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エンジェル・スティグマータ

 新聞ががさがさと音を立てる。その粗悪な紙ならではのかさついたノイズにまぎれるように、短い声がこぼれ落ちた。
「アリス」
「はい」
 返事をしたのは、ひとりの若いメイドだった。カールした金髪を左右の側頭部で結んでいる。彼女の若き主人はソファと新聞に埋もれたまま、小さな声で問い掛けた。
「お茶をいれてくれませんか?」
「はい、すでに準備してあります。でも……」
 アリスは主人には見えないと知りながら、にっこりと微笑んだ。
「新聞をお片付けにならなければ、お茶の用意ができませんわ」
「……面白い記事があるので、ぜひお茶を飲みながら読みたいのです。お茶がないと頭が回りません」
「でも」
 アリスはやんわりと、しかしきっぱりと反論した。
「そんなお行儀の悪いところ、リデルさんに見つかったら大変ですわよ?」
「……わかりました。片付けます」
 主人はしぶしぶといったように新聞を脇にどけた。ようやくアリスの前に姿を現したその男は、目も髪も真っ黒で、着崩れたスーツも黒。やせぎすで生気もなく、どことなく不吉な印象を与える青年だった。
「アリスは有能ですが、なかなか厳しいですね」
 無表情な顔に無機質な声。彼こそがアリスの仕える主人、ゼロ・ハングマン伯爵なのだった。

  × × ×

 アリス・ウェーバーがハングマン城――通称「首つりの城」に仕えるようになったのは、ごく最近のことだ。主人のゼロ・ハングマンと執事のみが暮らす、ロンドン近郊にありながら不気味で小さな孤城。新聞にメイドの募集が出てもほとんど応募するものはないらしく、アリスが申し込むとすぐに採用された。彼女自身はといえば、ただ高額な報酬に惹かれただけだった。付きまとう不穏な噂など、どうでもいい。天涯孤独のアリスはひとりで生きていかねばならないし、生きていくには何かと金がいるのだ。
 実際に城に入ってみると、街で聞いた噂のほとんどがすぐに嘘だと分かった。伯爵は棺桶で眠ってなどいなかったし、ワインの代わりに血を飲むこともない。執事も不気味な大男などではなく、長身で綺麗な顔をした、若い男だった。城は彼が超人的な働きできりもりしていて、決して荒れ果ててはいない。一体誰が「首つりの城」などと言い出したのか……アリスにはわからなかった。
 主人のゼロは二十代後半で、物静かな男だ。伯爵というにはやや貧弱過ぎるような気もするが、顔立ちはそう悪くない。執事のリデルには頭が上がらず、アリスにもそれなりに優しい。
 リデルもまた紳士的な男だった。ゼロよりは年上だが、正確な年齢は良く分からない。柔らかな物腰で、ゼロとは似ていないがどこか兄弟のようにも見える。無精で気ままな主人を、優しく厳しく指導していて、たぶんこの城の実質的な主はリデルだろう。この若過ぎる執事が一体いつからゼロの側にいるのか、アリスは良く知らない――メイドに過ぎない彼女には、知る必要もないことだ。彼女はそう割り切っている。
 
 アリスのいれたお茶を美味しそうに飲んでいるゼロ。しかし彼はちらりちらりと新聞の方を気にしているようだった。アリスがくすりと笑うと、ゼロはやや眉を寄せて彼女を見上げた。
「何です?」
「いえ……」
 アリスは笑みを引っ込めた。
「何だか、すごくお気になさっているんだなって」
「気になりますよ。アリスも見てごらんなさい」
 促され、アリスは新聞を手に取った。何面か――と聞く必要もなかった。一面をでかでかと飾る文字に、目が吸い寄せられる。
「『裁きの天使』……?」
「面白いです。とても面白い」
 ゼロは赤みがかった水面を見つめながら、淡々とつぶやいた。
 アリスはざっと紙面に目を通した。――「裁きの天使」。それは、現在ロンドンを騒がせている殺人鬼につけられた異名らしい。悪趣味な名前だ、とアリスは眉を寄せた。
「面白いのは、『天使』がさほど非難されていない点なのですよ」
 アリスはゼロを見遣った。主人はソファの上に丸くなって座っていた。まるで黒猫のようだと思う。
「ふつう、殺人事件であれば被害者が悼まれて、加害者は憎まれる。そういうものでしょう?」
「もちろんです」
「しかし、この事件はその経過を辿っていません」
「え……?」
 アリスは驚いて聴き返すと、ゼロは彼女を見上げた。真っ黒な空洞が、まるで夜闇のように彼女を映し込んでいる。
「被害者はどうやら後ろ暗いものたちばかりのようなのですよ。先日勝手な理由で労働者数百人をいっせいに解雇した工場長とか、貧困層から少女を買い上げて売春宿を経営していた女とか、植民地から連れてきた奴隷をひどく虐待していた貴族とか。……どうです、アリスは彼らを悼むことができますか?」
「そりゃ、私もそういうひとたちって好きにはなれませんけど」
 アリスはゼロをじっと見つめ返す。
「だからって殺していいかって言われると……」
「難しい問題ではありますね。罪は裁かれるべきものなのだとすれば、一体誰がそれを裁くのか」
 ゼロはリデルの焼いたビスケットを一枚取り上げ、唇の間に挟みこんだ。そのまま、くぐもった声で続ける。
「私は無神論者なので、神が罪を裁くとは思いません。まあ、信じるのは自由ですし、信仰によって精神に生じる救いについてまで否定する気はありませんけれど」
「はあ……」
「たとえ被害者が何か罪を犯していたとしても、加害者の罪は罪として存在するわけですよね。ではその罪は一体誰が裁くのでしょう?」
「私には難しいお話はわかりませんけど」
 アリスは小首を傾げる。
「とりあえず、この犯人は人間ですよね?」
「天使なんて代物がいるのなら、私は見てみたいですね。特に羽の辺りの構造が。どこの骨から生えているのでしょうか……」
 ゼロはビスケットを頬張りながらうっとりと天井を見上げた。
「人間の骨って美しいんですよ、アリス。いえ、骨だけではありません。生き物の体というものは実に美しい。私は何度か死体を解剖したことがありますが、本当に素晴らしいものでした」
「…………」
 アリスは当惑して主人を見つめる。いつもと変わらない様子のゼロ――だが、口にしている内容は少し、気味が悪い。
「ダ・ヴィンチが人体解剖に手を染めたのも、私には良く判りますよ。私たちはいつだって自分を知りたいと思っているものです。……ただし」
 ゼロはくるりとアリスの方を見遣った。
 
