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サバト・インシールド

 ハングマン城に来客があったのは、深い霧の立ち込める寒い朝のことだった。アリスが城に勤めるようになってから初めての客である。
 リデルにお茶を出すように言いつけられたアリスは、応接室へと向かった。木製の厚い扉をノックする。
「失礼します」
「どうぞ」
 帰ってきた声は低く、ややハスキーだった。ドアを開けて中に入ると、彼女に背を向けるようにしてひとりの男が腰掛けている。赤みがかったストロベリーブロンドの髪と広い背中が目に入った。
「お茶をお持ち致しました」
「ああ、ありがとう」
 滅多にない城への客が気になり、アリスは横目でちらりと彼を見遣る。と、ちょうどこちらを見ていた男と目があった。アリスが慌てて目を伏せるのと同時に、彼は小さく噴き出す。見たところ年齢はリデルと同じか、少し年上くらいだろう。まだ四十には達していないに違いない。
「君、新しいメイド? 俺に会うの、初めてだよね」
「え、ええ」
「いつから?」
 いっそ軽薄とも言えるほど快活な口調に戸惑いながら、アリスは素直に答える。
「三ヶ月前です」
「へえ、じゃあ新記録だな」
 男はそう言ってお茶を啜った。
「新記録……?」
「前来た時、ゼロがこぼしてたからさ。『メイドがみんなひと月経たないうちに辞めてしまう』って」
「ひと月……ですか」
 アリスは小首を傾げた。一体何故、メイド達はすぐに辞めてしまったのだろう。待遇はいいし、有能な執事であるリデルのおかげで仕事量もさほど多くない。主人であるゼロ・ハングマン伯爵も、多少風変わりではあるが決して横暴ではない。だとすれば、きっと理由は……。
「まあ、俺がここに来るのも理由のひとつかもしれんがね」
「……え?」
 ぽつりとつぶやかれた言葉に、アリスは思わず聞き返す。だが男は答えない。独り言だったのだろうかと思い直し、アリスはその場を辞すことにした。――ドアノブに手を掛けたとき、
「君!」
「はい?」
 振り返ると、男はアリスを見て優しく微笑んでいた。
「名前は?」
「アリス・ウェーバーと申します」
「俺はルイス・ブラウンだ。よろしく」
「こ、こちらこそ」
 当惑もあらわに口ごもりながら返事をしたアリスに、ルイスは気にした様子もなく笑顔でひとつ頷いてみせた。

