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ハードン・アニムス

 一台の馬車がハングマン城を訪れたのは、霧の深い朝のことであった。冬の寒さがややゆるんできたためか、馬の踏み分ける草むらも霜ではなく夜露に濡れている。
 やがて御者台から降り立ったのは、ひとりの男性――長いシルバーブロンドが印象的な、身なりの良い壮年の男であった。
 彼を出迎えたのは、ハングマン城の執事リデルである。
「随分とお急ぎだったのですね、ドクター」
「……積んできましたからね」
 ドクターと呼ばれた彼、デミアン・ロスチャイルドは短く答えた。その返答を耳にして、リデルがわずかに目を細める。
「そうですか。それでは先にお預かりしておきましょう」
「ああ」
 リデルは馬車の扉を開け、中を確認して呟いた。
「……子供?」
「ええ」
 デミアンは振り返ることもなく呟く。
「僕が持参したのは、まだ五歳の少女の『遺体』なのです――」

  × × ×

 早朝にも関わらず、既に客を迎え入れる準備は整えられていた。応接間の暖炉には、あかあかと火がくべられている。ソファには客であるデミアンと、城の主であるゼロ・ハングマン伯爵が座していた。ゼロは痩せぎすで、不健康そうな顔色をしているように見えるが、それはこの時間に限ったことではない。
「それで……? お話を聞かせて頂きましょうか」
 この城に仕える唯一のメイド、アリスがお茶とトーストをふたりの前に並べ終えて立ち去った後、ゼロはぽつりと言った。
「突然すみません」
 謝罪するデミアンに、ゼロは首を横に振る。
「ひとの死は大抵突然に訪れるものです――そうでしょう?」
「…………」
 デミアンは一瞬口ごもる。ゼロはそれに目ざとく気が付いたようだった。
「どうやら、以前より病んでいた方だったようですね?」
「……その通りです」
 ふう、とひとつ大きな息をついてデミアンは言った。
「彼女の名はシンディ・ソーントン。ソーントン家の三女でした」
 ソーントン家はロンドン郊外に広い農地を持つ名家である。現在の当主はザッカリー・ソントン。妻のヴァージニアとの間には三人の娘に恵まれた。しかし――。
「その三人の娘が次々に病に倒れたのです」
「病、ですか」
 ゼロが目を細めた。デミアンは手を伸ばし、紅茶のカップを手に取る。その深い色の水面に映る己の顔を、眺めるでもなくぼんやりと眺めているようだった。
「ええ」
「貴方が関わっていたということは、何か精神的な……?」
「その通りです」
 デミアンは首肯した。デミアン・ロスチャイルド――彼はロンドンにおける精神科領域医学の権威である。
「あとで僕の書いた診療記録の複製をお渡ししますよ――三人分ね」
「三人分?」
 ゼロは聞き返す。
「では、三姉妹とも同じような症状であったと……?」
「…………」
 デミアンは黙したが、その沈黙は何よりもゼロの問いを肯定していた。
「僕がソーントン家に呼ばれるようになったのは一年程前、三歳で発症した三女のシンディが四歳になった頃です。初めてソーントン家を訪れた時、既に長女のタニア――今まだ十一歳なのですが――はほとんど寝たきりの状態でした。意識は混濁していて発語もなく、時折痙攣発作を起こすだけ。かろうじて水分やスープは摂取させていたようですが、当然栄養失調の状態でした」
 その伏せられた目に蘇るのは、彼が見たソーントン家の惨状だろうか。
「次女のステファニーは八歳。彼女はタニアほど重症ではありませんでしたが、やはり痙攣発作をみとめました。寝たきりではなかったけれど、異常な攻撃性を見せ、明らかな知的障害がありました。ご両親に話を聞くと、タニアが発症してからしばらく経った頃、徐々に発達の退行を認めるようになったとのことです」
「発達の退行、ですか」
 ゼロは視線を上げてデミアンを見つめた。黒々とした虚ろな瞳がぎょろりとうごめく。
「三人とも、発症までの生来の発達に問題はなかった、ということですね?」
「そういうことです。異常が起こり始めた年齢はそれぞれ、タニアが七歳、ステファニーは五歳、シンディが一番早くて三歳ですが、それまでの生育歴に特に問題はありませんでした」
「…………」
