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エンジェル・スティグマータ

 それから数日後の夜、コヴェント・ガーデンの歌劇場にゼロ・ハングマン伯爵とその執事が現れた。彼が公の場に姿を見せたのは、実に数ヶ月ぶりのことだ。彼とすれ違う貴族らは、どこか怯えたような目をして会釈する――遠巻きにされるのはいつものことだとしても、今宵は格別ひどい。
「リデル」
 背を丸めて歩いていたゼロが、不意に背後のリデルを呼んだ。
「いかがなさいましたか?」
「もしかして……私は疑われているのか?」
「さあ」
「私には『天使』なんて似合わないと思うんだが」
「私もそう思います」
「率直な意見がありがたいよ」
 ゼロは肩をすくめて再び歩き始める。リデルは、その後ろ姿をやや心配そうに見守っていた。彼は知っていた――街で囁かれている「天使」にまつわる噂を。
 「天使」は「首つりの伯爵」を狙っている。

 今宵の演目は「ファウスト」。悪魔メフィストフェレスと契約を結んだファウストが純真無垢な少女、マルガレーテに恋慕し、やがて彼女は身を堕としてしまう――。
「ひどい話だな」
 ゼロは小さな声でつぶやいた。リデルはその翡翠の目で静かにゼロを見る。
「歌劇にはないが、そもそもメフィストフェレスが神と賭けをしたのが事の起こりだろう。神が『賭け金』に選んだのがファウスト。その男の心を堕落させることができればメフィストフェレスの勝ち。ファウストやマルガレーテはやつらの被害者だよ。案外、彼らは本当にただ愛しあっていただけなのかもしれない。――いや、」
 リデルは静かに主人の言葉に耳を傾けている。ゼロはふう、とため息をついた。
「メフィストフェレスさえ、神の手の内にあったのか……」
 ――確かにゼロの言う通りかもしれない、とリデルは思った。ファウストがマルガレーテを愛したこと、それそのものは罪ではないはずだ。彼が罪を犯したとするならばマルガレーテの兄を手に掛けたことと、神に叛いたこと。後者は本当に罪と言えるのだろうか……。
 終盤。舞台ではファウストとの間に生まれた我が子を手に掛け、精神に異常をきたしたマルガレーテが天使に祈り続けている。ファウストは必死でそんな彼女に手を伸ばしているが、彼女には届かない――。新進気鋭のソプラノだというそのマルガレーテは、やや技量に問題があるように思われた。何故、彼女がこの舞台に起用されたのだろう、とリデルは不思議に思った。
『私、貴方が怖い!!』
 マルガレーテに拒絶されたファウストの絶叫、そして天使の合唱。終幕直前、舞台上にはひとりの天使役が──。
「ん?」
 ゼロがやや身動いだ。目を細めて舞台をじっと見つめる。リデルもつられて天使を見つめた。真っ白な服に身を包み、顔にまで白い仮面をかぶって──。

「あ――?!」

 叫んだのは誰だっただろう。天使は手にしていた杖を、マルガレーテに降り下ろした。白い服に点々と飛ぶ赤。杖ではない。細身の(つるぎ)だ。
 女性たちのかん高い悲鳴が響き渡った。
 リデルの頭が一瞬真っ白になった隙に、ゼロは座席から駆け出していた。
「ゼロ様!!」
 あわてて後を追おうとするが、パニックに陥った観客に阻まれて移動がままならない。ゼロの後ろ姿はみるみるうちに遠ざかっていく。リデルは叫んだ。
「ゼロ様──!!」

