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トキシク・クレイドゥル

「…………」
 皿の上に半分以上残されたチョコレートケーキを見て、アリス・ウェーバーは目を瞬かせた。ゼロ・ハングマン伯爵ともあろうものがお茶の時間に出したお菓子を残すなど、前代未聞の出来事である。おそるおそる、尋ねてみた。
「……あの、お口にあいませんでしたか?」
「いいえ」
 顔を曇らせている彼女に、ゼロ・ハングマンは慌てたように首を横に振る。
「違います。とても美味しかったのです、けど」
「お腹の具合でも? お医者様を呼んだ方が良いでしょうか」
「要りません。大丈夫です。……少し、食欲がなくって」
「…………」
 心配そうに眉を寄せ、アリスはそっとゼロの前髪を指でかき上げた。そっと額に触れる。
「お熱は……なさそうですけれど」
「本当に、大丈夫ですよ。アリス」
 ゼロは彼女の手をやんわりと離させて、目を逸らした。
「残してしまって、すみません……」
「い、いいえ」
 アリスはばっと身を引き、ケーキ皿を手に取った。彼女の主人である伯爵には、無論お菓子を残す権利くらいある。メイドである自分が、無遠慮に問い詰めてはいけない。
「ディナーも控えめの方が良ければ、おっしゃってくださいね!」
「……ええ」
 ティーセットを持ってさがる彼女を見送り、ゼロは深いため息をついた。彼女に悪いことをしてしまったな。罪悪感が、彼の胸に重く圧し掛かる。
「…………」
 目を半ば閉じ、彼は今朝ハングマン城を訪れた警官、ルイス・ブラウンとの会話を思い出した。

