instagram

クライ・フォア・イブル

 雷鳴の轟く嵐の夜、一台の馬車が駆けていく。向かう先にあるのは陰鬱な空気を纏う城――ひとはそれを、「首つりの城」と呼ぶ。
 小さな堀に掛けられた桟橋は、その訪問者を待っていたかのように降ろされていた。黒塗りの鋼でできた城門が、馬車を飲み込むように開く。馬車は強い風に煽られながらも、城の中へと入っていった。
 車から降り立ったのは、壮年の紳士である。その長いシルバーブロンドの髪からも、黒いフロックコートの裾や袖口からも、ぽたぽたと水滴が垂れている。どうやら彼は自身で馬車を駆ってきたようだった。
「お待ちしておりました、ドクター・ロスチャイルド」
 玄関で待ち受けていたのは、長身の執事だった。翡翠色の瞳が、ずぶ濡れの彼を映して細められる。
「すぐに着替えと毛布をお持ちします。さあ、早く応接間へ」
「ありがとう」
 答えて微笑んだ男――デミアン・ロスチャイルドは、続けて短く言った。
「すみません、リデル」
「何がです?」
 振り返ったリデルの表情は、固い。
「……いえ」
 デミアンは首を横に振った。
「なんでもありません」
「…………」
 リデルは黙って、扉を閉めた。

 暖炉に炎があかあかと躍っている。ソファに向き合って座っているのは、デミアン・ロスチャイルドとこの城の若き主――ゼロ・ハングマンであった。
 デミアンはリデルに借りたシャツに身を包み、毛布で肩を覆っている。その目の前には紅茶の注がれたカップがあったが、手を付けられないままに既に冷めてしまっていた。
 静寂を破ったのは、ゼロである。抑揚のない声。
「――『死体』を、お持ちになったのでしょう?」
「…………」
 デミアンは伏せていた目を上げた。なぜ用件を言い当てられたのかと、その視線は問うていた。ゼロはいつものとおりの無表情で、床の上に落ちた己の影を眺めている。
「この嵐の中、貴方がわざわざひとりで、しかも辻馬車ではなく己の馬車でここにおいでになった。他でもない、私のところへ。……『からだ』は、時間が経てば傷みますからね」
「その通りです。君の力を、借りたい」
 彼は小さくつぶやいた。
「本当に、すまないのだけれど」
「何故、謝るのです?」
 ゼロは心底不思議そうだった。首を傾げ、問いを重ねる。
「……しかし、貴方は医者でしょう? 私よりも人体については詳しいのでは?」
「残念ながら、『遺体』を診る知識に関しては君にははるか及ばない」
 デミアンは固い表情を崩し、苦笑を浮かべた。ゼロは笑わない。
「もし必要なら、手伝いましょうか? 君の言うとおり、僕は医者だし」
「いいえ」
 ゼロは首を横に振る。漆黒の瞳は、何も語らない。
「その時は――ひとりにしてください」
「……わかりました」
 デミアンはうなずいた。ゼロは話題を元に戻す。
「それで……連れてきたのは、貴方の患者だった方ですか?」
「ええ。十四歳の、少女です」
 デミアンの表情に、悲痛な色が浮かぶ。
「僕のもとで治療を受けていたのですが――近所の者に『悪魔憑き』だと言われ、『悪魔払い』を行われた。その途中で、亡くなってしまったそうです」
 ――「悪魔憑き」。その言葉に、ゼロの肩がぴくりと震えた。
「家族や教会の者たちは不幸な事故なのだと主張していますが、僕にはそうは思えない……しかし証拠もない。親族が追求を望まないので、警察も消極的です――しかし、彼女が何故死ななくてはならなかったのかを、僕は知りたい。いえ、知らなくてはならない」
 葬儀屋に金を握らせて遺体を譲り受けたのだと。本来決して許されない行為であるが、そうでもしなければ全ては闇に葬られてしまうのだと――デミアンはそう言った。
「……わかりました」
 ゼロは立ちあがり、デミアンを静かに見下ろす。
「嵐がやむまで、ここに滞在されては? 部屋は用意させます」
「ありがとう。助かります」
 微笑むデミアンに、ゼロは一礼する。顔を上げた彼はデミアンを見遣り、少し躊躇うように視線をさまよわせた後――口を、開いた。
「こちらこそ、貴方には感謝しているのです。ドクター・ロスチャイルド」
「……え?」
「私の死への執着を、貴方が意味のあるものにしてくれた」
 ある時期を境に、ひとや動物の死体にしか興味を示さなくなった幼い彼に医学の知識を授け、解剖書を与えたのは、デミアンだった。それが正しいことだったのかどうかは、今でもわからない。ただ、呪いを一身に受けるかのように肉親の死に憑かれた彼を、現実に繋ぎとめるにはそれしかないと思ったのだった。
 しかし、リデルはもしかすると――ゼロに死を暴く力を与えた自分を、恨んでいるかもしれない。ゼロが死に捕らえられている限り、リデルもまた解放されないのだから。
「…………」
 デミアンは、まじまじとゼロを見つめた。ゼロはその視線を避けるように、ふいと顔を背ける。
「貴方のおかげです。ですから――貴方は何も謝る必要などない」
「…………」
 ゼロはそれだけを言うと、くるりと背中を向ける。
「……ゼロ君」
 デミアンはその華奢な後ろ姿を、じっと見つめていた。