  × × ×

 コヴェントガーデンの路地を縫うように走り抜ける「天使」を追うのは、さほど難しいことではなかった。何しろ白い服は夜の闇でもひどく目立つ。ゼロは黒のフロックコートを靡かせてそれを追った。
 霧のロンドン。視界が悪くなってきたな、と感じ始めた頃、「天使」は不意に立ち止まった。
「はじめまして、『首つりの伯爵』……」
 ゼロは黙って「天使」を見つめる。月に照らされて燦然と輝くブロンド。顔は未だ仮面に隠されていた。
「何故、僕を追ってきたんですか? 噂――ご存知ありませんでした?」
「知っていますよ。貴方は私を狙っているそうですね? その理由は?」
 静かなゼロの声に、「天使」は少しだけ笑った。
「貴方にならきっとわかってもらえると思うのですが……ねえ? 『首つりの伯爵』」
「…………」
 ゼロは無表情に「天使」を見返した。
「貴方、死体を集めて何をしているんです? きっと切り刻んで悦に入っているんでしょう? どうです、興奮しますか?」
「いえ、別に」
「嘘をつくことはない。だって僕らは同類なんだから」
 「天使」はそう言いながら一歩進み出た。靴に染みたマルガレーテの血が、ぴちゃりと濡れた音を立てた。
「貴方は伯爵だから、死刑になった死体とか、殺人事件の被害者の死体とか、そういったものを裏から手に入れることができる。でも僕は違う――そんな力はない。だったら、どうしよう? どうしますか? 貴方なら」
 ゼロが答える前に、彼は言葉を続けた。
「だって、仕方がないじゃないですか。死体がないことには満たされないんだから――そうでしょう? 伯爵。僕らって、そういう人間でしょう?」
 ゼロはうなずくこともなく、ただ彼を見つめている。彼は苛立ったように踵を鳴らした。
「とはいえ、善人を殺すんじゃこっちの寝覚めも悪いんでね。できるだけひとに憎まれているような、そういう人間を探すんです。そうしたら――不思議なものだ、『天使』の仕業だなんて言われて、英雄視されちまった」
 「天使」は大笑した。
「いなくなった方がいい人間を殺して、何が悪い? 何も悪くない。神様だって自分を裏切るものには死をもって報いたじゃないか。僕が同じことをして、誰が責められます?」
「今日のあの彼女には何の罪が?」
「ああ、あれは僕の姉です。唯一の肉親なんですけどね」
 「天使」はあっさりと言った。
「あいつ、あの役を体を使って勝ち取ったんですよ……。穢いでしょう? 妻子ある相手もいたのにね! 本当に穢い。あんな売女(ばいた)が僕の姉だなんて、ぞっとする」
「今回は臓器を取らなかったんですね」
「今日は、姉よりも貴方のほうが重要だから。あれはいわば囮なんだ」
 「天使」はゆらりと一歩、彼に近づいた。
「呪われた血筋のハングマン家……貴方が最後の生き残りだもの、貴方の血を見てみたいんですよ。母の腹を割き、父によって取り出された子供……ゼロ・ハングマン……」
「血? 血くらいいくらでも見せてあげますよ」
 突然、ゼロは自分の指の皮膚を食い破った。口の中に広がる血の匂い。「天使」ははっと息を飲んだ。その一瞬の隙で、ゼロには十分だった。
「ぷっ!!」
 口に含んだ血液を、「天使」のかぶった仮面に向かって噴き散らす。「天使」が怯んだ。
「貴方の唯一の肉親は姉。それももう、いない」
 ゼロはつぶやきながら、懐からコルトSAAを取り出した。「天使」の胸に向けて、撃つ。
 ――ぱん!
「貴方が死んでも、いなくなっても誰も困らない――何も悪くない。なるほど、貴方の理屈では私は貴方を殺しても問題ないということですね」
 ゼロは地面に崩れ落ちた「天使」の髪を掴みあげた。
「頭を避けたのは……貴方の頭の中身に、脳に興味があるからですよ」
 仮面を外し、瞼を押し広げる。サファイヤのようなそれは、既に瞳孔が散大して空虚だった。
「私は殺人は嫌いです――でも、殺される方がもっと嫌いです」
 幼い彼を殺そうとした祖母と、彼を救った若き日のリデル。ゼロは思い出すとなしにそれを思い出した。確かに、父は母の腹を割いて彼を生み出した。それは、母が病で彼を生み落とす力がなかったから。我が子だけはどうか、生きて――母の望みだった。しかしその両親の行動は祖母にとって許しがたい悪であり、その憎しみは、ゼロに向けられた。その頃には、既に父は愛する妻のあとを追っていたから……。
「貴方のお姉さんは、貴方のために身を売ったのかもしれないのに。唯一の肉親として、貴方を養うために――そのために、望まぬことをしたのかもしれないのに」
 ゼロはつぶやく。
「ゼロ様!」
 背後から駆け寄ってくる足音が聞こえた。ゼロは慌てる様子もなく手を払って立ち上がる。ゆっくりと振り向くゼロの目の前で、リデルが息を切らせていた。
「ゼロ様……、ご無事で」
「リデル」
 ゼロは手にしたままだったコルトSAAをコートのポケットに仕舞い込み、「天使」と呼ばれた青年の死体を見下ろした。
「この『天使』を、城に運んでくれ」
「……御意」
 リデルは恭しくそう答え、そして付け加えた。
「しばらく貴方のおやつは抜きです。全部アリスにあげます」
「えっ?!」
 ゼロは弾かれたようにリデルを見つめる。リデルは死体を担ぎ上げながら、すらすらと続けた。
「勝手な行動をして、私に心配を掛けた罰です。お分かりですね? アリスは働き者で良い子ですし、今日もお留守番をしてくれました。ご褒美をあげなくては」
「し……しかし……」
 当惑した顔でリデルを見上げるゼロに、彼は真顔で告げた。
「ゼロ様。もうこのようなことは――」
「……わかった」
 ゼロは素直に頷き、そしてぽつりとつぶやいた。
「殺人は、嫌いなんだがな」