  × × ×

 ゼロが応接室に現れたのは、アリスが去ってから数分ほど経った頃だった。
「ルイス。来るなら来ると電報を打って下さいとあれほど」
「まあまあ。こっちも捜査の合間を縫って来てるんでね」
 ルイスは苦笑してゼロの文句を遮った。
「ところで――アリスちゃん、もう三ヶ月になるんだって?」
「……貴方、ひとのうちのメイドに何を……」
 ゼロの無表情な顔の上にさらに影が差したのを見て、ルイスは慌てて手を振る。
「いや、別にそういうつもりじゃない。今度は長く勤めてくれそうだから、良かったなと思って」
「……ええ、まあそれはそうですが」
 ゼロは長い前髪をいじりながら、ルイスをじっと眺めた。
「それで――用件は?」
「うん……例によって、変死体だ」
「まあ、そうでしょうね。ロンドン警察である貴方が私に用があるとすれば、死体絡みなのは自明です」
「別に、俺はお前に会うためだけに遊びに来たっていいんだけどな。忙しくってさ」
 ルイスの軽口を聞き流し、ゼロは身を乗り出した。
「で、死体は既にここにあるのですか?」
「ああ、俺が一緒に馬車に載せて来た。リデルに引き渡してあるよ」
「そうですか。それで、貴方がたは何を知りたいのです?」
「死体の身元は既に分かってる。ロビン・スペード。ジェイク・スペード男爵の次男で、十八歳の青年だ」
「ほう」
 ゼロは小さくうなずいた。
「死体が発見されたのは昨夜だ。ロビンが死んでいたのはスペード家の別邸。近所の人が何か異臭がするって警察を呼んで、行ってみたら玄関にも窓にも鍵が掛かっている。仕方ないんで扉を壊して入ったら――」
「死んでいた、と」
 ゼロは無表情につぶやいた。
「そうだ」
「ルイス、密室殺人は私の領分ではありませんよ」
「わかってるさ」
 ルイスはカップに手を伸ばしてお茶を一口飲む。
「うまいな、これ」
「ええ。アリスはお茶を入れるのが上手ですから」
 ふと緩んだゼロの口元を、ルイスは珍しいものを見たとでもいうようにまじまじと見つめた。
「……何です?」
「あ、いや……」
 ルイスは小さく咳払いをして、話を続けた。
「問題は、ロビンの遺体の状態だ。……ふつうじゃなかった」
「ほう?」
 ゼロの暗い瞳に、初めて好奇心らしきものが浮かんだ。
「最初は首を吊っているように見えて、自殺だと思ったらしい。だが、良く見るとそうじゃなかった」
「首を吊っていたんですか?」
「ああ。俺が行った時も、ロビンの体はシャンデリアに掛けられた紐からぶらぶら揺れていた」
「じゃあ、自殺でしょう」
 投げやりにつぶやくゼロに、ルイスは首を横に振る。
「ぶら下がっていたロビンには、足りないものがいくつかあったんだ」
 ルイスは声を落とした。
「端的に言うとだ――腹の中身がほとんどごっそりなかった」
「…………」
 ゼロは黙ったまま目を細めた。
「あと、足の肉もなかったな。骨が見えていた。まあ、細かくは後で見てみてくれ」
「部屋の中には?」
「なかったよ」
 ルイスはその光景を思い出したのか、右手で軽く口元を押さえた。そのままくぐもった声で話し続ける。
「今のところ、別邸の周りで何か変わったことがあったという話はない。父親のスペード卿も心当たりがないとおっしゃっている。ロビン・スペードがこれまで問題を起こしたこともない。……まあ、彼はかなり風変わりな青年で、別邸にひとりでこもっていることが多かったらしい。どちらかというと物静かで社交的な方ではなかったようだが、ひとに恨まれるようなタイプでもなさそうだしな。何はともあれ――自殺にしても他殺にしても、死体が異常過ぎる」
「なるほど、大体のところはわかりました。……他に、何かありますか?」
 ゼロはソファから腰を浮かせ、ルイスを見下ろした。彼は黙って首を横に振る。
「そうですか。それでは少し見てみましょう。ルイスは署に戻りますか?」
「そうだな。明日、もう一度来るよ」
「はい。それではまた明日」
 すたすたと歩いていくゼロの後ろ姿――きっと地下の解剖室に向かうのだろう。ルイスはそれを見送った後、小さく嘆息した。
「……あいつにこんなことやらせてていいのかなあ、俺たち」
 ゼロの解剖学への造詣の深さに敵うものは、きっと国中を探してもほとんどいない。警察としては非常に頼りになるのだが、ルイス個人としてはあまりゼロを死に近付けたくないのが本音だった。ただでさえ痩躯に黒目をぎょろぎょろとさせているゼロは不健康そのものといったふうに見える。そして、彼が背負う「ハングマン」の名、血塗られた出自――時々ルイスは不安になる。ゼロがいつか死に魅入られ、取り込まれてしまうのではないかと……。
「……馬鹿げてるか」
 ルイスは苦笑し、カップの中の赤い水面に映る自分の顔を見下ろした。ふと、ゼロの声が脳裏に蘇る。――アリスはお茶を入れるのが上手ですから。
「さて、リデルに挨拶して帰ろうかな」
 明日は、あのメイドの子に会えるだろうか。ルイスはぼんやりとそう思った。