  × × ×

 アリスがその医者に会うのは、二度目のことだ。変わった医者、と彼女の主は言っていたが、そう言った張本人の方がよほど変わっていると彼女は思う。だが、そんな主人のことを、彼女は心から慕っている。
 デミアンを空いた客室のひとつに案内し、ランプに火を灯す。窓の外では、まだ風雨が荒れ狂っているようだった。
「確か、以前もお会いしましたね」
 デミアンは小さく首を傾げ、柔らかく微笑んだ。
「まだ、勤めておいででしたか」
「はい。お暇を出されるまでは、お勤めするつもりです」
 アリスは笑みを返す。デミアンはそんな彼女を、眩しげに見つめた。
「貴方は……怖がらないのですね」
「え?」
「『首つりの伯爵』と、その城――誰もが怖がって近付かない場所。そうでしょう?」
「…………」
 デミアンの言葉に、アリスの顔が曇った。
「……最初は、怖かったんです」
 ぽつり、とつぶやいた。
「でも、それは……噂が怖かっただけで、何も知らなかったから。今から思えばおかしいけれど……知らないくせに、怖がっていたんです」
 アリスはひとことひとことを、噛みしめるようにして口にする。
「実際にここで働かせていただくようになって、ゼロ様やリデルさんと一緒に過ごして……何にも怖くなんてないんだって、わかりました。おふたりともとっても優しくて、素敵な方だって。だからみんな、知らないだけだと思います」
 薔薇色に頬を上気させ、アリスは言う。
「私……ここが大好きですもの」
「…………」
 デミアンは彼女の言葉を静かに、笑みを湛えて聞いていた。
 アリスははっとしたように身を引き、肩を縮める。
「あ……すみません。うるさくしてしまって」
「いいえ」
 デミアンは首を横に振った。
「僕は、ゼロ君の古い知り合いなので……彼の近くに君のような人がいてくれて、とても嬉しく思いますよ」
「……古い、お知り合い?」
 アリスの瞳に興味の色が灯る――だが、彼女はそれ以上何も聞こうとはしなかった。あくまで己は使用人なのだと、主人の私的な事情に踏み込んではいけないのだと、わきまえているのだ。
 だからこそ――話そうと思った。
 デミアンは客室に置かれた椅子に座り、アリスを見上げた。
「君は、『悪魔憑き』、という言葉を知っていますか?」
「え……あ、はい」
 突然の質問に面喰いながらも、アリスは頷いた。
 実際に見たことがあるわけではない。だが、その言葉は知識としては知っていた。曰く、悪魔に憑かれたものは常軌を逸した振る舞いをし、人を傷つけ、己を害し――まるで魂を滅ぼすかのような行いに奔るという。
「かつては、本当に悪魔が憑いたのだと信じられていたのですが……」
 デミアンは薄く苦笑を浮かべた。
「現在では、我々の領域の問題ではないかと考えられるようになっている――つまり、精神の疾患ではないか、というわけです」
「精神の……?」
 アリスは目を瞬いた。デミアンは頷く。
「体と同じように、心も病魔に侵されるのですよ。病んだ体が高熱を発するように、病んだ心は一見異常な行動を引き起こす」
「…………」
 ゆらり、とランプの炎が揺れた。
「悪魔は外からとりつき、祓うことができるものだと思われていた。しかし、そうではない」
 ――病魔は、ひとのうちに棲む。
「……どうして」
 アリスは青い顔をして、デミアンに尋ねた。
「どうして、私にそんなお話を……?」
「…………」
 デミアンは穏やかな表情で彼女を見上げた。
「昔、ゼロ君は『悪魔憑き』を疑われたことがあったんですよ。それで、僕は彼と知り合ったのです」
「え……?」
 ――それは、彼が死体を暴くから……?
 アリスはきゅっと唇を噛んだ。
「ゼロ様は」
 強い声だった。
「『悪魔憑き』なんかじゃありません……!」
「もちろん」
 デミアンは頷く。
「悪魔なんて、どこにもいません」
 その表情から、笑みが消える。
「この世にいるのは、人間だけですからね」
 人を「悪魔」と呼ぶのも、人を殺すのも、人間なのだから――。
 雷鳴が轟き、アリスの体は震え竦んだ。

