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クレリック・オン・インサニティ

 ゼロ・ハングマン伯爵が体調を崩したのは、冬の寒さが少し緩み始めた時期であった。重いだとか体が締め付けられるだとか理由をつけて厚着を嫌がるゼロは、きっと油断したのだろう。それを知っているから、城に仕える二人――執事のリデルも、メイドのアリスも、十分に気を配っていたつもりだったのだが……。
 その日の朝から、ゼロは乾いた咳を繰り返している。体も随分熱っぽいようだ。
 ハングマン城に呼ばれた医師、デミアン・ロスチャイルドは簡単な診察を終えると、表情を和らげた。
「大したことはなさそうですね。こじらせないよう、暖かくしてよく寝なさい。薬は食後に。食べられなくても、水分をしっかりとって薬は飲むこと」
「苦いのは、あまり……」
「私が責任をもってきっちりと飲ませます」
 涸れた声で言うゼロを、側に控えた執事のリデルがぴしゃりと遮った。
「頼むね」
 デミアンは薄氷色の瞳を細める。
「……なにか?」
 ゼロは熱に浮いたような顔で、ぼんやりとデミアンを見上げた。
「いえ、まあ私も風邪くらいは診られるけれど」
 二人とも、忘れているのかなあ。そうつぶやきながら、長い金髪をかき上げる。
「私、精神科医だからね?」
「…………」
 その言葉に、ゼロとリデルは思わず顔を見合わせる。口を開いたのは、ゼロだった。
「貴方が必要だと判断して、紹介して下さるのなら、他の医師の診察も受けますけど……できれば、あまり」
 知らない人には診られたくありません、とゼロはつぶやく。――「首つりの伯爵」、呪われた血筋。相手が医師とはいえど、不躾な視線に曝されるのはごめんだ。
「体だけでも?」
 デミアンは優しく尋ねた。ゼロは頷く。
「体と心はわけられるものではない。そうでしょう、デミアン?」
 彼は微笑み、頷きを返した。
「わかった。どうしても必要なとき以外は私が貴方を診ることにしましょう」
 だから、とデミアンは言葉を足す。
「できるだけ健康でいなければなりませんよ」
「……善処します」
「早速お薬を飲みましょうか、ゼロ様」
 リデルが薬包をゼロに差し出す。ゼロは顔をしかめた。
「……ミルクティで飲むのは、」
「駄目です。お水でお飲みなさい」
「何故、」
「ミルクやお茶と一緒に胃腸に入ると、薬の吸収が変わってしまうからね。……って、そんなことくらい君は知っているよね?」
「…………」
 ゼロはふい、と顔を背けた。この拗ねたしぐさが彼なりの甘え方なのだということを、リデルもデミアンも長い付き合いの中で既に学んでいる。リデルははあ、とため息をついた。
「鼻をつまんで無理やりに流し込まれるのと、ご自分でお飲みになるの、どちらがいいですか?」
 ゼロが顔をひきつらせ、デミアンが笑う。
「結構楽しそうだよね、リデルも」
 とん、とん、と伯爵の寝室の扉がノックされた。
「アリスです」
「……どうぞ」
 答えを返し、ゼロは咳き込む。リデルはその背中を軽くさすった。
 姿を見せたアリスは心配そうな顔をしていた。その手にはひとつのグラスがあった。
「大丈夫ですか……?」
「大丈夫です、薬は苦いから嫌だと我儘を仰る程度のお元気はおありですから」
 リデルの言葉にデミアンが噴き出し、アリスは目を丸くした。ゼロは口元を袖で抑えたまま、顔を伏せる。その耳はほんのりと赤かった。
「あの、私……レモン水をお持ちしたのですけれど」
 アリスはそう言って手にしていたグラスをサイドボードの上に置いた。
「お水にお塩とお砂糖を入れて、レモンを絞って味を整えたもので……さっぱりして飲みやすいんです。孤児院では熱を出すとみんなこれを飲んでいて」
「…………」
 リデルはゼロを見下ろす。
「飲まれますか?」
「……飲む」
 ゼロはすぐにそう答えた。リデルの口元が笑みを浮かべる。
「薬が先ですよ」
「わかった」
 ゼロは口にそのレモン水を含んで頭上を仰ぎ見ると、薬包の中の粉薬を一息に口の中に入れた。口をつぐみ、ごくりと飲み込む。そうして、何度かレモン水を飲んだ。
「……よくできました」
「お味はどうですか?」
 ゼロはアリスを見て、頷いてみせた。
「美味しいです。また薬の時間に作ってくれますか」
「もちろんです!」
 アリスはぱっと顔を輝かせた。
「いくらでも作りますから、欲しくなったら仰ってくださいね」
「ええ」
「……アリスさんは偉大だねえ」
「全くです」
 デミアンとリデルはほぼ同時に肩をすくめたのだった。

