The past – ロンリイ・リーパ
奇妙な少年だということは聞いていた。だが、これほどまでに異常だとは。
リデルはその少年の部屋に入り、息を呑んだ。壁一面に張り付けられているのは、驚くほどに精巧なスケッチだった。風景を描いたものなどではない。人物画でもない。それはすべて、動物や鳥の絵だった。目を凝らしたリデルは、はっと息を呑む。絵に描かれたそれらすべては、生きてはいない――精緻故に、絵は死の匂いまでもそこにあらわしていた。つまり、少年は亡骸の絵を壁に飾り立てているのだ。
リデルは背筋が冷たくなるのを感じる。
「…………」
絵に囲まれたむき出しの床の上に、ぺたんとだらしなく座った少年――幼きハングマン伯爵であった。異国の血を引くとの噂通り、生粋のイングランド人の顔立ちではない。漆黒の髪と瞳、くすんだ色の肌。さめた眼差しがリデルを一瞥した。
「はじめまして、伯爵様」
リデルはかろうじて笑みを浮かべ、一礼した。
「リデル・カークランドです。貴方の家庭教師として参りました」
「…………」
少年は視線を逸らした。薄い唇がわずかに動く。
「ゼロです」
こぼれ落ちた声は、まだ声変わりもしていない。
「私のことは、ゼロとよんでください」
「……かしこまりました、ゼロ様」
リデルはうやうやしく答えた。
リデルにこの職を斡旋したのは、彼の父親だった。先年亡くなった――自死を遂げた先代のハングマン伯爵。彼に仕えていた執事と、リデルの父とは旧い友人であるらしい。幼いハングマン伯爵の奇行はリデルも噂には聞いていたが、まさにその当の本人の元に出向くことになるとは思っていなかった。
城の中にひとけはない。先代のハングマン伯爵が亡くなってからというもの、徐々に使用人が辞めていってしまって、と件の執事は寂しげにそう語った。先代伯爵の母、ゼロの祖母にあたるマリア・ハングマンが現在実質的な城主なのだが、息子を亡くしてからというもの、彼女の気性は荒くなる一方なのだという。爵位を継いだはずのゼロを離れに追いやっているのも、彼女の指示なのだろう。
リデルに与えられた一室は、ゼロの部屋からほど近い場所だった。窓際に歩み寄り何の気なしに裏庭を眺めた彼は、そこに並ぶ小さな塚のようなものに気付く。
「あれは……」
墓のように見える。しかし、墓標のようなものは見当たらない。あれは、一体何なのだろう……。
「リデル君」
扉をノックされた音に、リデルははっと振り向いた。扉が開き、姿を見せたのは父の旧友――クリストフ・ベイカーであった。温和な笑顔を浮かべ、優しい眼差しでリデルを見つめている。
「来てくれてありがとう。無理を言ってすまない」
「いえ……ベイカーさん」
リデルは言葉を探すように俯いた。
「あの、ゼロ様は……彼の部屋は、昔からあのような……?」
「…………」
クリストフは表情を曇らせた。
「旦那様がお元気だった頃は、そうでもなかったのだけれどね。ここ数年、実をいうと旦那様は――」
正気を保っておられる時間が少しずつ短くなっていて、ゼロ様ともほとんどお会いにならなかったのだよ。クリストフは小さくそう言った。
数年。ゼロは恐らく今十歳前後だろうから……。リデルは目を伏せた。
「ゼロ様は確かに変わってはおられるが、根は悪い子ではないと思うんだ。私には少しも心を開いてくれないが……」
クリストフは悲しげに笑った。リデルはおそるおそる問い掛けた。
「あの部屋の、壁の絵は……ゼロ様ご本人が?」
「そのようだ」
「…………」
クリストフは低く言った。
「旦那様がゼロ様へと買ってきた小鳥や、動物たち――何故か、次々に死んでいってしまってね」
リデルははじかれたように顔をあげる。――まさか、あんな子供が……? あの昏い瞳を思い出し、リデルはぞっとした。クリストフはリデルの顔色を見てとったのだろう、首を左右に振った。
「私には信じられない。偶然だと、そう思っているよ」
「…………」
本気だろうか。本気でこの初老の男は、あの少年を信じているのだろうか。リデルの探るような眼差しを避けるように顔を背け、クリストフは言った。
「もうすぐディナーだが……私はマリア様の元にいかなければならない。伯爵様を頼む」
「……はい」
祖母と孫は、食事をともに摂らないのだ。リデルは陰鬱な気分になった。早くこの城を出たい――ゼロが自分にさっさと暇を出してくれればいいのに。そう思うほどであった。
× × ×
リデルの予想を裏切り、日頃のゼロはさほど異常な行動を見せるわけではなかった。気味の悪い無表情は変わらないが、生徒としての彼は、物覚えのいい、頭の良い少年だ。たまに街で買ってきたケーキを渡すと、その血色の悪い頬に少しだけ朱がさして、ああ、この少年も子供らしく甘いものが好きなのだな、とリデルは思った。
裏庭に並ぶ塚には、時々野花が手向けられていた。ある日、リデルは塚の前で立ち尽くすゼロを見かけた。その小さな背中は細かく震えていて、手には白い花が握りしめられていた。――やはり墓なのだ。きっと、ゼロが何かを弔うために、あれを作ったのだ。
ゼロは笑顔を見せない。言葉すらほとんど発することなく、自分ひとりの世界で生きているようだった。使用人たちも彼には腫れ物に触るように接している。ゼロが「悪魔憑き」と呼ばれているということも知った。本人が彼らの恐れと嫌悪を含んだ視線をどう感じているのか、わからない。
