instagram

ベイクド・ボーンズ

 その年、イングランドは大規模な異常気象に見舞われた。地方によっては豪雨、また別の地方では旱魃、冷夏。都市部であるロンドンやその近郊に佇むハングマン城には当初大きな影響はなかったのだが、それでも城のメイドであるアリスは困ったように言ったものである。
「穀物やお肉が随分と高くなっていますわ……」
「そうですね」
 ハングマン家の財政の一切を担っている執事のリデルは、彼女に応えて言う。
「当家は早々に農地を手放しましたから、収入に関しては心配ありませんが……」
 かつてハングマン伯爵家が所有していた広大な農地は、産業革命以降社会構造の変化をみながら次々に売却され、現在伯爵家の収入のほとんどは既に投資によるものである。旧態依然とした「領主」としての貴族の在り方に固執した者たちが没落の憂き目を見る中、早々に見切りをつけて農地収入からの脱却をはかったこと――ハングマン伯爵家や同様の行動を取った貴族らには先見の明があったといえよう。
「ですから、お買い物は遠慮なくどうぞ」
 アリスは思わず顔を赤らめた。――つい孤児院にいた頃の癖であれこれと節約しようとしてしまう彼女の行動を、リデルに悟られてしまったのだと思ったのである。
「賢く買い物をしようとするのはいいことですよ、アリス」
 リデルは微笑んだ。
「特に、ゼロ様には多少我慢することも覚えていただかなくては――特に甘いものに関してはね」
 ケーキやお菓子に目のない主人を思い、彼らは顔を見合わせて笑みを交わした。

 ゼロ・ハングマン――首つりの伯爵。
 その不吉で不名誉な二つ名も、本人は全く気にかける様子はなかった。少なくとも、表向きには。
 彼が外出することはほとんどなく、かといって訪問客もない。この城は、ゼロとリデルとアリスを包んで半ば閉ざされているような場所だった――だからといって、アリスを閉じ込めるものではない。彼女に対しては、いつだって扉は開かれている。彼女が離れることを望みさえすれば、きっと。
 その日新聞に隅々まで目を通しながら、お茶のお代わりを淹れにきたアリスにゼロはぽつりと言った。
「アリス。今月から少しお給金を引き上げようと思うのですが」
「……はい?」
 アリスは住み込みのメイドである。言うまでもなく衣食住のほとんどはハングマン家の家計で賄われているのだが、そもそもハングマン家から彼女に支払われている金額は相場よりもかなり多いものだ。恐らくはそれまでのメイドが城や伯爵にまつわる噂に恐れをなして次々に辞め、求人を出しても希望者がなかなか見つからなくなったためだろう。それを、何故わざわざ引き上げるなどと……?
「何故、そのような?」
 アリスはゼロの顔を失礼にならない程度に覗き込む。ゼロはその不健康な顔色のなかでぎょろりとした黒目を蠢かせた。
「……いえ、別に特に深い意味は」
 妙な間が気にはなったが、かといって問い詰めるのも不躾だ。
「それは……ゼロ様のお考えに従いますけれど。でも」
 言いかけた言葉を、アリスははっと飲み込む。
「でも?」
 促すゼロに、慌ててアリスは首を横に振った。
「いいえ、なんでも」
「そうですか」
 ゼロがあっさりそう言って話を打ち切ったので、アリスはほっと息をついた。
 ――でも、なんだか私、ここにいるのが当たり前すぎて……自分が雇われているのだということをふと忘れそうになってしまうのです。
 そんなことは、言ってはならない。
 この城をまるで自分の「ホーム」のように感じてしまっているのだと、リデルやゼロを家族のように思っているなどと。そんなこと、決して言ってはならないし、そう思っていることも悟られてはならない。
 けれど――思うことは。思うことだけならば。許されるだろうか。
「…………」
 ゼロの空になったカップを、湯気の立つあたたかなお茶で満たしながら、アリスはその長い前髪に覆われたゼロの額をちらと見て、そしてそうっと目を伏せたのだった。