  × × ×

「アリス。そろそろお茶の用意をお願いします」
「はい!」
 アリスはケトルに水を汲み、火に掛けた。茶器をあたため、ケーキを切り――くるくると働く彼女を見守りながら、リデルはいつも通り物静かに微笑んでいる。
 ふと、アリスは彼に今朝から気になっていたことを尋ねた。
「あの、今朝のお客様なのですけど」
「はい」
「ゼロ様のお友達……ですか?」
「……うーん」
 リデルは困ったように首を傾げる。
「お友達かどうかはわかりませんが、知り合いなのは確かですよ」
「あまり立ち入るのは良くないことだとはわかっているのですけど……」
 アリスはためらうように視線を揺らしながら、リデルを見上げた。
「どういう方なのですか? ゼロ様の初めてのお客様だから、つい気になって」
「別に構いませんよ」
 リデルはくすりと笑った。
「ルイスはロンドン警察に勤めている者で、ゼロ様に時々捜査のお手伝いを頼みにやってくるんです」
「捜査の手伝いを……」
 アリスは鸚鵡返しにつぶやいた。それはきっと、ゼロの「趣味」と関係があることなのだろう。アリスには決して理解できない、受け入れることもできない――それでも気味悪がったり、否定したりはしないでおこうと心に決めている。主人であるゼロを、傷つけたくはない。
 リデルは目を伏せたアリスを、優しい眼差しで見ていた。
「彼は、元々私の知り合いなんですよ。大学の先輩でね」
「え?!」
 アリスは思わず声を上げた。
「リデルさん、大学に……?」
「ゼロ様がお話しになりませんでしたか? 私は十二三年前に家庭教師としてここに雇われて、そのまま居着いてしまったんですよ」
 もちろん、アリスにとっては初耳だった。ゼロとはそれなりに会話を交わすが、彼自身のことやリデルのことについては今まで聞いたことがない。アリスもまた、あえて聞こうとはしなかった。何となく、話したくないのではないかという気がしたからだ。
「そうだったんですか……」
 十二三年前――ということは、ゼロもまだ十歳を少し超えたくらいの子供だったはず。彼は一体どんな少年だったのだろう。それに、どうしてリデルはあの風変わりな主に仕えようと思ったのだろう。アリスはその青い目に興味の色を浮かべたが、リデルにはそれ以上聞こうとはしなかった。不躾だと思ったのだろう。
 くるくると変わるアリスの表情を見ていたリデルは、また小さく笑った。
「貴方はとてもいい()ですね、アリス」
「え?! いえ、私は……!」
 顔を赤らめるアリスに、リデルは笑みを深める。
「貴方が勤めてくれるようになって私も助かっていますし、ゼロ様もお喜びです」
「ゼロ様も……?」
「ええ」
 リデルは頷く。アリスは頬を緩めた。
「だったら、嬉しいんですけど……」
「以前まではお茶の準備まで私の仕事だったんですよ? でも、ゼロ様は貴方の入れたお茶が美味しいとお気に入りだ。お陰で仕事がひとつ減りました」
 冗談めかすリデルに、アリスは小さく声を立てて笑った。と同時に、ケトルが湯気を立ててかたかたと揺れ始める。お茶の準備に戻るアリスを後目に、リデルは軽く手を上げた。
「じゃあ、後は頼みましたよ」
「はい!」
 念入りに茶葉を蒸らしながら、アリスは元気良く返事をした。

「やれやれ」
 キッチンを出たリデルは、ひとりため息をつく。
「もう、随分と昔のことになるんですね……」
 リデルがゼロに仕え続けることになったきっかけ――それはゼロの祖母、マリア・ハングマンを彼が殺したことだった。それはマリアに殺され掛けたゼロを救うためには他に仕方がなかったことだったし、当時既に警察に勤めていたルイスの力添えを得て事件は揉み消された。しかし、彼がひとをその手に掛けたことに代わりはない。
 「私を独りにするな」――あの日、ゼロはマリアの返り血をその身に真っ赤に浴びて、それでも彼の髪も目も、何にも染まらずに真っ黒だった。「お前が私を死なせなかった。そして、私には誰もいなくなった。だから、お前はここにいろ」――その言葉に、リデルは従った。
 ゼロが死体に固執するようになったのは、きっと彼の幼い日の記憶が原因なのだろう。彼はどこかで死を望み続けているのだろうか。あの時、自分がゼロを救ったのは本当に正しいことだったのだろうか……。
 リデルはつぶやく。
「それでも、私は」
 ――この城でゼロと暮らした日々を、リデルは決して後悔していない。