ひとつきと経たないうちに、リデルはゼロに興味を惹かれていることを自覚した。だが、ゼロは彼を踏み込ませまいとするかのように、冷たい無表情を崩さない。そんな彼にどう接していいのか、リデルはわからなかった。
ある日、ゼロのもとにひとりの医師が訪れた。長い金髪を結わえた彼は、デミアン・ロスチャイルドと名乗った。
「素晴らしいスケッチですね、ゼロ様」
壁一面の絵を眺め、デミアンは言った。
「ゼロ様は死に――特にその原因に興味がおありのようだ」
「ゼロ様、体調が優れないのですか?」
リデルは心配そうにゼロに尋ねた。医師を呼んだのはクリストフだろうか。自分はゼロの変調には少しも気付かなかったが――家庭教師として失格ではないか、とリデルは反省する。
しかし、ゼロは首を横に振った。デミアンは苦笑する。
「そういうわけではありませんよ。私はただ――ゼロ様の話相手として、ね」
「話相手……」
リデルはつぶやく。その役割は、自分にはつとまらない。
ゼロは、ようやくデミアンに視線を投げた。
「必要ありません」
短く言い、顔を背ける。デミアンは笑みを深めた。
「そうおっしゃらず。おばあさまの言いつけでもありますので」
「…………」
おばあさま。その台詞に、ゼロの表情が凍りついた。無の仮面の下に、冷たい怒りが透けてみえる。
「では、勝手にしてください」
――ゼロのこんな表情は、はじめてだ。リデルは驚きをもってゼロを見つめる。彼は、祖母を憎んでいるのか……嫌っているどころではない、これはもっと明確な負の感情だ。
デミアンはゼロの表情の変化に気付かぬわけでもないだろうに、飄々と微笑んでいた。
デミアンは時折ふらりとやってくるようになった。そういう時に彼らにお茶を出すのは、いつしかリデルの役割になっていた。メイドたちもゼロを気味悪がって、この離れにはほとんど寄りつかないのだ。――そうまで忌避される程の何かが彼にあるとは、リデルには思えない。噂や憶測が独り歩きしているのではないか。リデルはそう思う。
デミアンが帰った後、ゼロが読んでいる本をちらりと見てリデルは驚いた。それは、厚い医学書だったのである。「死」に興味を示し、「死体」をスケッチするゼロのために、デミアンが与えたのだろうか。
やがてゼロは人体解剖図を一枚一枚丁寧に模写するようになり、それが壁際を飾るようになった。その頃にはリデルも彼の絵に慣れてしまっていて、当初ほど怖いとは思わなくなっていた。ただ――ゼロとの距離は依然として縮まる様子はなく、リデルもそのことに関しては半ば諦めていた。
ゼロはきっと、人間が嫌いなのだ。自分を疎外し、異端視する者たちを――自分を愛してくれない者たちを、愛せるはずがないのだから。
リデルがハングマン城に通い出してひとつきが過ぎた頃――クリストフ・ベイカーが、死んだ。
× × ×
貴族の城の中で起こったことだ、と警察の調べも形式上のものであった。服毒自殺。リデルはそれを信じられない面持ちで聞いた。クリストフが自殺だと。まさか。
城に向かい、リデルはゼロの自室を訪ねた。厚い扉をノックする。
「――帰って下さい」
扉は固く閉ざされたまま、その奥からゼロの声が返ってきた。
「今、貴方に会いたくありません」
「…………」
その台詞に、リデルは胸がぐっと重くなるのを感じた。――クリストフは、ゼロが生まれる前からこの城に仕えていた。ゼロの母が亡くなった時も、ゼロの父が少しずつ心を病んだ時も、ずっとこの城にいた。リデルと同じ戸惑いを持ちつつも、それでも彼はゼロを彼なりに気にしていたように思う。だから、もしかすると……ゼロは彼の死にショックを受けているのではないかと、そう思ったのだ。ゼロは誰かを必要としているのではないか、そして自分こそがその役割に当てはまるのではないかと。だが、それは思い違いだ。ただの思いあがりに過ぎない。
踵を返し、帰ろうとしたその時――目の前に、人影が立ちふさがった。
「…………」
リデルはうろんな眼差しを投げる。そこに立っていたのは、デミアン・ロスチャイルドだった。
「こんにちは」
こんな日までいつも通りに笑みを浮かべているその男が、今はひどく苛立たしい。
「何かご用ですか」
「――警告を」
デミアンはす、とリデルの口元に顔を寄せた。
「クリストフは他殺です」
「え……?」
リデルは声を上げたが、デミアンはし、と彼を遮った。いつの間にか、彼の表情から笑みが消えていた。
「貴方も気を付けて」
「い、一体誰が」
「…………」
デミアンは黙っていた。リデルは言い募る。
「貴方は何を知っているのです? この家の――いえ、ゼロ様の何を――」
「リデル・カークランド」
デミアンは囁くように、彼の名を呼んだ。リデルはぴたりと口をつぐむ。そうせずにはいられない気迫が、彼にはあった。
「貴方に、地獄へ落ちる覚悟があるか?」
「…………」
それだけを言い、デミアンはその場を歩み去った。
リデルはゼロの部屋の扉の前に立ち尽くす。――いつか見た、ゼロの背中。その光景が、脳裏に蘇ってきて離れなかった。
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