  × × ×

 長く続いた異常気象の影響で、食糧難に陥る地域の報も聞かれるようになった。市場に出回る食料品が激減し、価格の高騰が続いた。輸入農産物も、すぐに市場に行き渡るほどの量はない。路頭に迷う者や街角で身を売る女の姿が徐々に目立つようになり、スリが増え治安が乱れ――市民生活に目に見えて明らかな影響が見られるようになった頃。ロンドン市警からの依頼を携えた男が、ハングマン城に現れた。
 ルイス・ブラウン。
 リデルの大学時代の先輩にあたる、ストロベリーブラウンの髪が印象的な大柄の男だ。ゼロとは旧知の仲である。それを市警に利用されて、彼は何かとゼロに厄介事を持ち込んでくるのだった。――つまりは、「死体」、そうでなくとも「死」の絡んだトラブルを。
 アリスも既にルイスのことはよく知っている。彼がどういった時に現れるのかも含めて――それでも彼女は、己の主人の数少ない知己を精一杯にもてなそうとするのだった。
 応接室に通されたルイスと、彼に向き合いソファに深く腰を掛けているゼロ、ふたりの前にティーセットと焼きたてであろうビスケットとを置き、アリスがその場を辞する。それを待っていたルイスは、ようやく――きっとゼロは彼女に「死体」の話など聞かせたくはないだろうし、自分も同じである――口を開いた。
「焼けた骨の一部から、その動物種を類推することは可能か?」
「……答えにはならないかもしれませんが、その骨によりますね」
 ゼロは顔色ひとつ変えずに答えた。
「基本的に、人の骨は人の骨として区別は可能です。けれど、細かく砕かれていたり焼けてぼろぼろになっていたりすると、場合によっては難しいこともある」
 しかし、何故そんなことを? と言いたげにゼロの漆黒の眼差しがルイスを上目遣いに見つめている。ルイスは軽く咳払いをした。そんなことをしても、彼の視線は振り払えないのだが。
「実は――その、あるところで大量に人が、いや人の骨が焼かれているのではないか、という疑惑があってな」
「ほう?」
 ゼロがカップを持ち上げながら声を上げた。
「大量なのであれば、片っ端からその焼け残りを取り出すことは可能ですか? それならば何とか類推することができるかもしれません」
「……やってくれるのか?」
「構いませんよ」
 ゼロはあっさりと答え、そしてふとその瞼を半ば伏せた。
「……焼けた骨ならば、血の臭いも少しは和らいでいるかもしれませんね」
「…………」
 そういう彼の目線の先は、この城唯一のメイドの焼き上げたビスケットへと向かっている。
 ゼロ・ハングマン。「首つりの伯爵」がひとびとに忌避される理由、そのひとつが彼の異常な趣味の存在であった。彼は死体に詳しい――警察や司法すらも彼ほ知見には一目置かざるを得ないほどに、熟知している。それは、彼が数多の死体を己の手で解剖し暴いているからに他ならない。
 ゼロは物言わぬ死体を通し、その失われてしまった、奪われてしまった生前の声に、その痕跡を辿りただ耳を傾けたいだけだ。しかしそれを理解している人の数はあまりにも少ないし、ゼロ自身も他人に理解してもらうための努力を放棄している。長くゼロに仕えているリデルと、同じくらい長く彼を見知っているルイス、そして――彼女は、どうなのだろう。少なくとも、ゼロは彼女に血の臭いを気取られることを避けたいと思っているようではあるが。
 ふと、ゼロが顔を上げた。その面に浮かんでいるのは、いつもと変わらぬ無表情である。
「骨。あるだけ地下に運び込んで下さい。できるだけ形の残っているものを探しますから、あまり乱暴に扱わないように」
「ああ、できるだけ丁重に扱うとするよ」
 ルイスは頷き、ビスケットを一枚口に運んだ。ジャムの練りこまれた生地は甘く、きっと甘党のゼロのためのレシピなのだろう。
「ところで」
 と、ゼロが付け加えた。
「肝心なことを聞き忘れていました――」
 その先に続く言葉を予想して、ルイスは思わず噎せこむ。しかしゼロは容赦なく質問を続けた。
「その骨は、一体どこから見つかったものなのです?」