 デミアンを見送るためににリデルが席を外し、部屋にはゼロとアリスとが残された。ゼロはベッドに入ってはいるが、ベッドヘッドに厚いクッションを置いてそれに背中を埋めている。アリスはおそるおそる声を掛けた。
「横にならなくても良いのですか? 少し眠られては」
「…………」
 ゼロの瞳は熱のせいか、少し潤んでいる。
「もう少し、ここにいてくれますか」
「はい」
 アリスが頷くと、ゼロはもぞもぞと背中のクッションを外した。アリスはそれを受け取ると、ゼロの背中に手を添えて彼をベッドに横たわらせる。
「……失礼しますね」
 アリスはゼロの額に浮いた汗を、絞ったタオルでそうっと拭った。ゼロは気持ち良さそうに目を細める。
「汗をかいたら、きっと熱が下がりますよ。ひと眠りされたらお着替えされた方が良いかもしれません」
「ありがとうございます。……アリスは看病が上手ですね」
「孤児院にいた頃、覚えました」
 アリスは微笑む。
「シスターだけじゃ手が回らないから、子供達同士でも面倒を見合っていたので」
「……そうですか」
 ゼロはつぶやく。
「私は……」
 ――リデルが来るまで、熱が出ても一人でベッドの中で震えることしかできなかった。薬なんて知らなかった。治るまで耐えるしかないのだと思っていた。
 アリスは息を呑む。
「私には、誰も……いなかったから……」
 ゼロは目を閉じている。その脳裏に浮かぶのは、彼自身の過去だろうか。
「今は、リデルいて……デミアンも来てくれて……貴方も側にいてくれる……」
 うっすらと、ゼロが瞼を開けた。多分、それは微笑みだった。
「私はね、アリス」
 ゼロの熱っぽい手が、アリスの手をそっと握った。
「時々怖くなるのです。いつか何かを失うのではないかと――失いたくないものばかりが増えて……」
 ――愛しいもの。大切なもの。それらに囲まれる日々はこんなにも幸せで、優しくて。
「怖い……アリス……」
 つう、と眦を流れた涙は、熱のせいか。それとも。
「…………」
 ゼロは寝入ったようだった。
「ゼロ様……」
 ――ゼロ様。
 アリスは何度も心の中で彼の名を呼ぶ。
 私は貴方をお慕いしています、ゼロ様。それはゼロ様が私の主だから、でしょうか。本当にそれだけなのでしょうか……。
 自分でも時々怖くなるくらいに、私は貴方を想ってやまない。
 私の大切なゼロ様。どうか、ずっとお傍に。
 アリスは手を握り返し、そして涙の流れた痕にそっと唇を寄せる。――そうせずにはいられなかった。