「異常が起こり始めてからの経過は、細かなところは違っていますがよく似通っています。知的障害、発達退行、慢性的な痙攣発作。タニアはやがて意識障害を起こしましたが、ステファニーは意識はあるものの行動異常を伴っている。シンディは一番幼く評価の難しいところがありましたが、やはり先ほどの三つの症状は認めましたし、亡くなる十日程前からは意識障害を起こしてしまった」
「ご両親や家系に同様の症状を示した方はおられるのですか?」
 ゼロの問いに、デミアンは苦笑した。
「ええ……僕もそれは考えました。血縁に何か遺伝性の疾患があるのではないかということですよね? それを尋ねたらザッカリー氏には殴られそうになりましたが、奥様の取り成しで何とか答えてもらえましたよ。このような病気は他に聞いたことも見たこともない、だそうです」
「…………」
 それを聞いたゼロは、視線をデミアンから外して天井へと向けた。何か考え込むように、背を丸めて顎をさする。
「ご両親はお元気なのですよね?」
「……まあ、当然ながら憔悴してはおられますがね。少なくとも健康上明らかな異常はなさそうです。奥様が慢性的な頭痛や腹痛に悩んでおられるけれど、娘たちの症状とは明らかに違う」
「…………」
「シンディが亡くなるまで、ただ僕も手をこまねいていたわけではないのですよ。原因をあれこれ考えはしたし、薬物を用いての治療も試みた――しかし、究明には至らなかった。そればかりか、少しも快方に向かわせることさえ……」
 デミアンは悔しげにつぶやく。ゼロが口を開いた。
「今お話を聞いた限りで、最も疑わしいのは毒物ですね」
「…………」
 デミアンは口を噤み、ゼロを見つめる。ゼロは淡々と続けた。
「最初は遺伝性の疾患かと思いました――しかし、姉妹以外に発症者が全くいないというのは不自然です。無論、外聞を考えてソーントン家のひとびとがひた隠しにしている可能性もなきにしもあらずですが、貴方のことです、それなりに手を尽くして調べたことでしょう。それでも全く聞こえてこないというのは、やはりそれなりに意味のあることです。それに、もし今でも貴方がその可能性を一番に考えているのなら、わざわざご遺体を私のところに持ち込むことはしないでしょう。だって、それを明らかにしたところで残りの二人に対しても手の施しようがないのだから。違いますか?」
「……ええ、違いませんよ」
 デミアンがため息混じりに認める。
「そう――確かに僕は毒物を疑っています。でもね、ゼロ君」
 デミアンは首を横に振った。
「彼女らの食べ物は何度もチェックしました。水もね。そもそも料理人は何度か変わっているし、娘たちの世話係であるメイドも固定ではない。むしろ重労働に嫌気がさして入れ替わりは激しかった。古参の使用人といえばザッカリー氏の幼馴染でもある執事のハーシェル氏と、メイド頭のブレナンさん程度です」
「ご両親もいるでしょう?」
「実のご両親が? しかし……」
 言いかけて口を噤み、デミアンは苦笑した。
「そうですね、確かに実の親だからといって子を殺さないとは限らない」
 ――実の祖母に殺されそうになった、目の前のこの伯爵のように。
「まあ僕は警察ではないので、正直犯人が誰だとか、そんなことにあまり興味はないのですよ」
「……でしょうね」
 ゼロは頷く。
「僕が知りたいのは、彼女たちが何によって苦しんでいるのか――苦しんでいたのか。その苦しみを救う術があるのかどうか、それだけです」
「わかりました」
 ゼロは立ち上がった。
「まずは貴方の治療記録に目を通して、それから少しばかり毒物に関して復習してから地下に向かうことにします。時間が掛かるかもしれませんから、一度ご自宅にお帰りになって構いませんよ」
「……そうですね。診療もあるから、そうさせてもらいましょう」
 デミアンは言って、やや冷えたトーストに手を伸ばした。
「そういえば、ゼロ君」
「なんです?」
 足早に立ち去ろうとしていたゼロが、扉の前で足を止める。
「アリスさん、長く勤めて下さりそうですね」
 ――「首つりの城」に住む「首つりの伯爵」。その血腥く呪われた噂と、伯爵自身の奇妙な「趣味」とが災いし、この城にはリデル以外の使用人が居着いたことなどなかったというのに。
「よかったですね」
「…………」
 ゼロは振り向くことなく部屋を出て行った。しかし、その前に小さく「はい」と呟いたことを、デミアンは聞き逃しはしなかったのだった。

