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チェルビック・レイジ

 ロンドン郊外に聳える孤城、ハングマン城に勤めるメイドであるアリス・ウェーバーは、日曜ごとに城を離れて街中の教会を訪れ、礼拝に参加する。彼女が孤児院にいた頃から通っている教会で、神父も昔からの顔馴染みであった。行き帰りは城の執事であるリデルが馬車を手配してくれるのであるが、彼自身や彼らの主人であるゼロ・ハングマン伯爵は、彼女の知る限り礼拝に参加したことはないようだった。
 不信心である、といえばそうなのだろう。アリスも、彼らをよく知る前にその事実だけを聞いていたらば、そう感じていたかもしれない。だが、今となってはそう簡単に決めつけてしまうことはできなかった。彼らには彼らなりの理由や信条があるのだろうし、だからといってそれをアリスに押し付けることはない。城の唯一のメイドであるアリスが留守にすることも、咎めることなく赦してくれる。何より、そんな不信心者である彼らのことが、アリスは既に家族のように――孤児であった彼女は、正確には家族というものを知りはしないのであるが――大切な存在になっているのだった。

 その日もアリスは教会を訪れ、礼拝に参加した。恙無く終了し、さて城に帰ろうとしたところで神父のジョージ・ウェストに声を掛けられたのであった。
「アリス」
「はい、神父様」
 振り向いた先に、壮年のジョージが険しい顔をして佇んでいる。その節くれた右手は、胸に下げられたクロスをしっかりと握り締めていた。
「お前は今、ハングマン伯爵様のお城に勤めているのだったね」
「……はい」
 アリスの脳裏にちらと警戒がよぎった。ハングマン城――人呼んで「首吊りの城」。城を彩る悪趣味なホラー創作紛いの噂は、ロンドン市民の間でまことしやかに信じられている。ウェスト神父が今までアリスの前でハングマン城やその住民について何か語ったことはなかったが、実は何かしら思うところがあったのだとしてもおかしくはない。
 それに、城にまつわる噂には、ひとつだけ真実がある――曰く、ハングマン城には死体が集う、と。
 アリスの内心を知ってか知らずか、ウェスト神父は声を低めて言った。
「伯爵様は時に警察のお手伝いをもなさると聞いた」
「……それは、」
 私の口からは何とも、とアリスが続ける前に神父は軽く手を振る。
「無論、君は自分の仕える城の内部のことを軽々しく口外したくはないだろう……私に対して何か懺悔したいという意志でもない限りはね。ただ、私は君に聞きたいことがあるんだ。それは恐らく、答えられない質問ではないはずだよ」
「……なんでしょうか、神父様」
 問うアリスに、ウェスト神父は静かに問い掛けた。
「ゼロ・ハングマン伯爵という方は、君から見てどういう方なのだろうか――」
 と。