  × × ×

 ゼロの熱は二日ほどで引き、少しばかりの咳が残るばかりとなった。
「念のため、薬はもう少し飲んだ方がいい」
 再度訪れたデミアンにそう言われ、ゼロは顔をしかめる。やはり、苦い薬は嫌いらしい。
「……わかりました」
 ところで、とゼロは傍らのテーブルから新聞をつまみ上げた。
「デミアンはこの医師をご存知ですか」
 デミアンはちらとその紙面を見て、ため息をつく。
「個人的な付き合いはありませんが――噂程度は」
 アダム・キース。ロンドン市民では誰も知らぬもののない、高名な医師であった。王室や他の貴族たちの診療にも携わっているというその彼が今、苦境に立たされているのであった。
「興味があります」
 ゼロはぽつりと言った。
 アダム・キースには弟子の若い医師が十数名いるのだが、そのうちのひとりだという者が匿名で、ある新聞に告発文を送った。曰く、アダム・キースは人体実験を行っている――。
 浮浪者や娼婦を金で買って彼らに怪しげな新薬を試し、それを事細かに弟子に観察させ、記録させていると。勿論、大騒動になった。アダム・キースはそれを否定し、弟子たちも皆揃って否定した。告発者が誰であるのかはわからない。告発文の文字は新聞を切り抜いて並べたもので、筆跡も不明だった。嫌がらせ、とみる向きもある。優秀な医師への妬みではないか、と。だが、本当にそれだけだろうか……。
 デミアンはソファに腰掛けたまま、足をゆったりと組み替えた。
「そもそも、医療には実験的な側面があることは否めません。新しい治療法も薬も、最初から効果があるかどうかはわからない。毒があるかどうかは動物で試すことができますが、動物で問題がなかったからといって人間でどうかは確かではありません。最初の一人は、言ってみれば常に実験なのです」
「それは理解できます。が、」
 ゼロはあたりに無造作に放り出してあった切り抜きを拾い上げた。
「告発文によると――」
「ええ、私も読みました」
 デミアンは頷く。
「『治療を目的としているとは思えないような、毒物の投与も行っている』――とか」
 ゼロは頷く。
「あり得ることだと思いますか」
 尋ねられ、デミアンは目を瞬く。
「どういうことです?」
「アダム・キースと話したことは?」
「……少しは」
「精神科医として、彼の人格について何か思うことは?」
 ゼロの探るような眼差しに、デミアンは首を横に振った。
「挨拶程度しか交わしたことのない人間を分析するなど、そんな傲慢なことはできませんよ。人の心はそんなに簡単なものではありませんし、それにもし、そんなことをしてしまえば――私は人を診る資格を失ってしまう。そんな気がします」
「なるほど。失礼なことを言いました、すみません」
 ゼロは素直に頭を下げる。
「それから」
 顔を上げながら、ゼロは付け足すように言った。
「やはり、私は貴方にこれからも診てほしい――私は、貴方を信頼していますから」
 デミアンは驚いたように目を見開き、そして穏やかな笑みを浮かべる。
「こちらこそ、よろしく」
 ――デミアンがゼロを知ってから、十数年。彼は成長し、変化していく。それを見守ることを許されてきた、ということ。それはとても幸運だ、とデミアンは思った。

 デミアンが帰宅した後、ゼロはリデルを呼んだ。
「アダム・キースの医院から運び出される遺体(ボディ)を入手できないだろうか」
「……ゼロ様」
 リデルは困惑したようにゼロを見つめる。
「まだ体調も万全ではないのに、何を」
「体調なら問題ない」
 平坦な口調でゼロは言う。
「ルイスに頼んでみるか。どうだろう」
「……もし」
 リデルはため息交じりに答えた。こうなったらゼロは引かない。そのことをリデルは良く知っている。
「告発文が事実だとするならば、身元引受人のいないご遺体は死体安置所に引き取られるはずですが――そちらとドクター・キースは繋がっていると考えたほうが良いかもしれません」
「警察が介入すれば、すぐにキースの知るところとなる……か」
「恐らくは」
「なるほど」
 ゼロは目を細める。
「それなら、ルイスは巻き込まない方が得策だな」
「ゼロ様」
 リデルが固い声音で彼の名を呼ぶ。
「私にひとつ、考えが」
 ゼロはじっと彼を見つめ、そしてひとつ、頷きを返した。
「わかりました。任せます」