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アドーリング・ポイズン

 ウィンスター子爵の婚姻は、ロンドン市民の間に驚きを持って迎えられた。
 公爵は十年前に妻を亡くしていたから、結婚にはなんの支障もない。人々が驚いたのは、花嫁の年齢であった。新公爵夫人は、十七歳。一方の公爵は、五十である。そして公爵には、死に別れた妻との間に十四の娘がいる――ゴシップ好きの人々は、あれこれと詮索した。花嫁はどういう素性の娘なのか? 子爵の娘との関係は良好なのか? だが、彼らはやがてすっかり飽きてしまい、そうしてまた別のゴシップの種に飛びうつっていった。いつものことだった。
 しかし彼らの誰も、その婚姻のわずか三ヶ月後、若き花嫁が無残な死を遂げるとまでは予想することはできなかった……。

  × × ×

「アリスは十七歳でしたね」
「……はい」
 アフタヌーンティーの準備をしていたメイド、アリスは突然の主人の質問に驚いたが、すぐに答えを返した。
「もうすぐ十八です。多分」
「多分?」
 新聞がずるりと下がり、その上縁からぎょろりとした黒目が覗いた。我が主人ながらやはり奇妙なお人だ、とアリスは思った。ゼロ・ハングマン伯爵――人呼んで、「首つりの伯爵」。
「私の誕生日は、正確にはわからないので……一応、決めてはもらいましたけれど」
 自分は孤児だから、とアリスは言う。ゼロは彼女をじっと見つめた。
「そんなことは問題ではありません。誕生日は、貴方の生誕を祝うきっかけにさえなればいい」
「そうですね」
 アリスは微笑む。――不思議と、孤児院のシスターと同じことを言うのだ。神を信じないはずの、この伯爵様は。
 ゼロは再び新聞の中に沈んだ。
「貴方から見て、五十歳の男性というのは、どのようにうつるのでしょう」
「……ああ、ウィンスター子爵様の」
 アリスは顔をしかめた。昨日明らかになった、うら若き子爵夫人の死。
「身の回りにその年代の方はいらっしゃらないのでわかりませんけれど……たまたま好きになった人が五十歳だったら、それはもう、そういうことなのではないでしょうか。年齢も身分も、きっと問題にはならないと思います」
 ゼロはつぶやく。
「娘とほとんど年の変わらない、妻……ですが」
「…………」
 アリスは思った――私にはわからない。両親がいて、自分がいる。そういった環境を、自分は知らないから。家族の形を、自分は知らない。
 だがそれは、目の前の伯爵も同じなのだ。彼もまた、家族を知らない。
「それはそうと、子爵夫人の死因ですけれど」
 ゼロは新聞を放り出した。そろそろケーキが運ばれてくると察したのだろう。この痩せぎすで猫背で、目つきの悪い伯爵は、何よりも甘いものが大好きなのだ。
 何も言わないアリスを見上げ、ゼロは言う。
「毒殺だそうです」
「……毒、」
 アリスの手が震え、カップの中の紅茶にさざなみがたった。
「ティーカップから毒が検出されたとか」
「…………」
 アリスは思わず自分の手に持ったカップに視線を落とす。不意にゼロはそれをひょいととり上げ、お茶を飲み干した。
「おかわりを、アリス」
「は、はい」
 ゼロはアリスの姿を横目で捉えながら背中を丸め、ソファの上で立てた膝に顎をうずめた。
 まるで、この城で飼っている黒猫のような仕草。だが、見方によっては――獲物を狙う、肉食獣のようにも見える。
 彼は死を喰らう。人々に忌み嫌われる、死に魅入られた「首つりの伯爵」なのだ。