  × × ×

「今朝な、ある男が出頭してきた」
 ルイスは彼には珍しく陰鬱な表情を見せていた。
「年は五十歳、牧師だ」
「はい」
 ゼロはアリスのいれたハーブティを啜り、座っていても体躯の良いルイスを上目遣いに見上げる。黒目がちの三白眼が、ぎょろりとうごめいた。
 ルイスはため息交じりに言う。
「その男が――『娘に毒を飲ませて殺した』、と言ってきた」
「…………」
 ゼロの手がぴたりと止まった。
「……それで?」
 乾いた声。ゼロは静かに聞き返した。
「本当に娘は死んでいたのですか」
「……ああ」
 ルイスは頷いた。
「目立った外傷はない。彼の言った通り、毒殺で間違いはないと思う」
「では、私の出る幕はないのでは?」
 ゼロは投げやりに言った。確かに、ルイスを経由して伝えられる警察からの依頼のほとんどが「変死体を調べて欲しい」というものだ。死体に異常な関心を寄せ、数々の死体を解剖して得た豊富な知識を持つゼロ。彼は幾度か警察の依頼に答え、怪事件の真相に迫り、解決に貢献してきた。だが、そういったゼロの嗜好は「首つりの伯爵」などというエキセントリックな二つ名を引き寄せた。アリス以前のメイドが一か月以内に暇を申し出てくるほど、ひとは彼を異端視した。彼もそれを知っていて、尚更城に引きこもっている節があった。
 それはともかく――死因も、犯人もはっきりしている殺人事件。そんなものに、ゼロは興味がない。
 だが、ルイスは首を横に振った。
「死体が、おかしいんだ」
「おかしい、とは?」
「手足はひどく痩せているのに、腹だけが大きく膨れていた」
「妊娠……」
「には見えない。妊娠していたにしては、あまりにも……いや、うまく言えないんだが」
 ルイスはストロベリーブロンドの髪をくしゃくしゃと掻いた。
「おれたちも、最初は牧師の娘が嫁入り前に妊娠して、そのことが赦せなくて殺したのかと思った。だが、父親は頑なに否定している。殺しはあっさり認めたのに、だ」
「ふ、ん……」
「娘は二、三か月前から近所でも見かけられなくなっていたそうだ」
「娘さんのお年は?」
「二十歳。姉がいて、そちらは既に嫁いでいる。彼女は半狂乱だよ……『父があの子を殺すはずがない、何かの間違いだ』ってな」
 確かに、彼らを知るものによると、父親は姉妹をひどく可愛がっていたらしい。母親は妹を生んだ後すぐに亡くなっており、彼は男手ひとつで姉妹を育ててきたのだという。子煩悩な父親、それが何故愛娘を手に掛けたのか――。
「父親が誰かを庇っている。そう言いたいのでしょうか」
「さあな。本人は『自分がやった。すぐに裁判にかけてくれ。私は何も争わない、甘んじて裁きを受ける』と言っている」
 ルイスは肩をすくめた。
「だが、やはり腑に落ちない――もし、真犯人がいるのだとすれば問題だろう。それで、だ」
「そのご遺体を、詳しく調べれば良いのですね?」
 ゼロの言葉に、ルイスは無言でうなずいた。
「わかりました」
 顔を背け、ゼロは言った。強張った白い頬。いつもと同じ無表情――だが、いつもと何か、どこかが違う。
 ルイスがその違和感の正体に気付く前に、ゼロはふいと立ち上がった。
「後のことは、リデルに。何かわかったことがあれば、またお呼びします」
「あ……ああ」
 ゼロはルイスをその場に残し、さっさとドアを出て行った。入れ替わりに姿を見せたリデルが、顔を曇らせてルイスを見つめる。
「ルイス……」
 憂いを湛えた翡翠の瞳。悲しみと、怒りと、憎しみが混ざったような、複雑な表情。
「時々、私は貴方をこの城に入れることを禁じたくなります」
「…………」
 ルイスは彼の眼差しを避けるように、顔を伏せた。
「やはり、思い出させてしまったか」
 祖母に殺されかけた自分。母を殺した自分。ゼロの細い身体を絞めつけて離れないのであろう、過去という名の鎖。ルイスの持ち込む事件は、時にゼロの記憶を抉り出すのだろう。
「でも」
 リデルは言葉を続けた。
「あの方は……それを分かっていて、貴方の依頼を受けているような気もするのです」
「え?」
「自分の傷が癒えるのを、あの方は赦せないのかもしれません」
 かさぶたを剥がして新たな血を滲ませ、彼はようやく安心するのかもしれない。忘れてはいない。己の罪を、忘れはしない。――リデルの罪を、忘れさせてはくれない。
「……リデル」
 ルイスは立ち上がった。
「すまない」
「……いえ」
 リデルは首を横に振った。――そして、顔を上げた時には既に表情を切り替えていた。有能な執事の仮面をかぶって、リデルは言う。
「ご遺体を、運ばせていただきましょう」
「…………」
 ルイスはごくりと息を呑み、頷いた。