  × × ×

 ロンドン市警に勤めるルイス・ブラウンがハングマン城を訪問する時は、大抵の場合警察からの非公式な依頼を携えている。今日もやはりそうであった。
「死体の名はリック・ドナルド。二十歳の若者で、いつもジンで酔っ払っていた……まあ、あまり素行の良くない者だったようだ。街での評判も散々だったし、まともな仕事にもついていなかったらしい」
 ルイスは手帳を繰りながら苦い顔で告げる。
「だからまあ、彼が殺されたと聞いても皆あまり同情的ではなかった」
「とはいえ捜査しないわけにはいかないでしょう?」
「ああ、状況から見て明らかな他殺だからな」
 目前に座る、不健康そうな黒髪の青年――ゼロ・ハングマン伯爵をちらと見て、ルイスはため息をついた。
 ハングマン城には死体が集う。それはある意味で正しく、ある意味で正しくない。ゼロは、噂にあるように死体を愛好する猟奇的な趣味を持つ男ではないが、変死体の解剖を通じて死因を暴くのには異様に高い技術と洞察力とを兼ね備えているのである。警察が彼に非公式に死体解剖を依頼するのはその為であった。
「明らかな、とは?」
「後頭部に殴打された跡があったし、凶器もそこに転がっていた」
「凶器、ですか」
「ああ。銀の燭台だよ。血がべっとりとついたまま、現場に放り出されていた」
「なるほど。で、事件現場はどこです?」
 ルイスはゼロのその問いに、一瞬顔を顰めた。
「教会の、礼拝堂の中なんだ。リックはその日の夜、神父のもとを告解の為に訪れていたらしい……だが、そこで殺されてしまったという訳だ。別に告解の日ではなかったが、彼が突然教会に現れて強く希望したんだと。少なくとも神父はそう言っている」
「神父が殺したのでは?」
 とんでもないことをあっけらかんというゼロに、ルイスは思わず咳払いをした。
「まあ……正直、状況からはかなり怪しいよな。リックは告解中に背後から何者かによって殴打された、その者は天使の姿をしていた、神父は一貫してそう言い張っている。天使が殺したんだ、自分は天使を見たと」
「天使ですって?」
 ゼロはそのぎょろりとした目を僅かにみはった。
「天使が、そのごろつきを殺したというのですか」
「あり得ないだろ? あり得ないのは俺もわかってはいるし、何故神父がそんなことを言い張るのか、理解に苦しんでいるんだ」
 何か意味があるのだろう。だが、それは神父の保身の為なのか、或いは……。
「リックの告解の内容は教えてもらえましたか?」
「いいや。彼らは告解に訪れた者の秘密を暴露したりはしないさ……たとえ相手が死者となったとしてもな」
「まあ、そうでしょうね」
 最初から期待はしていなかった、というようにゼロは呟いた。
「通報したのは神父なのですか?」
「違う。たまたま教会に一晩の宿を借りに来た旅行者があって、礼拝堂から大きな物音がしたので入ってみたら男が血を流して倒れていた、それで騒ぎになったというわけだ」
「……やはり、神父が殺したのでは? もしその旅行者が現れなければ、リックの殺害は表沙汰にはならなかったかもしれません。死体は教会の敷地内に埋めてしまえばしばらくは見つからないでしょうし」
「その旅行者の証言によると」
 ルイスは手帳を取り出した。
「礼拝堂には神父しかいなかったと思う、と。他には誰も見ていないらしい」
「争うような声などは? もしくは叫び声とか」
「特に聞いていないようだ。周りの状況から見て、リックは椅子に座っていたところを背後から突然殴られたんじゃないかと見られている」
「天使が殺害したにしても、その場にあった銀の燭台で殴打するとはいささか手段が俗物的に過ぎるような気がします。普通に考えれば、リックを尾けてきた何者かが背後に忍び寄り、撲殺した……計画性があったのかなかったのかはよくわかりませんね。予め殺すつもりであったのなら、凶器を準備しておいても良さそうなものですが」
「そうだな……」
 顎を撫でるルイスに、ゼロは冷静な面持ちで告げた。
「とりあえず、リックの死体から何かわかることがあればお伝えします。しかし、神父が口を割らないようなら、リックに強い恨みを持つ者を探すしかないでしょうね」
「ああ。その場合、神父を犯人とするしかなくなりそうだがなあ……」
 頷きながらも、ルイスの表情はいつになく固い。
「どうしました、ルイス」
 尋ねるゼロに、ルイスは呟いた。
「ただの勘なんだがな、ゼロ」
「はい」
「神父は何故、リックを殺したのは天使だなどと言ったのか」
 暗くて犯人の顔は見えなかった、とか、すぐに逃げてしまってわからなかった、とか、何とでも言いようはあるはずなのに、何故そんな非現実的な言い訳をしたのか。
「何か、そこに大きな理由があるような気がするんだ……」
「…………」
 ゼロは視線を天井に投げた。
「天使、ねえ」
 聖書に現れる彼らは、神の遣いとして時にひとを導くが、時に容赦なく断罪する存在でもある。
「そうやって貴方がたを混乱させることが狙いかもしれませんよ」
 素っ気ないゼロの言葉に、ルイスは気の乗らない様子で、そうだな、と呟くのだった。

  × × ×

 ゼロ・ハングマンとはどんな人物か。
 黒髪黒目で、その皮膚はやや浅黒い。どうやら母方の血のためであるようだ。痩せぎすの中背で、姿勢は悪く、猫背。しばしばリデルに指摘されてはいるが、あまり治す気はなさそうだ。甘いものが好きで、お茶も好き。本や新聞などの活字に没頭しがちで、熱中すると食事を取るのも忘れてしまいそうになるほどだ。もちろん、アリスやリデルが忘れさせはしないのだが。
 基本的には無表情だが、無感情な人物ではない。多分、自己表現が苦手なのだろう。慎重に見ていなければわからないかもしれないが、彼は怒りもすれば、笑いもする。ときに見せる控えめな微笑は、アリスにとってとても貴重な報酬だ。
 ゼロは優しいし、気性は穏やかで控えめで、素敵な主人だとアリスは思う。ハングマン城はとても働きやすい場所だ。ただひとつの点にさえ目を瞑れば、であるが――。

