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愛を込めて

 吾輩は猫である。名前は――紛らわしいことに、吾輩の名前はこの城の主人と同じなのである。本当に紛らわしい。
 吾輩がこの城に拾われてきたのは、前の主人がいなくなってしばらく経った頃のことだった。前の主人と二人で暮らしていた頃は、吾輩にはまた別の名前があった。だが、主人がその名前を呼ばなくなって――とにかく吾輩は腹が減って腹が減って、とにかく無我夢中で食べられる物を探し、口に詰め込んだ。何やら血の匂いのする、硬い肉だった。決して美味くはなかったが、生きるためには仕方のないことだったのだ。
 やがて見知らぬ人々が来て大騒ぎを始めたが、吾輩には何の事だか良く分からなかった。りょうきさつじん、とか、おそろしい、とか、きもちわるい、とか……「これはあのくびつりのはくしゃくのりょうぶんだろう」とか、とにかく吾輩は身を隠すことにしたのだ。
 そんな吾輩に手を差し伸べたのが、今の主人というわけだ。吾輩の毛並みに勝るとも劣らない、真っ黒な髪。吾輩と違うのは、彼は目の色も毛並みと同じというところだ。初めて抱きあげられた時、彼は何ともそうっと触れるものだから、吾輩は思わず抵抗も忘れて身を預けてしまったのだった。
 今、吾輩の面倒を主に見ているのはその主人ではない。あの主人に、吾輩のミルクをちょうど良い温度にあたためたり、柔らかなタオルで体を拭いたり、そんな小器用なことができようはずもない。ただでさえぽろぽろと床にお菓子の粉や砂糖を溢しては叱られているのだ。だめなやつだ。
 吾輩の世話係は、名をアリスという。主人よりは年若い、いわゆるめいど、というやつらしい。彼女の世話はとても行き届いていて、吾輩は非常に満足している。吾輩にその名を与えたのも、実は彼女なのである。しかし彼女はその名を主人の前では決して呼ばない。吾輩をそう呼ぶのは、決まって主人がおらず、彼女と吾輩が二人でいる時だけなのだ。
 主人のシャツを繕うアリスに寄り添い、吾輩はおとなしくじっとしていた。アリスは今、針というとがったものを持っているから、むやみにじゃれつくと彼女が怪我をしてしまうのである。
「ねえ、ゼロ」
 アリスはぼんやりとした様子で言った。
「どうして、みんなゼロ様を避けるのかしら……あんなにいい方、なかなかいらっしゃらないと思うのだけど」
 にゃあ、と鳴く。吾輩も同感だった。
 この城には主人と、アリスと、あとはリデルとかいう主人のボスしか住んでいない。こんなに広い城なのに、である。吾輩がどこを探検しようが誰も文句は言わないが、あまり目の届かないところに行くと皆心配するので、その辺は程度をわきまえることにしている。
「ゼロは、ゼロ様のこと好き?」
 にゃあ。
 だから紛らわしいというのに、と吾輩は思った。しかし、アリスがそう呼びたいのなら仕方がない。
 実のところ、吾輩は主人のことを結構気に入っている。たまにおそるおそる撫でるあのひんやりした指先も、悪くない。あの黒い瞳でじっと見つめられると、何となく吾輩は主人の側にいたくてたまらなくなるのだ。彼のズボンの裾などを爪を立てずにひっかいてやると、主人はどこか嬉しそうに吾輩を見下ろしている。吾輩に構ってもらうのが、実は割と好きなのだろう。たまに主人の膝の上に載って丸くなってやると、彼は緊張して身じろぎもしなくなってしまう。だが、あの固い膝の上が案外心地良いので、吾輩のお気に入りの場所のひとつである。……たいてい、いつの間にかリデルに退けられてしまうのだが。
「私も、ゼロ様のこと好きよ」
 アリスはそう言って、薔薇色の頬で笑った。
「ゼロ様には幸せになって欲しいの」
 ――それは、今は幸せではないということだろうか。吾輩は首をひねった。
 主人は、結構幸せそうに見えるが。違うのだろうか。
「ゼロ様のいいところを、もっと皆知ってくれればいいのに。お優しいところとか、お菓子が大好きなところとか、ちょっぴり不器用でいらっしゃるところとか」
 それは本当にいいところか。吾輩は小さくにゃ? と鳴いたが、アリスは聞いちゃいなかった。
「ねえ、ゼロ」
 アリスは繕いものを終え、吾輩を膝の上に載せてくれた。優しい指が、吾輩の毛並みを撫でてくれる。とても心地良い。
「私はきっと、いけないメイドだわ」
 何を言い出すのだ。吾輩は顔を上げ、その膝に前脚をぽんぽん、と振りおろした。アリスが悪いめいどのはずがない。アリスはいい子だ。リデルがいつも言っている。主人だってそうだ。アリスに頼り切っている。吾輩にはわかる。