  × × ×

 キッチンでディナーの準備に取り掛かろうとしていたアリスの視界に、黒っぽい人影が飛び込んできた。一瞬びくりとしたものの、その正体に気付いて微笑みを浮かべる。
「ゼロ様」
 ゼロは柱の陰に隠れるようにして、俯き加減で佇んでいた。小さい声で、ぼそぼそとつぶやく。
「今日、私は食事をとりません。アリスとリデルの分だけを作ってください」
「え?」
 ゼロは蒼白な顔で、髪はぐっしょりと濡れ、雫が頬を伝って床にまで滴り落ちていた。――まるで、涙のようだ。
 アリスは驚いて駆け寄った。
「ゼロ様――」
 ゼロは一歩、彼女から遠ざかる。
「アリス、私は……」
「ゼロ様!」
 珍しく大声を出した彼女に、ゼロは口をつぐんだ。
「部屋に戻りましょう。とにかく、髪を乾かさなくちゃ。シャワーを浴びられたのでしょう?」
「…………」
 ゼロが昼間にもかかわらずシャワーを浴びた理由を、アリスは知っている。その手で、誰かの死体を暴いたからだ。だが、それがどうしたというのだ。ゼロはゼロだ。彼女の優しくて、甘いものが大好きな、雇い主。
 ゼロの手首をつかみ、アリスは彼を部屋に連れ帰った。白いタオルを出してきて、髪にかぶせる。
「アリス」
 ゼロは伸びた前髪の奥にその表情を隠したまま、ぽつりと言った。
「お願いがあるのですが」
「何ですか?」
 アリスはソファに座らせた彼の髪を手際よく拭いていたが、彼の小さな声を良く聞くためにその手を止めた。
 いつの間にか、窓の外では激しい雨が降っていた。遠く雷の音も聞こえている。――そういえばアリスがまだ孤児院にいた頃、小さな子供たちが雷を怖がって彼女の周りを離れなかったっけ……。
「少しだけ、ここにいてくれませんか」
 ゼロの手が、自らの隣を指し示す。
「……そこに、座ればいいのですか?」
「……はい」
 アリスは言われた通り、ゼロの隣に腰を下ろした。柔らかなソファが軋む。ゼロは俯き加減のまま、膝を抱えるように背中を丸めていた。
 ――何かに怯えているのだろうか。アリスは思う。雨? 雷? まさか。でも、間違いない。ゼロは何かを怖がっている。ひとりになることを恐れている。
「……ゼロ様」
 アリスは彼の名を呼んだ。彼は少しだけ首を曲げ、彼女を見た。漆黒の瞳の中に、自分が映っている。
「私は、ここにいます」
「……はい」
「ゼロ様に(いとま)を出されるまで、このお城で――お菓子を焼いて、お茶を入れて。お掃除をしたり、お食事の用意をしたり。毎日、ゼロ様とリデルさんと一緒に、このお城に」
 ゆったりと、アリスは言葉を紡ぐ。どうしたらゼロから怯えを払うことができるのか、彼女にはわからない。ただ、声をかけずにはいられなかった。
「今日は食欲がなくても、明日はお腹がすくかもしれない。今日は雨が降っても、明日はきっと晴れる。今や昔に嫌なことがあったからって、これからもずっと続くはずがないんです」
 孤児として、いろいろなことを経験してきたアリス。それでも、泣きながら眠った夜も、次の日が来れば笑顔を思い出せた。この世の終わりだと思うようなことがあっても、実際は何も終わったりはしなかった。
「…………」
 ゼロはただ黙っている。だが、必ず彼はアリスの言葉を聞いてくれていると、彼女は確信していた。
「だから――大丈夫です。ゼロ様」
「…………」
 ゼロはタオルに包まれた頭を、ことりとアリスの方に倒した。彼女の頭に、かすかな重みが加わる。
「ありがとう」
 低い声。
「ありがとう、アリス」
 細かく震える声。
 ――泣いているのだろうか、とアリスは思った。だが、彼女はゼロの顔を見ない。きっと彼はそれを望んでいない、そんな気がした。
 雨音が、激しさを増していた。

 ――しばらく経ち、様子を見に来たリデルはその光景に思わず頬を緩めた。いつしかアリスがうつらうつらと眠っており、ゼロはじっと彼女の頭をその肩で受け止めている。
「リデル」
 気配を感じたか、ゼロが口を開いた。アリスを起こさぬようにか、押し殺した声だった。
「はい」
「……明日、街で買ってきてほしいものがある」
「何でしょう」
 唐突に何を言い出すのかと訝るリデルに、ゼロは言った。
「女性ものの何か、良い服を一着。それから――化粧道具を一揃い」
「……はい」
「チョイスは貴方に任せます」
 ゼロが何を考えているのかはわからない。だが、彼の声は今ひどく落ち着いている。きっと彼はもう、大丈夫だ。その証拠に――。
「雨が、あがったな」
 振り返るゼロ。その顔はいつも通りの無表情だったが、平静の穏やかさを取り戻していた。