instagram

サバト・インシールド

 翌朝、再びハングマン城を訪れたルイスは、アリスの淹れたお茶を飲む間もなく、ゼロとともにリデルの駆る馬車に乗せられた。行き先は事件の現場となった、スペード卿の別邸である。
「何かわかったのか?」
 寒がりなのか、ゼロは座席の上で膝を抱え、胸元まですっぽりと毛布にくるまっている。ルイスの問いにも彼はほとんど反応しなかったが、ぽつりと一言だけが帰ってきた。
「少し気になることがあるのです」
「気になること……?」
「ええ」
「それは犯人に関わるとか、そういう」
「犯人は、いません」
「何?」
 ルイスは眉を寄せる。ゼロはきっぱりと言い切った。
「ロビン・スペードは自殺です」
「自殺?! じゃあ、あの遺体は……」
「…………」
 前を見据えたまま微動だにしないゼロの横顔を眺め、ルイスは言葉を切った。たぶん、その点を今追求しても、ゼロは何も言わないだろう。代わりに、質問を変えてみる。
「自殺だと断定できるだけの根拠はあるのか?」
「九十九パーセント以上の確率で自殺ですが、まだ断定はできません」
「それを、確かめに行くのか?」
「それもあります」
「それ『も』……?」
「…………」
 ゼロは黙って毛布に包まれた膝に顎をうずめた。ルイスもそれ以上は何も聞こうとせず、ただじっと馬車の揺れに身を任せ続けた。
 
 
「つきましたよ」
 リデルが門の前に馬車を止めると、ゼロは毛布を手に持ったまま立ち上がった。
「おい。それ、置いていかないのか」
「必要なので」
 短く答え、ひらりと飛び降りる。ルイスも慌てて後を追った。ゼロはきょろきょろと辺りを見回しながら、庭の方へと進んでいく。
「現場はそっちじゃないぞ」
 声を掛けるルイスに振り向くこともなく、ゼロはずんずんと歩いて行く。小さく舌打ちをして追い掛けようとしたルイスを、リデルが止めた。
「ゼロ様にはゼロ様のお考えがあるんですよ」
「……リデル……」
 ルイスは大きく息をつく。リデルは穏やかな灰緑色の瞳でゼロの背中を追っていた。
「お前は相変わらず、ゼロには忠実なんだな」
「あの時、そうしようと決めましたからね」
 淡々とした答えが返ってくる。ルイスは苦笑した。
「そうか……」
「そういえばルイス、アリスと話をしたそうですね」
「アリス? ああ、あのメイドの子か」
 ルイスはうなずいた。
「勤め始めてから三ヶ月になるって聞いたが」
「ええ。彼女が初めてなんです――ゼロ様が『解剖』をなさると知ってなお、勤め続けてくれている子は」
 リデルは視線を落とし、ルイスもまた、痛ましげに眉を寄せた。
「このまま勤め続けてくれればいいなと……私はそう思っているんですけどね」
「……リデルがそう思うってことは、本当にいい子なんだろうな」
「ええ」
 リデルはうなずく。
「私に足りないものを、彼女は持っているような気がします」
「……そうか」
 でも、それは俺も同じだ。ルイスは言葉に出さず、胸中につぶやいた。いや、自分はリデルよりもっとひどい。リデルはゼロの執事であり、兄代わりの家族でもあるが、彼は結局ゼロの友人にすらなれないでいる。ルイスはただ、ゼロの元に死体を運んでくるだけの……。
 ――にゃあ。
 庭から響いてきたか細い声。それに気付いた彼らが顔を上げると、ちょうどゼロがこちらに向かって歩いてくるところだった。何か、胸の前に毛布にくるんだものを抱えている。
「リデル」
「はい」
 ゼロはその毛布の塊をリデルに押し付けた。
「この猫を連れて帰る」
「え? は、はい。わかりました」
 リデルは一瞬驚いた後、素直にそれを受け取った。そっと毛布を開いてみると、金色の目をした黒猫が中に入っている。目が合うと、にゃあ、と鳴いた。
「おい、ロビンの話は――」
 ルイスの声を、ゼロは軽く手を挙げて遮った。
「彼は自殺です。間違いありません」
「百パーセントか?」
「百パーセント、です」
「じゃあ、彼の内臓と肉はどこに……」
「さあ」
 ゼロは無表情に答えた。
「わかりません。でも、あれは死んだ後になくなったものです。彼の死とそれは無関係ですよ」
「何でわかるんだ?」
 首をひねるルイスをよそに、ゼロは馬車の中に乗り込もうとしていた。肩越しに振り返る。
「生前についた傷と死後についた傷には違いがあるんです」
「そうか……」
 ルイスは彼の後について馬車に乗り込んだ。猫は毛布に包まれたまま、リデルのいる御者台に乗せられているらしい。
「彼は十日以上前に亡くなっています」
 ゼロは軽い調子で付け加えた。
「ですから、その後に地獄から悪魔でもやってきて、食べちゃったんじゃないですかね?」
「食べ――た?」
 ルイスは顔を青ざめさせた。ゼロは冗談とも本気ともつかない表情で平然と言う。
「ちょうど可食部ですよ、なくなっていたのは。腹腔から消えていたのは肝臓や胃腸、下肢も綺麗に肉が剥ぎ取られていましたしね」
「うえ……」
 ルイスは口元を歪める。
「何となく本気で悪魔説を信じたくなってきたな……結局は自殺だっていうし」
 自殺は神の禁じた罪――ルイスは手早く十字を切った。ゼロはそれを横目で眺めながら口を開く。
「彼の遺体には首吊り自殺として特に不自然な点はありませんでした。先に首を絞めてからぶら下げたというのでもありませんし、致死的な外傷もなかったです」
「うん。わかった」
 ルイスは胸ポケットから取り出した手帳に数行のメモを走り書きし、ぱたんとそれを閉じた。
「それから、死後の外傷については不明――ということで」
「ああ。スペード家としても外聞の悪い話は避けたいだろうからな。あまり詳しい捜査を要求してくることもないだろう。ロビンは自殺。それで終わりだろうな」
「ええ、そうでしょうね……」
 ゼロは既に興味をなくしたのか、ルイスの言葉にもどこか上の空といった様子で、ゆらゆらと馬車に揺られていた。