  × × ×

 雷鳴が遠ざかった頃、アリスはゼロに呼ばれた。その髪はじっとりと濡れていて――雨ではない、シャワーを浴びたのだと、彼はぼそぼそと言った。
 ああ、彼はまたひとつ死を手に取ったのだ。アリスはそう思ったが、つとめて顔色には出さないようにと気を付ける。
「熱いお茶をお持ちました」
「……ありがとう」
 白いタオルで漆黒の髪を覆い、ゼロはソファに腰掛けていた。
「ここに」
「え?」
 聞き返すと、ゼロは俯いたままもう一度繰り返した。
「少しの間――側にいてくれませんか」
「…………」
 アリスは目を瞬いた。
「私が……?」
「ええ」
 ゼロがアリスにそう頼むのは、初めてのことではない。少し前にも、こんなことがあった。あの時もゼロはひどく濡れて――何かに脅えていた。
 ゼロは、アリスを自分の左隣へと手招く。戸惑いながら彼女が腰掛けると、ゼロは右手をカップの方へと伸ばした。
 香りを嗅ぎ、そして一口含んで――ゼロはつぶやく。
「やはり、貴方の淹れたお茶は美味しいです」
「あ、ありがとうございます」
 ゼロの左手が、無造作にアリスの右手の上に落ちた。それは、ひどくひんやりとしている。
「…………」
 その冷たい手は、握るでもなく撫でるでもなく、ただ彼女の手に触れていた。
 ――優しい手だ。アリスは思う。彼の手は死を弄っているのではない。死の中に閉じ込められている生の残滓を拾い上げているのだ。彷徨える命の欠片を掬いあげ、その声なき声に耳を傾ける。それはきっと、彼にしかできないことだ。そうすることで自分が傷つくとしても、ゼロはそれをやめない。
 ――それはきっと、ゼロ様が優しいから……。
 アリスはそっとゼロの手を握った。彼は驚いたように少し身じろいだが、何も言わず、手を引くこともなかった。

「嵐……」
 いつの間にか、雨音は止んでいた。風の音も、聞こえない。
「過ぎ去ったようですね」
「はい」
 アリスの手を離し、ゼロは立ちあがる。
「悪魔……か」
 ぽつり、とつぶやかれた声があまりにも苦しそうで、アリスは彼の背中にそっと手を伸ばした。
 ――悪魔なんて、いません。少なくとも、ここには。
「…………」
 暗い窓にゼロの顔が映っている。そこには、いつも通り何の表情も浮かんではいなかった。