「死んでいるものより生きているものの方がずっと美しい。ですから――私は殺人が嫌いです」

「…………」
 アリスが言葉を失っていると、階下から物音が聞こえてきた。リデルが帰ってきたのだろう。静かに階段を上ってくる足音が響き、やがて扉が開く。アリスはほっと安堵の吐息を漏らすが、それも一瞬のことだった。
「ゼロ様」
 ゼロはぎょろりとした目でリデルを見た。扉からその長身を覗かせているリデルは、穏やかな微笑を浮かべている。くすんだグレイの髪、翡翠色の眼差し、薄い唇――それが、剣呑な言葉を紡いだ。
「街で死体を拾ってきました。如何なさいますか」
「は……?」
 思わず声を漏らすアリスには構わず、ゼロは常にない身軽さでひょいとソファから飛び降りた。
「警察には話をつけてあるのか?」
「ええ。おそらくは『天使』の手によるものだろうとのことです。――今度は教会から破門されたばかりの元修道女だとか」
「ふうん。今度はどんな『罪』があったのかな」
 ゼロはつぶやいてから、ふとアリスに気付いたようにその暗い視線を向けた。
「アリスも、見ますか?」
「み、みるって……何を」
「解剖、ですけど」
「け、結構です!」
 アリスは悲鳴のような声をあげて部屋を飛び出す。――恐ろしかった。ただただ、怖くてたまらなかった。
 「首つりの城」には死体が集まる……その噂は本当だったのだ!

  × × ×

 あてがわれた部屋まで駆け戻り、ベッドにうつぶせる。ふわふわとした、やわらかなベッド。使用人に使わせるようなものではないということは、アリスにもわかっていた。部屋も小ぎれいでそれなりの広さもある。ここをあてがってくれたのはゼロとリデル。彼らは決して悪人ではない。
「でも……かいぼう、なんて」
 ぞっとした。死体を切り刻む行為。それは罪だ、と直感する。そんなこと、神がお許しになるはずがない。彼らは医者ですらないのだから……。

