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メリー・メリー・チルドレン

 ――いつだって、あの場所には笑顔と笑い声があふれていた。そこにいたのは自分と同じ孤児(みなしご)たちと、優しいシスター。クリスマスの朝には讃美歌を歌って、ミサをあげて。前夜につるした小さな靴下には、少しばかりのクッキーが入っていて。何でもない冬の朝が、その日だけはとても特別だった。
「…………」
 懐かしい夢の中から、ぼんやりと意識が浮かび上がる。アリス・ウェーバーはうっすら滲んだ涙を手でこすり、辺りを見回して――はっと目を見開いた。
 ここはかつて自分が過ごした孤児院ではない。メイドとして勤めている城の、自室のベッドの上だ。でも、自分は何故ここに?
 ――確か……クリスマスの朝食を作っている最中に、気分が悪くなって、それで……それで?
「アリス」
 硬質な、それでいて穏やかな声が彼女の名を呼び、アリスは声の主を見上げた。彼女のベッドの傍らに座り込み、じっと彼女を見つめている、黒づくめの服を着た若い男。それは彼女の雇い主である伯爵で、恐らくキッチンに座り込んでいた彼女を部屋まで運んできてくれたのも彼なのだった。
「ゼロ様……」
 けほん、と小さな咳。頭が熱くて、体がだるい。もしかすると、風邪を引いてしまったのだろうか。メイドとしてあるまじき自己管理の甘さだ。アリスはゼロに申し訳なくて、ベッドの中でもぞもぞと体を縮めるようにした。
「寒いですか?」
 ゼロのほっそりとした手が、アリスの額に触れる。
「……熱。先程よりもまた上がったかもしれませんね」
「すみません。ゼロ様……せっかくの、クリスマスで、それに」
 ――ゼロ様のお誕生日なのに。言い掛けた言葉は、ゼロの長い人差し指に遮られた。火照る唇に触れた、冷たい指先。
「余計なことは考えなくていいのです。ゆっくり休んで、早く治して下さい」
「……ありがとうございます」
 ゼロの眼差しが湛える闇は、優しく深い。無表情で無感情に見えるゼロが、本当はどれほど繊細な心の持ち主なのか。アリスは既にそれを知っている。
「後で、リデルが何か果物を切ってくると言っていました。食べられますか?」
 ゼロの口にした名前に、アリスはますます申し訳なさそうに眉を寄せる。忙しいハングマン家の執事にまで、世話を焼かせてしまって――こんなに贅沢なメイドが、一体この世のどこにいるというのか。
「食べられると思います。本当に、申し訳ありません……」
「謝ることはありません。寒い日が続いていたのに、無理をさせてしまいましたね」
「そんなこと……!」
 首を横に振ると、がんがんと頭が痛んだ。思わず呻いたアリスの額に、ゼロが濡らしたハンカチをそっとあててくれた。冷たくて、心地よい。
「これで、あっているのかな」
 ゼロが独り言のようにつぶやいている。
「あとは……水。水、飲めますか?」
「あ、はい」
 アリスがうなずくと、ゼロはベッドに腰を下ろし、彼女の体をそっと支えてクッションにもたれさせた。サイドテーブルの上の水差しからグラスに水を注ぎ、アリスに差し出す。
「ありがとうございます……」
 冷たい水が、喉を潤す。美味しい、とアリスの顔がほころんだ。
「……さあ、横になりましょう」
「何から何まで、本当に……」
 恐縮するアリスの肩に毛布を掛け、ゼロは心配そうに彼女を見下ろした。
「アリス」
「はい?」
 名を呼ばれ、アリスは彼を見上げる。
「後で、医者を呼びます」
「大丈夫です、これくらい寝ていれば治りますから」
 慌ててそう言うアリスに、ゼロは首を横に振った。
「私が、そうしたいのです。早く、貴方に元気になって欲しい」
「…………」
 ――確かに、早く体を治さなくてはならない。ハングマン城にはそもそも彼女以外にメイドはおらず、他の使用人といえば執事のリデルひとりなのだ。アリスがいつまでも寝込んでいては、ゼロにも、リデルにも、ひどく迷惑を掛けてしまう。
 顔を曇らせたアリスを見つめながら、ゼロは口を開いた。彼の指先は、彼女のブロンドの巻き毛をゆっくりと梳いている。
「貴方の辛そうな顔を見るのは――嫌なのです。これは、ただの私のわがままですが」
「……ゼロ様?」
「貴方が……」
 ゼロはぼそぼそと言う。
「貴方が、いないと……私は……」
 心細そうに、寂しそうに。ゼロはアリスを見つめている。――アリスは思わず、ゼロの手を握りしめていた。自分が熱っぽいせいか、ゼロの手はひんやりと冷たい。それを自分の頬に寄せ、アリスは言った。
「すぐ、良くなります。だから、ゼロ様」
 ――どうか、これからもずっとお傍において下さい。
 その言葉を胸の中に仕舞い込むとともに息を大きく吸って、アリスは精一杯の笑顔を浮かべた。
「お誕生日、おめでとうございます」
 ゼロは大きく目を見開いた。その表情を、アリスはじっと見上げる。
 ――あなたが生まれた日を、祝福しよう。見過ごされてきた過去の分まで――そして、この未来(さき)の貴方の幸せを願って。心から祈ろう。
 自分があの孤児院で得た優しい思い出は、きっとこの孤独な主人に出逢うためのものだったのだと、そう思うから……。
「治ったら、とびきりのお菓子を作りますね」
 アリスがそう言うと、ゼロはほんのわずかに嬉しそうに笑って、そうしてその身を屈めた。
 ――火照った額に、優しい感触。それは、かつてシスターが彼女に授けた……。
「ありがとう、アリス。それから――」
 ゼロは静かに囁く。
「メリー・クリスマス」

