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スタディ・イン・アクア

 ロンドン郊外にひっそりと佇む孤城、ハングマン城――数々の不気味な噂に包まれたその城には、近付く者もほとんどいない。数少ない例外が、今まさにそこに向かって馬車を走らせている男、ルイス・ブラウンであった。
 ルイス・ブラウンは警部である。彼がハングマン城を訪れるのは、大抵厄介な案件を抱えている時だった。警察の捜査だけでは解決が見込めそうにない複雑な事件、或いは奇妙な謎、そういったものを道連れに、彼はハングマン城へ行くのである。
 そして、彼が常々この城への道行きに連れていくものは他にもある。死体であった。事件に巻き込まれたと思しき死体。時には完全なかたちで、時には無残に刻まれた状態で。肉の腐ったもの、焼けた骨、剥がれた皮。そのようなものをいやしくも伯爵の住まう城に持参するなど、常識的には考えられないことだ。
 しかし、ゼロ・ハングマン伯爵はそれを受け入れている。もしかすると、彼はそれらを待っているのかもしれないと思わせる節さえある。
 ゼロは死に精通した男である。医師でも科学者でも、もちろん芸術家でもないにも関わらず、幼い頃から動物の死体の解剖にのめり込み、そのままその対象は人間へと広がった。――ただし、だからといって彼は死体を自ら作り出そうと望むようなものではない。それだけは違う、とルイスは断言できる。己の欲望のために生けるものを死に至らしめるような、そのような真似はむしろゼロの最も忌み嫌うものである。彼の死への興味は、生に対する愛情の裏返しなのだ。ゼロは不器用な男だから、生の終着点である死を暴き明らかにする方法でしか、そこに在った生命を慈しめない――少なくとも、彼自身はそう信じている――のだ。ルイスはそう解釈していた。
 ゼロ・ハングマン伯爵はたしかに奇妙な男である。しかし、彼は決して異常人格者ではないし、さほど常識から逸脱もしていない。ただ、彼の生い立ちと幼い彼を取り巻いていた環境、そして彼から身寄りを奪った過酷な試練――それらの影響を受けた結果、無口で陰鬱な雰囲気をまとい、それでいながら人一倍繊細な、人々から誤解を受けやすいあの青年伯爵ができあがったのである。
(――その点を、こいつが理解できればいいんだが)
 ルイスはちらと馬車に同乗している男を見遣った。今日、珍しくルイスには生きた「道連れ」がいる。年はゼロとそう変わらず、三十路には手が届かぬくらいか。すっきりとオールバックにまとめられたブロンズの髪。着込んだスーツも決してみすぼらしくはないのだが、あまり手入れをしていないのかところどころよれている。
 ん、と男が振り向いた。窓の外を眺めていたエンペラー・グリーンの瞳が、真っ直ぐに彼を射る。不躾なほど強い視線であったが、ルイスは慣れたものだった。
「もうすぐ着くぞ」
「ああ」
 男は頷く。
「楽しみだ」
「……あまり食い下がるなよ」
 ルイスは釘を刺した。
「それから、あまり無茶をするとリデルに――執事につまみ出されるだろうから、そのつもりで。俺に迷惑の掛かるような真似はしてくれるな」
「心得ているさ」
 男は鷹揚に微笑む。その自信たっぷりな表情を見ながら、ルイスはため息を噛み殺した。まったく、何だって俺がこんな役回りを――まあ、ハングマン城に関わる案件である以上、俺が取り次ぐ以外の選択肢は警察内部に存在し得ないのだが。
「ふふ、楽しみだな」
「…………」
 まあ、この男がハングマン伯爵とその城にまつわるくだらない噂に惑わされるような人物でないことは救いだ。とはいえ、
(ある意味、こいつはもっと厄介かもしれんがな……)
 開かれた城門を潜りながら、ルイスはそう思わずにはいられないのであった。

