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ロンギン・リフレイン

 何の音だろうか、とアリスははたきを掛ける手を止めた。歌、いや、違う。何か楽器の音色のようだ。いったいどこから、そして誰が――。
 そう考えて、気付く。この城に住んでいるのは城主であるゼロ・ハングマン伯爵と、執事のリデル、そしてメイドであるアリスの三人しかいない。必然的に、伯爵か執事のどちらか、というわけだが……。
 アリスははたきを置き、そっと部屋を出た。ハングマン城は、広大というわけではないが伯爵家の名にふさわしい立派な城である。当然、三人で住むには広過ぎるので、アリスが掃除をするのも普段使う部屋周りだけだった。アリスは音を頼りに、日頃は足を踏み入れない場所へと進んでいく。
 楽器の音は、細く、断続的に聴こえてくる。弦の音、というのはわかるが、何の楽器かはアリスにはわからない。リデルさんかしら、とアリスはそう思った。ゼロ様が楽器を演奏なさるなんて、聞いたことがないし……。広間の片隅にピアノはあったけれど、もう随分使われていないようだった。かつてはあの場で華やかなパーティが催されたこともあったのだろうか。
 ゼロは……寂しくないのだろうか。こんな広い城の中、たった三人で暮らしていて。本来なら、もっと大勢の、何十人もの使用人に囲まれていてもおかしくない身分なのに。街の人にも「首つりの伯爵」だなどと呼ばれて……あることないこと、噂を立てられて……。
 音が少しずつ近くなってくる。それにつれて、アリスは動悸が強くなるのを感じた。――こんな音、聴いたことがない。恐ろしいほどの速度で、音が転げ回っている。それはメロディなどという生易しいものではなく、音が渦を描いて乱流に呑まれていくような、まるで馬に引かれた罪人が市場を引き摺り回されているような、そんな苦しさと痛みが突き刺さる。
 アリスの足取りは、いつしか塔へと向かっていた。普段は誰も立ち入らない場所。別に立ち入ってはいけないといわれているわけではないが、今までここに来たことはなかった。ゼロの私室も、リデルの書斎も、応接間も、厨房も、ここからずっと離れているからだ。
 細い階段を上っていくと、ひとつの扉の向こうから音が奔流のように流れ出していているのだとわかった。アリスは軽くノックをする。返事はない。聞こえていないのかもしれないな、と思った。
 ――もしかすると。
 不意に、アリスは思った。
 ――これを弾いているのは、ゼロ様ではないかしら。
 彼の中に渦巻いている感情。記憶。言葉。無表情な仮面の下に、彼が秘めているもの。それらが、この音に込められているような気がして……。
 アリスはそうっと、扉を開けた。
「…………」
 やはり、そこにはゼロがいた。
 高い位置に小窓のあるだけの、小さな部屋の中。ゼロはこちらに横顔を向けて立っていた。手にしているのは――バイオリンだろうか。アリスには、楽器の区別はつかない。ただ、影の中に立つゼロの表情が見えないのが、ひどく気に掛かった。
「ゼロ様?」
 声を掛ける。だが、ゼロは応えない。俯き加減のままその長い指を弦の上に奔らせ、弓を細かく揺らしている。目の前の小テーブルの上には、楽譜の類は見当たらない。
 音は、自由だった。それでいて、何かに囚われているようにも聞こえた。
「…………」
 アリスは扉の影から半身を覗かせたままの状態で、じっとゼロを見つめていた。これ以上声を掛けることも、側に寄ることもできない。まるで、音の鎧が――もしくは檻が、彼の周りに張り巡らされているかのようだった。
 ――苦しい。
 なんだろう。ひどく、胸が痛む。
 ゼロはいつものように黒のスラックスに白のシャツを身につけているが、だらしなくシャツの裾は腰回りからはみ出していた。髪も櫛を入れていないのだろう、乱れている。彼が伯爵だなどと、そうと言われなければ誰もそうは気付かないに違いない。
 手を伸ばしたかった。いつものように、シャツのボタンを掛けて、そしてベルトをきちんと通して。髪もちゃんと整えて、そうして彼の大好きな甘いケーキとお茶を。
 けれど今のゼロは――何者をも寄せ付けないような、そんな空気をまとっていて、それがアリスにはひどくつらく、寂しく思われるのだった。