 リデルに呼ばれてやってきたデミアン・ロスチャイルドは、アリス・ウェーバーの部屋に足を踏み入れた途端に唖然と口を開けた。
「リデル。これは、何の冗談?」
「何も、冗談ではありません」
 ベッドで眠るアリスと、ベッドの傍らの床で毛布をかぶって丸くなっているゼロ・ハングマン伯爵。座ったまま背をベッドに預け、うとうとと眠るゼロの寝顔に、デミアンは何とも言えない表情を浮かべた。
 デミアンはそうっとアリスの側に近付き、その額に手を当てる。
「熱はもう下がっている。呼吸も安静だし、心配は要らないと思う」
「そうですか、それは良かった」
 澄ました顔のリデルに、デミアンは苦笑を浮かべた。ゼロに毛布を掛けたのはリデルだろう。足元のふたりを見下ろし、つぶやく。
「このかわいい子たちに、何かプレゼントをあげたい気分になるね」
「プレゼント?」
「今日、クリスマスでしょう? ゼロ君は誕生日でもあるし」
「ええ……」
「でも」
 デミアンは優しい眼差しで、あどけない表情を浮かべて眠る「首つりの伯爵」を見下ろした。彼を「かわいい子」呼ばわりするなど、デミアン以外にはできない芸当だ。
「彼には今これ以上のプレゼントなど、あり得ないのだろうな」
 家族の愛に恵まれなかったゼロが、ようやく得た彼の「(ホーム)」。リデルだけでは作れなかった、デミアンやルイスにはなれなかった、彼の「家族」。アリスが加わったことで、この城は変わった。
「アリスは、本当によい子ですから」
 リデルが言うと、デミアンはくすりと笑った。
「まるでふたりの保護者のようだね、リデル?」
「光栄な役回りです」
 彼が真顔でそう答えた時、
「ん……」
 床に座り込んでいたゼロが、身動いだ。
「おや」
 デミアンはくすりと笑い、ゼロの顔をのぞき込む。
「お目覚めですか、王子様?」
「…………」
 黒ぐろとした瞳が瞬き、デミアンを見上げた。
 デミアンはその薄氷色の目を優しく細め、病人を起こさないようにと声を低めて言った。
「メリー・クリスマス、ゼロ君」
「……デミアン、来ていたのか」
 ゼロは体の上から毛布をどけ、そしてアリスを振り返った。彼女の静かな寝顔にゼロはほっと息をつくと、物問いたげにデミアンを見上げた。
 デミアンは軽く頷く。
「アリスさんなら大丈夫、大したことはないよ」
「……そうですか」
 声音に安堵をにじませるゼロに、デミアンは微笑んだ。
 ――かつて、死に魅入られ、生に背を向けていた孤独な少年。彼はもう、ひとりではない。彼を見守るリデルと、そして知らず知らずのうちに彼に寄り添っているアリス。彼らに応える強さなら、そして彼らを守る優しさなら、ゼロはちゃんとその手に持っているから。
 だから、君はきっと大丈夫。もう、大丈夫。

 メリー・クリスマス、ゼロ・ハングマン。
 そして――、
 ハッピー・バースデイ。