ざかれば遠ざかるほど、死を自分たちから遠ざけることができるとでもいうように――実際は、そんなはずあるわけもないのに。
「ところで」
 とゼロは話を変えた。
「少女の身に着けていた衣服はありますか?」
「あ、……ああ」
 少しばかりぼうっとしていたルイスは、慌てて頷いた。ゼロは満足げに頷き返す。
「それなら、その衣服を売った店を探せるでしょう。彼女の身元に繋がる情報が得られるはずです」
「ふむ」
「警察で探すと警戒されるでしょうから……そうですね、ジムに頼みましょうか」
 ゼロの言うジムとは、ジェイムズ・ワインハウス――ロンドン市街に住む私立探偵である。ゼロの死体解剖とそこから導き出される死因究明の技術に魅せられたジェイムズは、半ば強引にゼロの「解剖」に立ち会いをねだり、その代償のようにゼロからの依頼を引き受けているらしい。彼をゼロに引き合わせたのはルイスだが、正直そんなにふたりの馬が合うとは思わなかった。ゼロもジェイムズも、それぞれに癖の強い男なのだが……それがかえって良かったのだろうか。まあ、友人が増えるのはいいことだ、とルイスは思う。
「では――そうですね、明日また来て頂けますか、ルイス」
 ゼロはそう言って立ち上がる。城の地下に向かうのだろう、とルイスは合点する。
「わかった」
「その時に、少女について何かわかればお伝えします。衣服のルートを辿るのも、それからにしましょう」
「ああ、よろしく頼む」
 ゼロはルイスを残したまま、足早に応接室を出ていく――扉のすぐ側に待機していたリデルに、「ジムを呼べ」と一言命じた。恭しく一礼したリデルは、ちらとルイスを見遣る。その翡翠の眼差しの冷ややかさに、ルイスははっとした。……そうだ、リデルはやはり許してはいないのだ。いつまでもゼロを死に――「死体」に縛り付ける一因である俺、否、俺たちのことを。
 それでも、とルイスはひとり言い訳のように呟いた。それでも俺たちは、ゼロが必要なのだ。そして、きっとゼロも。いや、それはさすがに自惚れが過ぎるだろうか? 自分もまたゼロに必要とされている、それはただの思い込みに過ぎないものだろうか……?

  × × ×

 翌日は雨であった。城を再訪したルイスに、アリスがやわらかなタオルを渡してくれた。ルイスはありがたく雨に濡れた衣服と、ついでに汗をも拭って、昨日通されたのと同じ応接室に向かった。既にその場にはゼロと、ジェイムズ・ワインハウスの姿がある。
「雨の中ご苦労だね、ルイス」
 にやりと笑うジェイムズに、ルイスは思わず眉を寄せた。――お前はこの城の主人じゃないだろうが。
「お前もそうじゃないのか、ジム」
「僕は昨日泊めていただいたから」
「あ、そう……」
 ちらりとゼロの顔を見るが、その無表情からは何も伺うことができなかった。だが、少なくともジェイムズの傍若無人さに嫌気がさしているということはなさそうだ。もしそうだとしたら、ゼロは決してジェイムズを己の城に入れはしないし、泊めるなどということも断じてあり得ない。この城は、ゼロにとって他人から己を護るためのものでもあるのだから。
「早速ですが」
 ゼロは手元の紙を繰った。そこには遺体のスケッチ――ルイスには直視できないようなものだが――と、ゼロのメモ書きが書かれている。
「少女は馬車に轢かれる少し前、誰かに首を絞められていました」
「何だって?」
 ルイスは思わず声を上げた。
「じゃあ、轢かれる前から既に……?」
 何者かが少女を絞殺し、そして馬車の前に放り出したとでもいうのか。
「いいえ、そうではありません」
 ゼロは首を横に振った。
「これは推測ですが……恐らく、首を絞められて気を失った少女を見て、絞めた相手は彼女が死んだと誤解したのでしょう。相手が何らかの理由で気絶した少女を置いたままその場を離れた、その間に彼女は意識を取り戻して逃げたのではないでしょうか」
「逃げている途中で、馬車に轢かれてしまったと……?」
「はい。彼女の直接的な死因は、馬に蹴られたことによる腹部臓器損傷です――正確には肝臓の断裂、膵損傷、脾破裂などを起こしていました。ほぼ即死だったでしょう」
「……なるほどな」
 ルイスは顔を歪めながら呟いた。――誰かから逃げているところだったというのなら、靴も履いていなかったのも頷ける。
「じゃあ、彼女の首を絞めたのはいったい誰なんだ?」
「誰かまでは同定できませんが、いくつかわかることはあります。男。おそらく右利き」
「右利き?」
「ええ、頸部に残っていた圧痕から推定しました」
 ゼロがすらすらと言い、その横でジェイムズがふんふんと己のメモを確認している。
「体格はあまり大きくはない。爪が長い。それから、言うまでもなく少女に着せていた衣服から、それなりの資産家でしょう」
「あの服は、首を絞めたやつが着せていた、と……?」
「そりゃあそうに決まっているさ、ルイス」
 ジェイムズが声を上げた。
「あんなものを娘に着せているような親だったら、我が子が行方不明になったら即座に大騒ぎして捜索にかかるだろうよ」
「最初から身元不明の死体にはならない、か……」
「まあ、親が子を殺そうとした、というケースも考えられはするんだがね。……なんていう顔をするんだいルイス、子殺しそのものはそう珍しいことじゃない。そうだろう?」
 と、ジェイムズはとんでもないことを付け加えた。ルイスは目を剥き、ゼロは肩をすくめる。
「そう……その可能性もありますね。ただ」
 ゼロは付け加えた。
「彼女の手足にはたくさんの古い小さな傷痕があったし、足の裏の皮膚も厚くなっていました。あれはいわゆる『お嬢様』の育ちではあり得ません。恐らくは下町育ち、ストリートチルドレンのようなものだったのではないかと」
「……なるほど」
「それじゃあ」
 ジェイムズは言って立ち上がる。
「僕の方で、彼女の着ていた衣服の購買ルートを探ってみるとしよう」
「お願いします」
 ゼロは座ったまま、彼を見上げもせずに言った。
「探していただきたい男の特徴は、昨日の通りです」
「ああ、わかっているとも」
 ジェイムズはそのエンペラー・グリーンの片目を軽く瞑ってみせる。
「そういうのは僕の得意分野だ。任せておきたまえ」
「はい。ああ、ルイスは少し待っていてください。また連絡します」
「……わかった」
 ――何だかよくわからんが、このふたりはそれなりに馬が合っているらしい。
 ちらと部屋の隅に佇むリデルを見遣る。リデルはルイスの視線に気付いているのかいないのか、どこか諦めたような顔で――それでもあたたかな温度でもって、己の主人を見つめていたのだった。