 今日のお茶の時間は少し遅めに、と指示があった。アリスはそのリデルの言葉から、ゼロのもとに新たな死体が運び込まれてきたことを察した。
 「首つりの伯爵」の趣味は、「死体の解剖」――その言葉を思い浮かべるときに背筋を伝う冷たい感覚には、どれだけ経っても慣れはしない……慣れたくない。
 ゼロは決して死体を弄んでいるのではない。むしろ、死体に残された死者の無念を、或いは生者の妄執を嗅ぎ取り、手繰り寄せて、ともすれば闇に埋もれてしまうところであったその死の真相を暴き出すのだ。それは多分、社会にとって必要なこと……だからこそ警察すらゼロを頼るのだし、少し前からは風変わりな探偵が彼を慕って(かどうかはよくわからないが)城に出入りしているのだろう。そのことはアリスにもよく分かっている。頭では分かっているのだが、死体に触れる、その行為への恐怖心がどこか拭えないのも、また事実なのだった。
 それでも、この城に――伯爵に仕えると決めた以上、アリスは自分の仕事を果たさねばならない。言われた時刻にお茶を淹れ、ベリーを練り込んだスコーンを用意して、ゼロの書斎へと向かった。
「ゼロ様 、お茶をお持ちしました」
 ノックをするが、返事がない。アリスは何度か繰り返したあと、そっとドアを開けた。
「ゼロ様……?」
 少しずつ日の翳りゆく時刻である、書斎の中は少し薄暗い。灯りをおつけくださいといつも言っているのに、とアリスはわずかに眉をひそめた。
 ゼロは椅子に腰を下ろし、一枚の絵を眺めていた。伯爵家の所蔵している絵画のうちの一枚なのだろうが、それが名のある画家のものなのかどうか、アリスにはわからない。それほど大きなものではなく、片手で十分に持てる程度であった。
「ゼロ様」
 声を掛けると、ゼロははっとしたようにアリスを見た。
「アリス」
 彼女の手にしたお茶の用意を見て、彼はわずかに相好を崩す。
「もうそんな時間でしたか」
「ええ。何度かお呼びしたのですが、お返事がなかったので勝手に入ってしまいました」
「構いませんよ」
 ゼロは絵を置いて立ち上がり、アリスの側に歩み寄った。ふわりと香る、ソープの匂い。ゼロが死体の解剖を終えて浴びる、シャワーの痕跡だ。アリスは一瞬体を固くしたが、すぐに力を抜いた。ゼロは敏感だから、アリスの異変にすぐに気付いてしまう。
 アリスの手元を覗き込み、ゼロは軽く指をくわえた。
「美味しそうですね」
「お口に合うと良いのですが」
 アリスは微笑みを浮かべながら、本でごった返したデスクの上に慣れた手付きでカップや皿を並べてゆく。そのとき、ゼロが手にしていた絵がちらと視界に入った。古い宗教画のように見えた。描かれているのは、背中から白い羽根の生えた人物――
(天使……?)
 アリスは少し不思議に思った。何故、ゼロはこのような絵を眺めていたのだろう。彼が無神論者なのは、アリスもよく知っている。そんな彼が何故、天使の描かれた宗教画に興味を持ったのか……。
「天使といえば」
 不意にゼロが言葉を発し、アリスははっと彼の顔を見た。そのおもてを覆うのは、いつもの無表情である。
「神の使いですよね。神の言葉を預かり、ひとのもとに降り立つ。時によって、神の意思を代行することもあります」
 無神論者ではあっても、聖書くらいは目を通していますよ、とゼロは言う。
「しかし、絵画では到底そのような使いなど務まりそうにない、無垢な幼児の姿で描かれもしますよね」
 これもそうですけれど、とゼロは置かれた絵を指した。そこに描かれているのは、金髪の巻毛がまばゆいばかりの、ふっくらとした幼児の姿をした天使であった。確かに、この子供に神の使いが本当に務まるのかどうか……。無論、天使が見た目通りの幼児であるわけはないのだが。
「さて、一体どういう理由なのでしょう」
「…………」
 首を傾げながらカップを手に取るゼロに、アリスは、ううん、と唸った。
「実際はどういう理由かはわかりませんけれど、子供は神様からの使いだ、と考えるひとがいたのではないでしょうか」
「子供が?」
「はい」
 アリスはうなずく。
「わたしが孤児院にいたとき、シスターが仰っていました。『子供は、誰が親であるかに関わらず、皆等しく神の子らで、神が地上に遣わせた天使なのよ』って。『少なくともわたしはそう思っているわ』と」
「誰が親でも……ですか」
 ゼロは低くつぶやいた。
「慰めの言葉だったのかもしれません」
 アリスは控えめな笑みを浮かべる。
「私もですけれど、あそこにいた子供たちはほとんど親の顔を知りません。親を覚えていたとしても、ひどい酒飲みだったり、子供をぶつ親だったりと、その……あまり……良くないことが多いので……」
「理解できます」
 ゼロは首肯した。アリスは思う――確か、ゼロ様はお母様を知らないはず。お父様との思い出も、あまり多くはないのではないか。その少ない記憶が、彼に優しいものであればいいのだけれど。
「でも、小さい子供って本当に可愛いんですよ」
 アリスは明るい声音で言った。
「言葉もおぼつかないような小さな子たち。お世話は大変ですけれど、確かに天使のように愛らしくって可愛いんです! わたし、大好きでした」
「アリスは良いお母さんになりそうですね」
 ゼロの言葉に、アリスは言葉に詰まる。
「おかあさん……?」
「はい。きっと、そうなりますよ」
「…………」
 繰り返すゼロの前で、アリスはみるみる顔を赤らめた。――どうして今、わたしはゼロ様に似た幼子を思い浮かべてしまったのだろう! くりくりとした黒目がちの瞳、同じ色のくせっ毛な髪、ちいさな手足。なんとお可愛らしくて、愛しい……。
 だが、ゼロはそんな彼女を穏やかな眼差しで見つめるだけで――多分、アリスの脳裏をよぎったもののことなどには思いも至っていないのだった。