 ――「天使なんて代物がいるのなら、私は見てみたいですね。特に羽の辺りの構造が」

 先日、アリスに向かって言ったことを思い出す。だが、今リデルに運ばれている「天使」には羽がない。
「このことを知られたら、きっとアリスに嫌われてしまいますねえ――」
 ゼロはのんびりと、しかし真剣な眼差しでそうつぶやいた。

  × × ×

「天使、消えてしまったそうですね」
 アリスの言葉に、ゼロはカップを持つ手を止めた。
 いつもはティーセットとともにあるはずのお菓子がない。代わりにビスキュイを頬張っているのはアリスだった。
「もうずっと『裁き』――えっと、つまり殺人がないって」
「そうですか」
 ゼロは再びカップを傾ける。アリスは首を傾げてゼロを見つめた。
「ゼロ様」
「何です?」
「『天使』――どこに行っちゃったんでしょうね」
「さあ」
 短く答え、ゼロは天井を見上げる。
「天国にでも帰ったんじゃないですか」
「それ、死んだってことですよね?」
「ええ……まあ」

 歌劇「ファウスト」ではマルガレーテは天使に迎えられ、天国への扉をくぐる。つまり――彼女は死んだ。そういうことだ。
 それを天使は称して言う――「救われた」と。
 
「でも、何だかほっとしました」
 アリスは微笑む。
「ゼロ様が変なこと言ってたし……」
「変なこと?」
 首を傾げるゼロに、アリスは頷いた。
「ええ。ほら、『「天使」が次に狙うのは……』ってやつです」
「ああ」
「ゼロ様が殺されてしまっては、困りますもの」
「困りますか」
「もちろん。だって、」
 ゼロの問いに、アリスは大きく頷いた。
「私、次の仕事探さなきゃいけなくなります」
「ええ、ええ、そうでしょうとも」
 アリスが手に持つビスキュイを恨めしそうに眺めながら、ゼロはつぶやいた。アリスは小さく吹き出す。
「嘘ですよ。……私、このお城で働くの、気に入っているんです」
「…………」
 ゼロは一瞬絶句した後、やがて微笑んだ。
「そうですか……」

 マルガレーテがあのとき、ファウストの手を取っていたらどうなっていただろう。天国には行けなかったかもしれないし、死後はメフィストフェレスに魂を奪われたかもしれない。それでも、生きている間は案外としあわせに過ごせたのではないだろうか……。それでもやはり悪魔は悪魔だと、悪魔に魂を売るくらいなら死んだ方がましだと、ひとはそう言うのだろうか。
 
「ねえ、アリス」
 ゼロは飲み干したカップをソーサーの上に置いた。
「天使は……、いえ、天使も、案外と人とそうかわりないかもしれませんよ」
「え?」
「いえ。何でもありません」
 「天使」の頭蓋に包まれていた灰色の脳。そこには何の徴も刻まれていなかった。いや、体中どこを探しても、罪の証はどこにもなかった。悪は、見当たらなかった。
「私が死んだら……誰かそれを探してくれるでしょうか」
 ゼロはつぶやく。

 どうか、この身に重ねた罪が残っていますように。父の罪も、母の罪も、リデルの罪も、己の罪も、すべてが刻み込まれていますように。
 ――私は、それを何よりも愛しているのだから。