  × × ×

 ルイスを出迎えたハングマン城の執事、リデルは、その隣に佇む華奢な男の存在に気付いて眉を顰めた。
「ルイス、このお方は?」
「リデル、彼は――」
 男は一歩前に進み出て、堂々と名乗りを上げる。
「僕はジェイムズ・ワインハウスだ。ジムと呼んでくれ」
「……ワインハウス様」
 リデルは恭しくその名を呼んだ。
「この城に、一体どういうご用件でしょうか。貴方はゼロ様のお知り合いではありますまい」
 慌ててルイスは割って入った。
「ああ、すまない。実はその――ジムのたっての望みで、ゼロ、いやハングマン伯爵にお会いしたいと」
「しかし、……」
「僕の身元なら警視総監が保証してくれる――ほら」
 と、ジェイムズはいそいそと胸元から一枚の書状を取り出した。
「直筆だ。署名もあるぞ」
 リデルは黙ってそれを受け取り、封を切って中身を改める――それは、ジェイムズ・ワインハウスをゼロ・ハングマン伯爵にご紹介したいとの手紙であった。確かに、警視総監の署名もある。
「…………」
 リデルはしばらくそれを見ながら考えを巡らせていたようだが、やがてため息をついて口を開いた。
「少しお待ちを。ゼロ様に伺って参ります」
「よろしく頼むよ」
 ジェイムズはひらひらと手を振ってリデルを見送る。そうして、ちらとルイスを見上げた。
「面白い城だね。伯爵家の執事が主人宛の親展の手紙を客人の目前で容赦なく開封し、しかもクイーンズ・イングリッシュを話さないとは」
 彼はもともと、執事としての教育を受けたわけではないのかな? つぶやくジェイムズに、ルイスは低く唸った。
「お前、その癖は引っ込めておけよ」
「そう?」
 飄々と笑うジェイムズに、ルイスは先を思いやらずにはいられなかった。

「ゼロ様はお会いになるそうです」
 やがて戻ってきたリデルが、彼らを応接室へと(いざな)った。
「ところでルイス、ご持参のものは」
「あ、ああ」
 いつも通りだ、と告げるとリデルは頷いた。――ルイスの馬車の中には、ゼロに精査を依頼したい死体が載っている。ふたりのやり取りを興味深げに眺めていたジェイムズだが、ルイスの忠告を守ってか、特に何も口にはしなかった。
 リデルは彼らを案内し終えるとその場を辞した。ジェイムズはじろじろと無遠慮に辺りを見回している。
「使用人の姿がない割に、掃除はよく行き届いている。普段使うところを重点的に清掃しているのかな、それにしても働きものがいるようだね。飾られている絵画や美術品はいずれも新しいものではないから、ずっとこの城にあるのだろう。今の伯爵はあまりそういった方面には興味がないのかもしれない。それにしても驚いたなあ、執事が死体の運び入れまでおこなっているとは……」
 と、ジェイムズは口を閉じた。ややあって、彼らの入ってきたのとは反対側のドアが開く。姿を見せたのは、全身黒っぽい衣服を着た、痩せぎすでやや猫背の男――ゼロ・ハングマン伯爵である。
「…………」
 ジェイムズはばっとソファから立ち上がり、一礼した。
「はじめまして、ゼロ・ハングマン伯爵。僕はジェイムズ・ワインハウスです」
「はあ」
 ゼロはいつも通りの気の抜けたような返事をして、困ったようにルイスを眺めた。ジェイムズは彼の困惑を無視するように、真っ直ぐに右手を差し出す。
「よろしくお願いします」
「……はい」
 握手を無視するのも大人げないと思ったのか、ゼロはジェイムズの手を取った――と、ジェイムズは不意に背を屈めてその手、指先、袖口に顔を寄せた。……どうやら、匂いを嗅いでいる。
「薄い薬品臭――うん、間違いない。この方は自ら薬品を扱っておられる」
「お、おい」
 ルイスは慌ててジェイムズを引き剥がした。
「すまない、ゼロ……いや、伯爵。こいつ、ちょっと変わっていて」
「それはまあ、ここにわざわざ来られたことからもわかりますけれど」
 ゼロはぎょろりとした黒目を瞬かせながら、ジェイムズに握られていた手を眺めた。骨ばった、何の変哲もない手である。ゼロはぽつりと尋ねた。
「……においますか?」
「いいえ、ほとんど。かなり気を付けて洗浄しておられるのでしょう」
 ジェイムズは堂々と返答する。
「しかし、どうやら貴方には香水をつける習慣はないようだ。それは貴方自身が匂いに敏感でありたいから――そうではありませんか? 実際、死因によっては死体は特有の匂いを発するのではないかと僕は踏んでいるのです、たとえば」
「ジェイムズさん」
「ジムと呼んで下さい、伯爵」
「それでは、ジム」
 ゼロは興味を引かれたようにじっと彼を見つめた。
「貴方は一体何者なのですか」
「…………」
 ジェイムズが答えないうちに、再び応接室のドアが開いた。手にティーセットを持ったブロンドのメイドがひとり、しずしずと室内に現れる。彼女がこの城唯一のメイド、アリス・ウェーバーである。
「お茶をお持ちしました、ゼロ様」
「ありがとう、アリス」
 ふ、とゼロの表情が緩む。
 彼ら三人の前にティーカップが置かれ、そこに湯気の立つお茶が注がれた。クッキーの盛られた皿を置き、アリスは一礼してその場を離れる。
 早速お茶を一口飲んだジェイムズは、カップを手にしたままにこやかに言った。
「まあ、僕の話は後にして――ルイスの持ってきた件を先に話しましょう」
「……ルイスはそれで良いのですか」
「あ、ああ。まあ」
 ルイスは曖昧に頷き、そしてソファに座り直した。――相変わらずアリスちゃんのいれてくれるお茶は美味いな、と思いながら。