  × × ×

 ゼロ・ハングマンは死体を喰らう。文字通りの意味ではない。彼は死体を解剖し、その死因に迫ることに長けているのだった。そうやって、彼はいくつもの難事件解決の糸口を作ってきた。しかし、そうやって死体を暴く行為が彼にとってどういう意味を持つのか、どういった感情を呼び起こすのか――彼の限られた古い知己のひとり、ルイス・ブラウンにもそれはわからなかった。
 ふらりと現れた彼は、ウィンスター子爵の事件を担当することになったのだと語った。ゼロは大して興味もなさそうに、ルイスの話を聞いている。死体が無いからな、とルイスは思った。あの子爵が、いくら犯人を見つける為とはいえ、亡き妻の骸を手放すとは思えない。傷一つつけることも許さないだろうに、解剖など……彼が承諾するはずがない。
「夫人は最近塞ぎ込みがちだったんだそうだ。使用人たちは心配していたらしい。食も細く、体も痩せてきていたと」
「つまり、自殺を疑っている?」
「その通りだ。部屋の扉にも窓にも鍵が掛かっていた」
「毒はお茶から検出されたのでしたか」
「違う」
 ルイスは否定した。
「いや、お茶から見つかっているんだが……一番濃かったのはそこじゃない」
 ゼロが視線を上げる。その空虚な闇に、ルイスは吸い込まれそうだと思った。
「縁、なんだよ。ティーカップの縁。口をつけるところの毒が、一番濃かった。ポットに残っていたお茶からは、毒は検出されていない」
「…………」
 ゼロは眉を寄せた。
「自殺……?」
「不自然だよな」
 ルイスも頷く。
「俺もそう思った。服毒自殺で、わざわざ食器に毒を塗る奴なんて聞かない」
「自殺を主張しているのは誰です?」
「子爵だ。ひどい憔悴ぶりで目も当てられん……夫人を相当可愛がっていたようだよ。年も離れていたしな」
「子爵の口から、自殺以外の死因を疑う言葉は? つまり――」
「他殺、か」
 ルイスは首を横に振る。
「我々から話を持ち掛けても、あり得ないの一点張りだ。妻は人の怨みを買うような人間じゃない、と。確かに屋敷の人々も夫人を誰も悪く言わないし、新しい女主人として慕われていたようだ。元々、夫人は子爵の亡き妻の親戚で、流行病で両親を失ったところを子爵が援助して、知り合ったらしい。おっとりとした、控えめなお嬢様だった、と」
 そこはゴシップ紙で読んだんだ、とルイスは付け加えた。
 ゼロはゆっくりと顎を撫でる。
「そんな、誰からも愛されるような方が、痩せるほど憔悴する原因とは何なのでしょうか」
「……娘さんかもな」
 ルイスはぽつりと言った。ゼロは目を上げる。
「ウィンスター子爵令嬢は、新しい義理の母親……何せ三つしか離れていないから、全く受け入れられなかったらしい。大人しい性格で、表立って攻撃することはなかったらしいが、その代わり徹底的に避けていた。決して口を利かず、同じ食卓につくこともなかったと」
 ルイスはため息をつく。
「まあ、多感な時期だ。わからんではないが」
「しかしそこまで避けていたというなら」
 ゼロは淡々と言った。
「彼女が夫人のカップに毒を塗るのは難しいかもしれませんね」
「……十四だぞ」
 ルイスは呆れたようにつぶやくが、
「三年後には結婚する年齢です」
 と、ゼロはあっさりと言い返した。
「食器に簡単に触れることができる人物――メイドたちが最も疑わしいとは思いますが」
 ルイスは頷く。
「その通り。しかし、その日お茶を入れたのは子爵夫人なんだ。夫人は自室にお気に入りのティーカップを幾つか持っていて、よく独りで飲んだり、夫に振る舞ったりしていた。自らキッチンにお湯をとりに来たのが最後で、以降彼女の姿は目撃されていない。自分でカップに毒を入れたと見るのが自然ではある」
「それで? 貴方がここに来た理由は何ですか。事件について、何かあるのでしょう」
「あ、ばれたか」
「貴方は世間話が下手ですからね」
 ルイスは肩を落とす。
「それ、お前にだけは言われたくなかった……」
 ゼロはほんの僅か、口元に笑みを浮かべる。無表情な彼には、それでも珍しいことだった。
「さて、お話を伺いましょうか」