  × × ×

 ルイスがハングマン城を訪れてから、数日の後。
 アリスはゼロの書斎の掃除をしていた。彼は今、恐らく「地下」に――「地下」の、「死体解剖」の為の部屋にいる。アリスは、デスクの上に乱雑に積まれた本の類にはできるだけ手を触れないようにして、そっと周りにはたきをかけ、かたくしぼった雑巾でランプシェードや棚を拭う。床を掃き清め、さてそろそろ書斎を出ようとした、その時。彼女のロングスカートに触れたのか、ぐらりと箒が揺れて倒れた。その柄が、積まれていた本を床に薙ぎ倒す。
「あっ……!」
 アリスは慌てて本を拾おうと腰をかがめた。――ちらと、その開いた中身が見える。
 一瞬、そこに描かれているものがなんなのか、アリスにはわからなかった。ぴたりと手を止め、凍りつく――骨? 肉? そこにまとわりつく線維のようなものは、一体……。
「アリス」
 ふわりと背後からソープの匂いが香ってきたかと思うと、アリスの目が何かによって塞がれた。
 声でわかる。ゼロだ。彼が、彼女の横に屈んでその手をアリスの顔の前にやり、視線を遮っている。
「すみません、ゼロ様」
 アリスは上擦った声で謝罪を口にした。
「私、お掃除道具を倒してしまって……ご本を床に」
「気にしなくて結構ですよ」
 ゼロはアリスの目元から手を退けることなく、言った。そうして、拾おうと本に伸ばしていた彼女の手をもう片方の手でとり、退けさせる。その指先は決して濡れてはいなかったが、どこかしっとりと水気を纏ったような肌――ああ、ゼロ様はシャワーを浴びておられたのだ、とアリスは察する。
 ぱたん、と厚みのある本の閉じる音。
「さあ、アリス。お茶を淹れて頂けませんか」
 ゼロはアリスの眼前から手を離した。やはり、先程まで開いていた本は閉じられている。表紙にはタイトルが箔押しされていた。――「解剖学総説」。
「…………」
 アリスは何度か瞬きをして、ゼロの方をちらと見遣った。
 ゼロはいつもどおりの無表情で、しかしどこか少し心配そうに彼女を見つめている。首にはタオルが掛かっているが、髪はやはりじっとりと濡れたままであった。
「その前に――」
 アリスは微笑む。きっと、うまく笑えたと思う。
「髪を拭かないといけませんね、ゼロ様」
 ――そのままではご本を濡らしてしまいますから。
「はあ」
「ご本、申し訳ありませんでした」
「いいえ……」
 ゼロは床に散乱した本を手早くかき集め、デスクの上に積み上げた。
「片付けるようにとリデルに口煩く言われているのに、散らかしていた私が悪いのです」
「……ふふっ」
 アリスは思わず笑みを零した。あれこれ小言を言うリデルと、それを聞いているようで聞いていないゼロ。そのやりとりは、既に彼女のよく見慣れたものである。自分より年上の男二人に使う形容詞ではないかもしれないが、何とも微笑ましい――。
 アリスはゼロを椅子に腰掛けさせ、その背後に立ってタオルで髪を包んだ。
「ねえ、アリス」
 なされるがままになりながら、ゼロはぼそりと言った。
「なんです?」
「人は牛や羊などの動物を食べますよね」
「え……ええ」
 アリスは頷く。確かに、彼女は毎日のようにそれらを調理して食卓に並べていた。
「獣の中には、人を襲って食べてしまうものもいる」
「……はい」
 無論、獣には悪気などない。空腹で、そこにたまたま食料となり得る人間と遭遇してしまっただけ。ただそれだけのことだ。
「……それなら」
 ゼロは躊躇いがちに、それでもぽつりと呟いた。
「人が飢えた時……そしてそこにたまたま人同士しかいなかったとしたら」
 ――人が人を食べることは、許されるのでしょうか。
「え……?」
 アリスは戸惑ったように呟いた。
「……それとも、皆で餓死することを選ぶべきなのでしょうか。それなら、先に死んだものの肉を口にして生き延びることは? どうでしょう」
「…………」
 暫しの後にゼロの台詞を理解して、アリスは絶句する。
「……わ、わかりま、せん……!」
 震える声を押し出す。――怖い。そんなこと、考えるだけで恐ろしい。
 誰かを――自分と同じ人間である誰かを食べるくらいなら、私は死んだほうがいい。
「わ、わたしは……っ、そんな……」
 でも――もし、ゼロ様がその状況で死を選ばれたら、私は……。
 アリスはぐっと唇を噛みしめる。私は自分勝手だ。ゼロ様には生きていて欲しい、どんな罪を犯しても――どんなことがあっても。私は、この方にだけは生きていて欲しい。
「…………っ」
「アリス」
 ゼロが困ったような声音で名を呼んだ。
「すみません。変なことを言いました」
 タオルの上からいつの間にか止まってしまった手を退けさせて、ゼロは振り返る。その漆黒の眼差しに、アリスはほっと息をついた。何故か、彼の顔を見るとどうしようもなく安心する。
「でもね、アリス」
 ゼロは僅かにその両の目を細めた。
「私は、貴方の血肉になら、なったって構わない」
「……え?」
「…………」
 ゼロはそれ以上は自分の台詞を説明しようとはせず、ただ彼女にお茶を促したのみであった。