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ベイクド・ボーンズ

 ロンドンから少しばかり離れた、とある地方にあるそのミートパイ店は、街なかで並ぶもののないほど繁盛していた。どこも著しく値上げせざるを得ない中で、その店だけは以前と同じ安い値段でミートパイを売っているからである。味は確かに落ちた、だがそれがなんだ? お腹いっぱい食べられれば、それでいいではないか。今はどこも品薄で、しかも値は高くなる一方である。それならば、少しばかり不味いくらいのことは、市民にとって大した問題ではなかった。
 その日も店内は客でごった返していた。店主のアーロン・オズワルドは忙しく接客や焼き上がったパイの品出しに追われ、妻のカーミラ・オズワルドも奥のオーブンに付きっきりになっている。
 ――そこに、ひとりの客がふらりと現れた。
 その衣装は黒っぽい目立たぬ色合いでありながら、明らかに仕立ての良い生地と裁断であり、その男の痩せぎすの身体にぴったりと合っていた。ぎょろりとした目が、店に並んだミートパイをじろじろと品定めするように見ている。変な客だな、とアーロンは思った。
「お客さん」
 生まれてこの方この街に暮らしているが、こんな男は見たことがない。アーロンは客を眺めながら、男にそっと声を掛けた。
「このあたりじゃ見ない顔だが……どこから来なさったね?」
 男はちらとアーロンを眺めたが、すぐにミートパイに視線を戻した。なんでえ、いけ好かねえ。アーロンは舌打ちを堪えて、もう一度声を掛ける――。
「うちのミートパイをご所望で?」
「これは、何の肉です?」
 それは細くはあったが、よく通る声であった。店内が一瞬、しんと静まり返る。
「は……?」
 アーロンは思わず唖然と聞き返す。
 男はミートパイを指差して、平然と繰り返した。
「このパイは、何の肉を使っているのですか?」
「商売上の秘密だ、教えらんねえな」
 アーロンは肩をそびやかし、言った。店内の客が何事かとふたりのやり取りに聞き耳をたてている。アーロンの背筋に冷たい汗がびっしりと浮かんでいた。
「そうですか」
 男は小首を傾げた。
「というのも、最近このあたりの肉屋が訝しんでいるんですよね……貴方の店が、肉を全く買わなくなったと。こんなにもたくさんのミートパイを焼いているのに」
「お客さん……営業妨害のつもりなら」
「私はただ質問しているだけですよ?」
 黒目をぎょろつかせ、男は白々しく言い放った。
「貴方の方こそ……何をそんなに恐れているのです?」
「なっ……」
「ちょっと」
 お得意のうちのひとりの女が、やや不安そうにアーロンに問うた。
「アーロン、何をそんなに答え渋ってるの?」
「こんな時期だ、ちょっとばかり妙な獣の肉を使ってたって文句は言わないよ?」
 別の女が、乾いた笑いを上げる。それを聞いたアーロンは僅かに余裕を取り戻し、そうして胸を張って男に向き直った。
「仕入れ先の肉屋をな、変えたんだ……ちと離れたところのやつさ。ちいっとばかしいろんなやつの肉が混ざってるもんでね、あんまりおおっぴらにはできねえってわけさ。けど、今は何しろ肉も小麦も高い。背に腹は変えられねえってやつよ。どこの肉屋かは、まあ企業秘密ってやつだなあ」
 さあ、わかったら帰んな。それとも買って行くつもりかい?
「いえ、結構です」
 男は首と横に振る。
 それと同時、店の中にどやどやと数人の男がなだれ込んできた。警察だ。それに気付いた客が、驚いたように悲鳴を上げる。
「アーロン・オズワルド」
 その先頭をきって現れたのはルイス・ブラウンであった。その背後には修道服を着たひとりの痩せた女が拘束され、警官に伴われている。
「この女を知っているな?」
「し、知らねえ……!」
 真っ青な顔で言うアーロンから顔を背け、女は呟いた。その頬には涙が伝っている。
「私が悪いのです……こんな不況では、あれほど大勢の子どもたちを養えない……! だから、私は……私は」

 この肉屋に、孤児たちを。

「……なんだって?」
 その言葉は、誰が漏らしたものだっただろうか。
 アーロンはがくりと膝をつき、客らはミートパイを放り出して店の外へと逃げ出した。自分たちの食べていたパイの正体を知り、絶望と悔悟と、そして罪の意識に襲われながら――。