 ――ルイスの頼みは、簡単な、そうしてひどく困難なことだった。こっそりと、ウェンスター子爵夫人の遺体を観察して欲しい、というのだ。子爵は溺愛していた妻の遺体が解剖されることなど、決して許さない。いかに美しいまま葬ってやるか、いかに盛大に弔うかということで頭がいっぱいなのだという。悲しみからの逃避ではないか、とルイスは言った。
「けど、やっぱりおかしいと思うんだよな。ただの自殺と片付けるには不自然だ。犯人がいるなら、見逃す訳にはいかない。だから」
「体表から観察して何か手がかりを見つけろ、と?」
 ゼロは呆れたように言った。
「貴方も無茶を言うようになりましたね、ルイス」
「他に思いつかなかったんだよ」
 ルイスは申し訳なさそうに、大柄な体を縮める。
「お前に頼むようなことじゃないのは良くわかってる」
「子爵に正面きって頼むわけにもいきませんから、私が彼の邸宅に忍び込んで死体を観察してくる……というわけですか」
 やれやれ、とゼロは頭を振る。
「リデルに叱られますよ、貴方」
 ルイスはばっ、と顔を上げた。
「じゃあ」
「断る理由はありません」
 ゼロは静かに言う。
「私は何も人の臓物に興味があるわけではない。私が知りたいのは――」
 薄い唇が、静かに蠢く。
「人の死と、人に死をもたらすものです」

  × × ×

 地味なスーツとコートに身を包んだゼロ・ハングマン伯爵に、子爵家の者も、警察関係者も、誰も気が付かなかった。白昼堂々とルイスの後に続いてウィンスターの屋敷に入り、夫人の遺体が安置されている部屋で、ゼロはしばらく一人にして欲しいと言った。部屋の入り口をルイスが見張ること、一時間足らず。
 悲鳴が、屋敷に響いた。
 無言でゼロが飛び出してくる。ルイスは慌てて彼の後を追った。
 騒ぎの中心へと駆けつけた彼らは――その光景に、足を止める。
 華奢な人影が、天井からぶら下がっていた。ゆらゆらとドレスの裾が揺れている。ルイスは飛びつき、首にかかった紐を外した。床に崩れ落ちた少女の脈を取り、呼吸を確かめ――ルイスは顔をしかめ
る。
「医者を」
 短く告げ、ルイスはゼロに向かって首を横に振ってみせた。ゼロはきょろきょろと辺りを見回す。何かを探しているようだった。
 この少女が誰なのか、察するのは簡単だ。恐らく――。
「何事だ!」
 騒ぎを耳にして現れたウィンスター子爵が、床に倒れた少女を目にして凍りつく。
「ロージア!!」
 ルイスを突き飛ばし、子爵は娘を抱き起こした。長いブロンドにもうなじにも、縄に締めつけられた痕がくっきりと残っている。
 子爵は絶叫した。
「何故……! 何故だロージア……!!」
「…………」
 ゼロはその横を通り過ぎて部屋に入り、鏡台の上から一枚の紙片を摘み上げた。佐
 ――ごめんなさい。
 一言だけ、書きつけられた紙片。四方は破り取られている。 紙片の横には小さなガラス瓶。目を近付け、ラベルを読む。毒物だった。
 ゼロは天井を見上げた。ロージア・ウィンスターが首を吊った紐が、だらりとぶら下がっている。紐は、天井近くの柱の装飾に結びつけたらしい。足元には椅子が横倒しになっていた。
「…………」
 ゼロは目を細めた。令嬢の遺体から離れたルイスに、小声で囁く。
「ルイス。二人とも、自殺ではありません」
「え?」
 ゼロは、慟哭する子爵の背中に視線を向け――それを、細めた。そこに映る感情が何なのか、ルイスには読み取れない。
「私の言うようにして下さい。いいですね?」
 ルイスは気圧されたように、頷いた。