 ――「死んでいるものより生きているものの方がずっと美しい。ですから――私は殺人が嫌いです」
 
 それはゼロの言葉だった。その意味は良くわからなかったが、しかしそれ自身では嫌な感じはしない。彼は死体を暴く。だからといって自分で死体を作り出したいとは思わないのだ。むしろ、その死体がどうして命を落としてしまったのかを知りたいと思っているのかもしれない。美しかるべき命が、どこにどうして零れ落ちてしまったのか……。
 しばらくそのままじっとしていたアリスだが、やがて体を起こした。
「ああ、夕飯の支度しないと」
 鏡台を覗き、乱れた髪をなでつける。自分はこの城のメイドなのだ。仕事はきちんとしなければ。
 ベッドから立ち上がったとき、部屋の扉がノックされた。
「アリス? いますか?」
 ゼロの声だ――気付いた瞬間、何故か彼女の動悸が瞬間的に早くなる。
「い、いますけど」
「…………」
 ドアを挟んでの沈黙。アリスはやがて耐え切れなくなり、再び口を開いた。
「あの……ゼロ様ですよね? どうかなさいましたか?」
「……ドア、開けていいですか?」
「え、ええ」
 そして姿をみせた彼女の主人は、何故か不思議なほど気落ちしているようだった。
「ゼロ様?」
「できれば……その……」
 視線を彷徨わせながら、ぽつりぽつりとつぶやく。
「辞めないで欲しいのです……。貴方は本当に有能なメイドですし……リデルも、貴方のことを気に入っていますから……」
「は?」
「その、私の趣味について、貴方が気味悪く思うのはわかります。これからは貴方の前ではそういう話はしないようにしますし、今日も血の匂いがしないようちゃんとシャワーを浴びてきました。リデルに髪まで洗われたんですよ」
「はあ……」
「ですから、その……貴方の入れてくれるお茶、美味しいですし……」
「あの、辞めるつもりはありませんけれど」
「え?」
 今度はゼロが聴き返す番だった。アリスはくすくすと笑う。
「確かにさっきは驚きました。でも」
 ゼロの上背はアリスより少し大きい。見上げると、かすかに石鹸の匂いが漂ってきた。
「私はこのお城のメイドですから、ちゃんと務めはこなします」
「そう……ですか」
 ゼロはほっとしたように吐息をつく。
「あと、その……解剖、のことですけど」
「はい」
「何かわかったんですか?」
「……気持ち悪くないんですか?」
 ゼロの問いに、アリスは困ったように首を傾げた。
「自分の目で見るのは怖いですけど……、でもお話くらいなら」
「そうですか」
 ゼロはつぶやき、そしてアリスを真っ直ぐに見つめた。
「では、私のことは――気持ち悪いですか?」
「…………」
 アリスは一瞬驚いたように目を見開いて、やがて首を横に振った。
「いいえ」
「……そうですか」
 ほっとしたようにかすかに微笑するゼロ。それはアリスが初めて見た、少し悲しげな笑みだった。

  × × ×

 そのまま、ゼロはアリスの部屋の床に座り込んだ。長く伸びている黒い前髪を指先でひねるようにしながら、ぽつぽつと話し始める。
「あの修道女、どうやら妊娠が発覚して破門されたようです」
「え? 妊娠?」
 十代後半のアリスには少々気まずい話だった。ゼロはそれがわかっているのかいないのか、淡々と話を続ける。
「ですから、街での反応も比較的冷たいものであったと――神に仕えるべき存在が穢れたのだから、『天使』に裁かれても仕方がない、というような」
「そんな……!」
 口をとがらせるアリスに、ゼロは視線を向けた。
「百歩譲って修道女の罪を認めたとしましょう。しかし彼女の胎内に息づいていた命には何の罪もありません。そして彼女が咎められるのならば、彼女を孕ませた男も同じように咎められるべきでしょう。私はそう思います」
「……そうですよね」
 アリスはつぶやく。この事件、何かがおかしい。この「天使」という名の犯人――気味が悪い。
「リデルに調べてもらったんですが、どれも殺しの手口は似通っているようです。お腹の大きな血管を細い刃物で貫いている……まあ、どれも失血死ですね」
「失血死……」
「あと、もうひとつ興味深いことがあります」
 アリスはすとん、とゼロの目の前に座りこんだ。再び、石鹸の匂いが鼻腔をくすぐる……。
「最初の工場長は心臓が悪かった。その心臓が、抉り取られていた」
「えぐ……?」
「娼館の女は腰が曲がっていた。すると背骨がまるっきり抜き取られていた」
 アリスは口元を押さえる。
「今回は彼女の子宮がなくなっていました。胎児ごと」
「な、何のためにそんな……?」
「さあ? 『悪いところを切り取って持って行ってくれる、さすが「天使」だ』というような声もあるようですよ」
「そんな馬鹿な!」
「ええ。私もそう思います」
 ゼロは立てた膝の間に顎を埋めた。
「しかし、この犯人はそういう反応を全て予想して犯行に及んでいる――そんな気がしますね」
「つまり、そうしておけば自分の犯行が見逃される、深く追求されない、そう思っていると……?」
「そういうことです。アリスは賢い子ですね」
 淡々と言われ、アリスはやや困惑した。
「多分、相手は誰でもいいんです。殺しても、恨まれない相手の方がいい。臓器を持ち去る理由は良くわかりませんが……」
 ゼロはぽりぽりと頭を掻いた。
「まあ、直接聞いてみればいいでしょう」
「直接?」
 アリスは唖然と聞き返す。ゼロはあっさり頷いた。
「貴方はたまに街に買い物に行くでしょう? 噂話には参加しないんですか?」
「時間の無駄だから……あんまり」
 アリスは苦笑する。
「賢明な判断です。――なるほど、それで知らないんですね」
「……何か、噂があるんですか?」
「ええ」
 ゼロはひょいと床から立ち上がり、アリスを見下ろした。
 
「『天使』が次に狙うのは『首つりの伯爵』だとね――」