 ――突然硬い破裂音がして、流れるように続いていた音がやんだ。
「…………!!」
 アリスははっと息をのむ。弦の一本が切れ、その端がゼロの頬を浅く薙いだのだ。赤い血が、ふつりと彼の白い頬に浮かぶ。
「ゼロ様!」
 動かなかったはずの足が、急に動き始める。ぼうっとした様子のゼロに駆け寄り、アリスはハンカチで頬を押さえた。
「大丈夫ですか?! 痛くはありませんか?!」
「……アリス?」
 ゼロは驚いたように目を瞬き、彼女を見つめた。
「どうしてここに……?」
「あの」
 アリスは少し視線を泳がせた。
「掃除をしていたら、音が聞こえて……誰が弾いているのか、気になって。それで」
 すみません、勝手にこんなところまで来てしまって。謝る彼女に、ゼロは気にしなくていいというように首を左右に振った。
「私は怪我を……?」
「え、ええ。多分、これの弦が切れて――」
「そうですか」
 ゼロはアリスのハンカチを退けさせ、指で傷口を押さえた。じわり、と血がにじむ。
「ゼロ様、まだ血が……」
「…………」
 アリスが再び、ゼロの傷口を押さえる。ゼロはなされるがままになりながら、手にしていたヴァイオリンをテーブルの上に置いた。
「これはね、アリス」
 ぽつぽつ、と語る。
「母のものなんだそうです。母は市井の劇場でこれを弾いていたんだとか。それを、たまたまお忍びで見に出掛けた父が見初め――ふたりは恋に落ちた」
「…………」
 ゼロの両親について彼の口から聞くのは、初めてのことだった。アリスは少し、緊張する。
「身分違いでしたから、当然周囲の猛反対に遭ったそうですが……それでも、彼らは自分たちの意志を貫き、結婚した」
 ――その結末は、幸せなものではなかったのだろう。そのことは、アリスもうすうす悟っていた。
「……その母が唯一この城に残したのが、このヴァイオリンなのです」
 ゼロはそれ以上、何も口にしなかった。
 アリスはそうっと、ハンカチを彼の頬から離す。血は止まっていた。傷も浅いものだ、痕を残すことはないだろう。アリスはほっとして、そしてゼロのくしゃくしゃに乱れた髪をそっと撫でつけた。
「ゼロ様」
 ゼロは目を上げる。その深い闇の中に潜むあたたかさを、彼女は既に良く知っている。
「お母様の残されたものが、もうひとつありますよ」
「…………」
 ゼロは目を瞬かせた。
「何です?」
「――ここに」
 アリスは、何故かそうせずにはいられなくなって――ゼロの背中に両腕を回し、ぐっと頭を彼の胸に押しつけた。
 彼は自分の言いたいことを理解してくれただろうか、どうだろうか。ゼロの両親の出会いがなければ、ゼロはこの世に生まれなかった。ゼロの母がこの世に遺した最も大切なものは、きっと彼自身の存在だ。そのことに、きっとゼロは気付いていない。
 もし、ゼロが存在していなかったら……その想像に、アリスはぶるりと体を震わせた。考えられない。彼と出会うことのない、この城に勤めることのない自分の人生など――。
「アリス……?」
 ゼロの片手が彼女の背に触れ、もう片手は所在なげに彼女の巻毛の先をいじっている。
 こうしていると――先程までの苦しい気持ちが溶け消えていってしまうようだった。ただただあたたかく、まるで幼い頃寝つけないときに孤児院のシスターがじっと頭を撫でてくれていた時のような、絶対的な安心感が彼女を包む。
「アリス」
 その声に顔を上げると、ゼロが少し困ったように彼女を見下ろしていた。浅く傷のついた頬が、少し赤い。
「戻りましょう。もうそろそろお茶の時間でしょう」
「は……はい」
 弦の切れたヴァイオリンをそのままに。ゼロはアリスの手を引き、塔を後にした。
「ゼロ様」
 アリスはゼロの骨ばった手を握りながら、ぽつりとつぶやいた。
「また、何か聞かせてくださいますか」
「……あれを誰かに聞かせたことなどないのですけどね」
 ゼロはぽつりという。いつも適当に、指の赴くままにかき鳴らしていたのだと。けれど――。
「アリスのリクエストなら」
 振り向き、ゼロは少しだけ微笑んだ。
「できるだけお答えしましょうか」
「…………」
 ――ああ。
 アリスは思う。
 ――私は……心から。
 この方に幸せになって欲しいと、願うのだ。
 この気持ちに、なんと名前をつければいいのか――アリスにはまだ、わからない。