  × × ×

 ティーセットを抱えたアリスはゼロの部屋の扉を軽くノックすると、返事を待たずに扉を開けた。
「失礼しま――」
「ああ、いいところに来てくれた。髪を拭いてくれないか、リデル」
 アリスは部屋に一歩踏み入れ、硬直した。ゼロは部屋の中央で彼女に背を向けて立っている。肉の薄い背中には小さな翼にも似た肩甲骨が盛り上がっていた。濡れた髪を覆うように白いタオルをかぶっているが、カーペットの上にはぽつぽつと雫が落ちている。
「…………」
 部屋を占める沈黙に気付いたのか、ゼロが振り返った。アリスを視界に捕らえた彼は、目を大きく見開いて停止する。
「あ」
 髪が張り付いた額から顎に掛けて、水滴が流れ落ちていった。
「…………」
「あの」
 先に声をあげたのは、アリスだった。
「髪……拭かないと風邪を引いてしまいます。あと、シャツもお召しになって下さい」
「は、はい」
 ゼロはぎくしゃくとした動きでタオルに手をあてた。そのまま不器用に髪を拭き始める。
 アリスはひとつため息をつき、ティーセットをテーブルの上に置いた。ソファに畳まれていた白いシャツを手に取り、ゼロに差し出す。
「ゼロ様、先にシャツを」
「……すみません」
 ゼロはもぞもぞと袖に腕を通し、ボタンを留めた。――しかし、ひとつずつ掛け違っている。
「あれ?」
 不思議そうに首を傾げるゼロに、アリスは小さく噴き出した。軽く身を屈め、掛け間違ったボタンを直してやる。
「お茶が冷めてしまいますから、こちらに」
「はい」
 ゼロをソファに座らせると、アリスは背後に立って彼の髪を拭いてやった。漆黒の髪は水気を吸って艶やかに跳ねている。混じりけのないその色が、とても綺麗だと思った。ゼロはなされるがまま、彼女に頭を預けている。
「今日はアップルパイです。焼きたてですので、どうぞ」
「はい。美味しそうですね」
 髪を拭われながら、ゼロはティーカップとフォークに手を伸ばした。アリスは彼の頭を揺らさないように気をつけながら、タオルで髪の水気を吸っていく。
 昼間からゼロがシャワーを浴びていたのは、きっと血の匂いを洗い落とすため――つまり、先ほどまで彼は死体を解剖していたということになる。今はフォークを摘んでいる、細く長い指先。それが死体に向かって刃物を握るとは、アリスには未だに信じられなかった。
 アリスは軽く首を振って暗い思考を追い払うと、ことさらに明るい声を出した。
「こうやっていると、孤児院にいた犬を思い出しますわ」
「犬を?」
「ええ」
 だいぶ髪も乾いてきた。アリスがタオルを取ると、ゼロが肩越しに彼女を見上げてくる。
「雨が降ると大喜びで庭を走り回るんですよ。びしょびしょに濡れて戻ってくるから、部屋に入れる前に拭いてやらなくちゃいけなくて」
「それは困った子ですね」
 人に髪を拭かせていた自分が困りものだという自覚はないのか、ゼロはまるでひとごとのようにつぶやいた。アリスはくすくすと笑う。
「でも、犬には悪気はないんですもの。仕方ありませんわ」
「……そうですね」
 ゼロは目を伏せ、くるりと前を向いた。アリスに背を向けたまま、ぽつりとつぶやく。
「確かに……動物には悪気はない」
「……?」
 わずかに声の調子を変えたゼロに、アリスは怪訝そうに眉を寄せた。
「人が動物のした行為を悪だと決め付けても、それは人にとってそうであるだけで、そのつもりのなかった動物にとっては迷惑な話かもしれません。人は人を裁きますが……人は動物を裁けない。裁くべきではない」
「ゼロ様……?」
「そもそも人間がこの世に現れるまで、善も悪もどこにも存在しなかったのかもしれない……」
「…………」
 アリスの困惑を感じ取ったのか、ゼロは不意にくるりと振り返った。
「アップルパイ、美味しいです」
「あ、ありがとうございます」
「また作って下さいね」
 無表情に念を押すゼロにうなずき返しながら、アリスは思う――犬は人間のようには表情を変えないが、尻尾の振り方で感情を伝えるのだという。ゼロには尻尾はないけれど、彼もまた表情ではなくちょっとした仕草で感情を表現する。同じようなものなのかもしれない。そう考えながらゼロを見ていると、だんだんと彼が黒い毛並みの大型犬に見えてきて――アリスは小さく笑みを浮かべた。