「この三人での暮らしが、とても楽しいって思ってる。ゼロ様はお寂しいかもしれないけれど……私は、これでいいって思ってるの」
 アリスの声が震えた。
「私だけが、ゼロ様の良いところを知っていればいいって……ひどいわよね、そんなふうに想うなんて」
 吾輩は黙ってアリスの声に耳を傾けた。
「ゼロ様のちょっとした表情の変化とか、感情とかが、わかるようになってきたの。あ、楽しんでおられるな、とか、がっかりされてる、とか、すねちゃったな、とか。そういうのがとても嬉しくって……独り占めしたいなって、時々思う」
 吾輩は考える――何故、アリスが吾輩に主人の名をつけたのか。
「ゼロ様のこともリデルさんのことも大好きなのに……お二人とも、幸せにいて欲しいって願っているのに。私なんかが、ただのメイドが、独り占めしたいなんて、そんなこと思っていい人たちじゃないのに」
 ――アリス。それは違うよ。
 吾輩は身を起こし、アリスの顔を覗き込んだ。彼女の青い瞳が、吾輩を映して揺れる。
 ――主人が表情を動かすのも、感情が変化するのも、相手がアリスだからだよ。アリスが彼を大切にしているから、その気持ちが伝わっているから、アリスは大切にされているんだよ。だから、アリスが悪いなんて思うことはひとつもない。アリスは悪くないんだよ。
 アリスの頬をぺろりと舐める。アリスは驚いたように吾輩を見下ろした。
「ゼロ……」
 吾輩は猫である。とても無力な猫である。
 だが、吾輩は間違いなく、この城の人々のことを愛しているのである。
 その時、ノックの音が響いた。これは間違いない、主人のものである。
「アリス? いますか?」
「は、はい!」
 アリスは慌てて目元をこすり、立ち上がった。吾輩はひょい、と床に飛び降りる。
「何かご用でしょうか、ゼロ様」
「いえ……」
 主人はいつものようにぼんやりとした無表情で佇んでいたが、不意にかくん、と首をかしげた。
「アリス、何だか目が赤いような気がしますが」
「き、気のせいです!」
 アリスはぶんぶんと首を横に振った。
「何でもないんです、本当に!」
「アリス」
 ――主人がその名を呼ぶ時、どれほど優しい声を出しているのか。アリスは気付いているのだろうか?
「何か嫌なことがありましたか? 街に出た時に何か言われたとか……リデルにいじめられたとか」
「どちらもでありません!」
「本当ですか? リデルのことはまあ冗談として、街には口さがない人もいるでしょうから――」
 主人は無造作に近付き、俯いたアリスの前髪をそっと掻きあげて額に触れた。アリスの顔が、目元以外も真っ赤に染まった。――この主人、結構こういうことを平気でする。奥手なのか大胆なのか、吾輩も理解に苦しむところだ。
「違います、本当に! ……ちょっと、あくびをしてしまって、それで」
「寝不足ですか? それなら少し昼寝でも」
「そんな、主人を放ったらかしてお昼寝をするメイドなんて!」
 アリスは憤然とした様子で、主人を見つめた。
「お茶を淹れてきます!」
「……はい。ありがとうございます」
 そのまま部屋を後にするアリスを見送った主人は、不意に吾輩に気がついたようだった。
「アリスは、泣いていたのか?」
 にゃあ。
 そんな、真顔で吾輩に尋ねられても困る。
「アリスは頑張りやですから……心配です」
 全くだ。だが、主人はちゃんとアリスを見ている。だから、吾輩は心配などしていないぞ。
 主人にすり寄ると、彼は相変わらずおそるおそるといった様子で吾輩を抱き上げた。
「あ」
 主人は吾輩の毛並みに顔を寄せ、つぶやく。
「アリスの匂いがする」
 …………。
 吾輩ははあ、とため息をついたが、主人はちっとも気付いていないようだった。

 アリス。
 吾輩は同じ名前を持つあの主人より、ずっとずっと敏感で、聡いのだ。だから、お前たちのことなんて、もうとっくに、全部お見通しなのだ。
 ゼロの手を離れて日当たりのよい部屋でうとうととしていた吾輩に、不意に柔らかな声が降ってきた。
「全く困ったものですねえ、ゼロ」
 ――リデル。吾輩はちらりとその男を見上げる。
「あのふたり、いつまでああやっているつもりなんだか」
 全くだ。
 だが……。
 吾輩はリデルにすりより、にゃあ、と小さく鳴く。
 吾輩は、お前にもやはり幸せになって欲しいと願っているのだぞ。
 
 
 「首つりの城」に住まう小さな獣より、住人たちへ愛を込めて。