  × × ×

 ――書庫からごそごそと物音がする。
 ハングマン城のメイド、アリス・ウェーバーは首を傾げた。おそらく書庫にいるのは彼女の主であるゼロ・ハングマンだろう。しかし、ドアの隙間からは少しも灯が漏れていない。掃除の際に立ち入るからよく知っているのだが、書庫の窓には本を傷めないようにと厚いカーテンが掛けられていて、それを開けたとしても日当たりは決して良くはないし、今日は朝から霧がひどく濃く、日差しはのぞめない。
「……うーん」
 お邪魔をしてはいけない、しかしゼロが心配でもある。何しろ、彼女の主人は自分の身の回りのことについてはひどく不器用で無頓着なのだ。
 アリスは意を決してドアをノックした。
「ゼロ様? お邪魔してもよろしいでしょうか?」
 返事を待つ。しかし、音沙汰はない。
「入りますよ?」
 アリスはそうっとノブに手を掛け、ドアを開けた。
 ――果たして、薄暗がりの中にゼロはいた。彼女に背を向けて床に座り、その両脇にはうずたかく本が積み上げられている。暗くてタイトルは読めないが、専門書の類のようだ。
「ゼロ様」
 アリスはため息交じりにその名を呼んだ。
「暗いところで本を読んではいけないと、リデルさんにもあれほど……」
 しかし聞こえているのかいないのか、ゼロはただ手元の本のページを繰るばかりである。背を丸めているせいか、いつも以上にその背中が骨ばって見えた。
「…………」
 アリスはゼロに声を掛けるのを諦め、壁に掛かった燭台に火を灯した。続けて、テーブルの上に置かれていたランプにも火を灯し、ゼロの手元が影にならぬよう、彼の前方の床の上に置く。
 ぱっと明るくなった視界に気付いたか、ゼロは驚いたようにアリスを見上げた。
「アリス……?」
 アリスは苦笑して、はい、ゼロ様、と答えた。
「どうしたのですか、何故こんなところに」
 何やら物騒な内容の本だったのか、慌てたように手で紙面を隠そうとするゼロが可笑しい。ゼロがわざわざ書庫にこもっていたのはきっと今朝のドクターの訪問と関係しているのだろうから、わざわざアリスがその本を覗き込もうとするはずなどないのに。ゼロが趣味だと称する「死体の解剖」を通して警察やドクター、彼に助力を求めるひとびとに対応していることは、アリスにもよくよくわかっているし、そのことに今更怯えるアリスではない。……無論今だって死体そのものはとても怖いのだが、ゼロは決して怖くない。怖いはずがない。
「物音がするのに灯りの気配がなかったので、きっとゼロ様がまた暗いところで本をお読みになっているんだろうなあと思って」
 くすりと笑ってアリスが言うと、ゼロはきまり悪そうに頭を掻いた。
「ああ……そうですね、すみません……」
「床の上に座り込んでしまって、お体が冷えませんか?」
「大丈夫です」
「本当でしょうか」
 アリスは困ったように笑った。椅子の上のクッションを取り上げ、ゼロにその上に座るよう促す。椅子に座らせても良かったのだが、どうせ床の上の方が良いというだろう。それに、床に積まれたこの量の本を、書庫の机の上に並べるのも無理がありそうだし……。
「ゼロ様……ゼロ様がいろんな方のお力になっておられるのは、本当に素晴らしいことだとは思いますけれど」
「…………」
「ご自分のことも大切にして頂かないと」
「え……?」
 ゼロがぽかんとアリスを見上げる。アリスはそんなゼロを優しい眼差しで見つめていた。
「私たちを、あまり心配させないでくださいね?」
「…………」
「差し出がましいことを言って申し訳ありません」
 ぺこりと頭を下げ、アリスは言う。
「あとで火は消しにまいりますから」
「あ……はい」
 アリスが書庫を辞した後もしばらく、ゼロは彼女の閉じた扉をじっと見つめていた。