 女はこの街の教会のシスターで、孤児院を管理していた。しかし、この食糧難を前にあっという間に資金繰りは悪化。寄付も減り、財産は底をついた。このままでは、彼女だけでなく子供たち全員が餓死してしまう――誰も救えない。シスターは必死に考え、そしてある恐ろしい計画を思いついた。同じく経営に頭を悩ませていたミートパイ屋のオズワルド夫妻と結託し、彼女は恐るべき「口減らし」を実行したのである……。

「仕方ねえだろ!」
 アーロンは叫ぶ。
「俺たちだってやりたくはなかった……けど、やらなきゃ生きていけなかった! 仕方なかったんだ!」

 ――皆、食ったくせに!!

 アーロン・オズワルドとシスターは逮捕された。カーミラ・オズワルドは警官が踏み込んだ時には自分の所業の露見を悟り、肉切り包丁を腹に突き立て自死を遂げていた。

「…………」
 人のいなくなったミートパイ屋の中、黒い男は――ゼロ・ハングマンはぐるりを見回した。
「リデル」
 その名を呼ぶと、どこからともなく彼の執事が現れる。
「はい」
「……あの骨と、ここにある――肉を」
 ひとの、しかも小さな子供のものばかりであったあの骨を。そして、原型も留めずに焼かれてしまった、この肉たちを。
「せめて、共に葬ってやろう」
 リデルは頷いた。
「手配させましょう」
「…………」
 ゼロは目を伏せ、そしてゆっくりと店の外に出る――ひとけのなくなったその店の周りには、おそらくは客の残したのであろう吐瀉物が点、点、と散らばっていた。鼻をつく、酸い匂い。
 ――あの肉たちは吐き出され、誰かの血肉となることも許されなかったのだ。
 ゼロは街外れに停めた己の馬車に向かい、足早に歩き出したのであった。

  × × ×

 郊外の一地方で起こったその事件は、ロンドンだけでなくイングランド中を震撼させた。
 経営に行き詰まった孤児院のシスターが、己のもとにいる子供を「食材」としてミートパイ屋に「卸す」などと……。
 皮肉なことに、それをきっかけとして政府は次々に経済政策を打ち出した――。しばらく時間は掛かったものの、やがて徐々に市場の混乱は収束に向かったのだった。

 お茶を持って現れたアリスに、ゼロはぽつりと言った。
「貴方は給料の中から、あの孤児院にずっと寄付を続けているのでしょう?」
「……ご存知だったのですね」
 アリスは目を伏せる。その通りだった。それが、自分を育ててくれたあの場所へのせめてもの恩返しだと信じて。特に最近は、なんとかやりくりをしてできるだけ多額のお金を送っていた。孤児たちが、或いはシスターたちが、飢えることのないように。
 ――それを知っていたから、ゼロ様は給料を上げようと仰ってくださったのか。
「すみません、お気遣い頂いて……」
「いいえ」
 ゼロは首を横に振る。
「ただ、私がそうしたいのです」

 貴方の居た場所を、貴方を育んだ場所を、貴方の愛した場所を――貴方を愛した場所を。守りたいと、そう願ってやまないのだ。

「ゼロ様」
 アリスは困ったように微笑んだ。
「私……ゼロ様のご恩には、どうしたって報いることができないくらい、感謝しているんです」
 ――ですから。
「どうしてもお腹が減って、そこに私しか食べるものがなかったら」
 ――食べられたって、私は構わない。
「…………」
 ゼロは大きく目を見開いた。
「すみません、変な喩えしかできなくて……」
 アリスは顔を伏せる。
「それに……私なんて、きっと美味しくないし」
「……それはどうでしょうね?」
 ゼロがぽつりと呟き、アリスの手をとってかぷりとその指先に噛みついた。――まるで猫の甘噛みのようで、少しも痛くはない。だが、アリスは驚いてその場に硬直する。
「きっと、美味しいと思いますよ?」
 真顔で見上げてくる彼の顔をどんな表情で見ればいいのかわからず、アリスはただ呆然と目を瞬かせることしかできなかった。

 ――それでも、私は。
 ゼロは思う。
 ――貴方を喪ってしまうくらいなら、むしろ。
「やはり、貴方の血肉になることを選びますよ」
 アリスのほっそりとした甘い香りの指に唇を寄せ、ゼロはそう呟くのだった。