  × × ×

 黒猫はリデルの手によって綺麗に洗われ、アリスがあたためたミルクをぴちゃぴちゃと舐めている。ゼロはその様子をぼうっと眺めていた。
「自殺をする個体は――人間しかない」
 ぽつりとつぶやく。
「だから自殺を罪だとして、神は禁じたのか……しかし、何故禁じたのだろう?」
 猫はやがて満腹になったのか、暖炉の前に移動して丸くなった。
「だが、お前はただ、お腹が空いていただけ――」
 ゼロは傍らに置かれた毛布に目を落とした。そこには褐色の小さな塊がこびりついている。ゼロが猫を見つけた時、その口元についていた汚れをぬぐいとったものだ。恐らくそれは、血――。
「お前は何も、悪くない」
 ゼロは自分に言い聞かせるように、ゆっくりとそう言った。

 黒猫が静かに眠りについた頃、ゼロの部屋をアリスが訪れた。どうやら猫を見に来たらしい。
「ゼロ様」
「はい」
 アリスは暖炉の前をちらちらと見遣っている。
「猫にお名前、つけてあげたんですか?」
「名前……ですか」
 ゼロは困ったように首を傾げた。
「別に、つける予定はないのですが……アリスはつけたいのですか?」
「いえ、ゼロ様がつけないのなら私は構いません」
 アリスはにっこりと微笑む。ゼロは不思議そうに瞬きを繰り返した。
 ――実は、アリスは心の中で猫の名前を決めている。黒い毛並みとくりっとしたまなこを見た瞬間、心に浮かんだ名前があるのだ。ただし、ゼロの前では呼べないが。
「ところでアリス」
「はい」
 ゼロはアリスではなく、どこか遠くを見ているようだった。
「アリスはどうして自殺がいけないのだと思いますか?」
「…………」
 突然の質問にアリスは少し目を大きく見開き、やがて真剣な眼差しでゼロを見つめた。
「それは、悲しいからではないでしょうか」
「え?」
「ゼロ様は、誰かが自分で自分を殺したと思うと、悲しくないですか?」
 ゼロは黙って答えない。アリスは胸の前でぎゅっと拳を握り締めた。
「私は、悲しいです」
「…………」
「知らない人でも悲しいけど、知っている人ならもっと悲しい」
 アリスは表情を翳らせ、目を伏せる。
「だから……いけないとかじゃなくて……やめて、欲しいです」
「…………」
 ゼロはやがて、ほんのわずかに微笑んだ。
「そうですか……」
 確かに……父がいなくなったとき、私は悲しかった。けれど、今の私はロビンの死を悲しいとは思わない。ただ、どこか苛立たしいだけで……。ゼロはそっと瞼を下ろす。
 ――と、脛にあたたかいものがぶつかって、彼は驚いて目を開けた。いつの間にか猫が目を覚ましていて、彼の足にその黒い鼻筋をこすりつけている。ゼロは目を見開いて猫を見下ろし、じっと硬直した。
「あらあら」
 助けを求めるようにアリスを見遣ると、彼女は笑って猫を抱き上げる。
「この猫、ゼロ様が気に入ったんじゃないかしら?」
「…………」
 ――似たものの匂いがしたのだろうか。母の命を喰らって生まれた自分と、かつての飼い主を喰らって生き延びた猫。
 ゼロはアリスに抱かれた猫に顔を寄せた。あたたかい舌が、ざらりとゼロの鼻を舐め上げる。
「…………!!」
 ゼロはびくりと震えた。アリスが小さく噴き出す。ゼロはシャツの袖で顔をぬぐい、くんくんと匂いをかいだ。血の匂いは、しない。その代わりに……。
「……ミルクの匂いがします」
「そりゃあこの子、さっきまでミルクを飲んでいましたもの。きっと、ゼロ様は美味しそうな匂いがしたんでしょうね。甘いものがお好きですから」
「…………」
 ――お前が生き延びることができて、良かった。間近で金色の瞳を見つめると、そこには自分の顔が映っている。――私が、生き延びることができて……。
「ゼロ様?」
 にゃあ。
 ゼロより先に、猫が応えて鳴いた。