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ブラッドレス・ヴァンパイヤ

「よいしょ……っと」
「あの……アリス?」
 脚立によじ登って窓枠にリースのごとくニンニクを飾り付けていたアリスに、ゼロ・ハングマン伯爵は控えめに声を掛けた。
「何をしているんですか……?」
「ヴァンパイヤ除けですっ」
「はあ……」
 アリスが見下ろすと、ゼロは何故か困ったように彼女から視線を逸らしていた。
「最近、吸血鬼殺人が続いていますから!」
 吸血鬼殺人。それは、毎日のように新聞をセンセーショナルに賑わせている事件の俗称である。ロンドンの裏路地で血の気のまるでない死体が立て続けに見つかったことからついたもので、しかも死体の首筋には噛み痕とみられる穴すら残っていたという。被害者はすべて若年女性──つまりは娼婦たちだった。警察は殺人事件として捜査しているというが、市民たちは皆ヴァンパイヤの仕業だと信じて疑っていない。アリスも実はそのひとりだった。
「ああ、それなら」
 ゼロはふ、と笑みを浮かべた。
「あれはヴァンパイヤなんかの仕業じゃありませんから、安心して下さい」
「へ?」
 アリスは手を止めて振り返る。ゼロは彼女を見上げ、慌てて再び目を逸らした。
「……そんなことより」
「何ですか?」
「下着が見えています、アリス」
「ええええっ?!」
 ニンニクを抱えたまま身をよじったアリスはバランスを崩し、大きくのけぞった。──落ちる!!
 ゼロがはっと立ち上がった。
「危ない!!」
「きゃあああああっ?!」
 駆け寄ったゼロが、アリスを抱き止めようと腕を広げる。しかし華奢な彼では落下するアリスの勢いを受け止めきれない。もろともに床に倒れ込んだ。
「ぐえ」
 アリスの下から、かえるが潰れたような声。
「…………」
 アリスは閉じていた目を恐る恐る開ける。彼女はちょうど、ゼロの胸に抱かれるような形で床に伏していた。
「す、すみません!」
 アリスは跳ね起き、自分の下で仰向けに転がっているゼロの顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?! 頭、打ちませんでした?!」
「え……ええ」
 ゼロは横になったまま、自分の腹の上にぺたんと腰を下ろしているアリスを見上げた。
「下、絨毯ですから。そんなに痛くありませんでしたよ」
「よ、良かった……」
 アリスはほっと息をつく。――そのとき、部屋の扉が開いた。
「おや」
 ゼロとアリスは、揃って声の主を見遣る。執事のリデルが、目を丸くして立っていた。彼の目に映るのは、床に寝ている主人と、彼に折り重なっているメイド。リデルはこほん、と咳払いをしてふたりに背を向けた。
「これは私としたことが……お邪魔しました」
「ま、待てリデル、誤解……」
 ゼロの弁解も聞かず、扉は再びぱたんと閉ざされる。
「…………」
 ふたりは気まずい沈黙とニンニク臭の中に取り残された。

  × × ×

 結局アリスがリデルの元に走って誤解を解き、無事にお茶の時間を迎えることができた。ニンニクは既に片付けられ、ゼロの部屋にはケーキの甘い匂いが漂っている。
 ゼロはソファに腰掛け、ブルーベリータルトにフォークを突き立てた。
「あの、さっきのお話ですけど」
 傍らに控えるアリスの声に、ゼロはちらりと視線を動かす。
「さっきの?」
「吸血鬼殺人の話です」
「ああ」
 ゼロはこぼれ落ちそうなほどブルーベリーがたっぷりと載ったタルト生地を、口いっぱいにほおばった。
「ほほふぁえ、ふひふふぁひふぁひへ」
「あの、食べてからでいいです……」
 ゼロはしばらくもぐもぐとした後お茶を一口飲み、ふうと息をつく。
「この前、ルイスが来ましてね」
「……ああ」
 アリスはうなずいた。ルイス・ブラウン。ロンドン警察に勤める、ゼロの旧友である。だが彼がハングマン城に訪れる時には、大抵警察からの依頼を持ってくる。──変死体の解剖の、依頼だ。
「それは、吸血鬼殺人の……ですか?」
「ええ」
 ゼロは平然とした顔でタルトを食べ続けている。
「確かに、首筋に噛み痕のように見えるふたつの穴はありましたが、あれは全然頸動脈には達していません。あの穴じゃ、血を吸い出すことなんて不可能ですね」
「で、でも、死体には血がなかったって……」
「本当の傷は、別の場所にあったんですよ」
 アリスは目を瞬かせた。ゼロはフォークをくわえ、口の端だけでにやりと笑う。
「股の付け根のところに、動脈まで達するような傷がありました。衣服で隠れるところですし、きちんと縫い合わせてあったのでわかりにくくはなっていましたが」
「ぬ、縫い……?」
 痛そう、と顔をしかめるアリスに、ゼロは気のない様子で、そうですね、とつぶやいた。
「まあでも、傷を縫われている頃には死んでいたでしょうね。血を抜かれている時は、まだ生きていたようですが」
「え……」
 アリスは息を飲む。
「生前ついた傷と死後についた傷では、違いがあるんですよ。ちゃんと見分けられるようになっているんです」
 場違いなほど穏やかな、ゼロの声。
「…………」
 アリスの腕が細かく震え、ポットが小さく音を立てた。ゼロははっと振り返り、彼女の表情を見て顔を曇らせる。
「……すみません。ちょっと言い過ぎました」
「いいえ」
 アリスは青い顔で微笑んだ。
「私がお聞きしたんですし……教えて下さってありがとうございました」
「アリス」
 ゼロは心配げに彼女を見上げる。
「あの、本当に無理をしないで」
「大丈夫です」
 アリスは首を横に振った。
「ちゃんと、少しずつ慣れます」
「え?」
 ゼロは不思議そうな顔をする。アリスはゆっくりと語った。
「私はゼロ様にお仕えするメイドなんですから、ちゃんと慣れていかないと」
「でもアリス、そんな必要は……」
「私がそうしたいんです」
 アリスはきっぱりと言った。
「私はメイドなのに、ゼロ様に気を遣っていただくのは申し訳ありませんから」
「…………」
「ゼロ様が、私には何の遠慮もしなくていいようになりたいんです」
 それはアリスのメイドとしてのプロ意識なのか、それともゼロに対する何か別の感情なのか、アリス自身にもよくわからなかった。ただ、いつまでも他人行儀なのは嫌だった。リデルは、きっとゼロの全てを受け入れている。長年ゼロと仕えている彼と同じようにはそう簡単にいかないだろうが、近い存在にはなりたい。
 ゼロはぽつりとつぶやいた。
「アリスは、そのままで十分ですよ」
「え……?」
「アリスは、世界一のメイドです。私が保証します」
 ゼロはいつも無愛想ではあるが、決して嘘はつかない。そのことを、既にアリスは良く知っていた。
「…………」
 アリスは顔が赤らむのを感じる。──もう、先ほど彼女を襲った不快感は跡形もなく消えていた。