「今回問題になっているのは、ある水死体だ」
 ルイスはそう口火を切った。
「身元は分かっている――アドニス・マクレーン。十五歳の少年で、サザートン校の学生だ」
「サザートン校といえば、全寮制の男子校ですね?」
「その通り。彼は学校からほど近い川岸に浮いているのを発見されたんだ。朝早く、発見者は近所の農夫。少し上流に離れた橋の上に、彼の靴が置いてあった」
「ほう」
「遺体には目立った外傷もないから、自殺だろう――ということになった。しかし、だ」
「アドニス君のご両親はそれには納得しなかった、というわけだ。自分たちの息子が自殺などするはずない、とね」
 ジェイムズがさりげなく、しかしながら強引に割り込んだ。
「アドニスは誰からも好かれる優等生で、何かあれば深夜にでも礼拝堂で祈りを捧げるほど敬虔な信者だったそうだ。その彼が自殺などするだろうか、というわけでね。警察は当てにならん、ということで、彼らは僕のところにやってきた」
「……では、貴方は」
 ゼロはまじまじとジェイムズを眺めた。
「もしかして、私立探偵――というわけですか」
「そういうことですよ」
 ジェイムズはあっさりと頷き、そして言葉を継いだ。
「不思議なことにね、橋の上にあったアドニス君の靴はぐっしょりと濡れていたんだよ」
「その日の夜はひどく冷えた。夜露が下りたのかもしれないと――」
 ルイスが口を挟むが、ジェイムズはそれを鼻で笑った。
「夜露ね! 夜露に濡れたものと川の水で濡れたもの、見分けがつかないとでも思っているのかい」
「そんなものどうやって、」
「顕微鏡で見ればわかるでしょう」
 ゼロはぽつりと言った。そう、その通り、とジェイムズが声を弾ませる。
「それで僕はアドニス君の靴を絞り、滴り落ちた水を集めて顕微鏡で眺めた――果たして、そこには細かな藻が浮遊していたよ」
「まあ、だからといってそれが他殺の証拠になるわけではない」
 ルイスは苦々しげに呟いた。ジェイムズは頷く。
「その通り。靴を履いて川の中を歩き回った後、橋に上って身を投げたのかもしれないからね」
「ええと、つまり……」
 ゼロはふたりを交互に眺めながら口を開いた。
「私はその少年の遺体から、死因を特定できるものを探せばよいのですね?」
「ああ」
「それから、もう一つ」
 ジェイムズが付け加えた。
「僕に、立ち会わせて欲しい。いや、それだけじゃなくて」
 エンペラー・グリーンの瞳が、鋭い輝きを放つ。
「貴方のその死に関する知識を、是非僕に教えて欲しい! 貴方を僕の師と仰ぎたいんですよ、ハングマン伯爵!」
「…………」
 朗々と言い放ったジェイムズを前にして、ゼロは呆気にとられた顔で黙り込み、そしてルイスは深々とため息をついたのだった。