  × × ×

 数日後、ハングマン城に現れたルイス・ブラウンはいやに憮然としていた。アリスの淹れたお茶にも手をつけず、眉間にしわを寄せて押し黙っている。
 ゼロはそんなルイスの表情には気を止める様子もなく、カップをゆっくりと傾けた。温かいお茶を一口飲み下した後、口を開く。
「何かあったんですか?」
「例の、吸血鬼殺人。捜査打ち切りだとさ」
「ほう?」
 ゼロは眉を上げた。
「それはまたどうして」
「さあな。さる筋からのお達しだとさ」
「そうですか……。上層部は何と?」
 ゼロは目を伏せる。ルイスはようやくカップに手をつけた。
「被害者は全員娼婦、身寄りのない者たちばかりだしな。これ以上被害者が増えないようなら、まあいいだろうってさ」
「娼婦の命よりさる筋の意向を優先、というわけですか。わかりやすくて大変結構です」
 ゼロはふ、と笑みを浮かべた。
「例えば私が署長を呼びつけて捜査の続行を命じたら、一体どうするのでしょうね?」
「それは……」
 ルイスは口ごもった。──つい忘れそうになるが、目の前のこの男はれっきとした伯爵なのである。さる筋とやらが伯爵家より高位であるならば彼の要請は無駄に終わるだろうが、そうでなければ……いや、そもそも伯爵より高位といえばかなり限られる。それがわかるだけでも、無駄にはならない。
「まあ、そんなことをするつもりはありませんけど」
だが、ゼロはあっさりとそう言った。ルイスは拍子抜けして彼を見つめる。
「どうやらさる筋とやらには、これ以上殺人が起きない自信があるようですし」
「犯人は内々に処理されたのかな?」
 ゼロは曖昧に首を横に振った。
「そもそも、犯人は何のために娼婦たちを殺したのでしょうか? しかもわざわざ吸血鬼の仕業に見せかけるようなことまでして」
「それは……」
 ルイスは少し口ごもった後、ゆっくりと口を開いた。
「自分に嫌疑が掛からないようにするため……か?」
「犯人は警察に働きかけることができるほどの権力者につてを持っているんですよ? 疑われたとしても、もみ消せるはずです」
「それもそうだよな」
 ルイスは腕を組む。
「吸血鬼みたく装ったから、こんな騒ぎになったわけだ。ただ殺しただけなら、ここまでは……」
「目的が、血液だったとしたら?」
「へ?」
「吸血鬼の仕業のように装ったのは、それだけの意味があるはずです」
 ゼロは穏やかに言った。
「つまり、犯人は被害者らの血液が欲しかった。……でも、血液のない死体なんてどうしたって目立ちます。それならいっそ」
「吸血鬼の仕業に見せかけた方が、犯人探しに繋がりにくい……か」
「ええ。おかげでうちがニンニク臭くなるところでしたよ」
「……は?」
「いえ、まあ、それはともかく」
 ゼロはあっさりと話を変えた。
「捜査打ち切りなら、仕方ありませんね」
「……お前」
 ルイスはじろりとゼロを見遣る。
「他にも、何か掴んでいるんじゃねえのか」
「掴む?」
 ゼロは両手を大きく広げてみせた。
「私は何も掴んでいませんが」
「……わかっててやってるだろう、お前は」
 ルイスはがくりと肩を落とし、お茶を飲み干す。
「しかし、血液なんか何に使ったんだろうなあ。ヴァンパイヤなら、食事に要るんだろうが」
「もし人間の血液しか飲めない者がいて、そのために人間を殺すのだとしたら」
 ゼロはつぶやく。
「それは我々が牛や豚を殺すのと何が違うのでしょうか」
「…………」
 ルイスは苦笑し、ゼロの肩を叩いた。
「ヴァンパイヤなんざ、人間の空想の産物だよ。あんまり深く考えるな」
「……はい」
 ゼロは頷く。だが、彼はどこか浮かぬ顔をしていた。