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ホーリィ・ナイトメア

 昼下がりのハングマン城には、ターキーを焼く香ばしい匂いが立ち込めていた。アリスはいつも以上にせわしくキッチンの中を動き回っている。鍋をかき混ぜてスープの味見をしながらターキーを炙る火の加減を見、ケーキを飾るフルーツを切り分ける。――彼女がいつの間にかキッチンの入り口に立っているゼロに気付いたのは、しばらく経ってからだった。
「ゼロ様」
 声を掛けると、猫背でぼうっとキッチンを眺めていたゼロがぴくりと身を起こす。
「何かご用ですか?」
 エプロンで濡れた手を拭きながら近付くと、ゼロはぽりぽりと髪を掻きながら俯いた。
「今日は随分なご馳走なんですね……」
「ええ、クリスマスですから」
 にっこりと笑って答えると、ゼロは困ったようにさらに俯く。
「……どうかしましたか?」
「いえ……あの、楽しみにしています」
 ぽつりと言い、ゼロはくるりと後ろを向いた。そのままとぼとぼと歩み去っていく。その背中はお世辞にもディナーを楽しみにしているとは言い難い。一体どうしたというのだろう。
「…………」
 アリスは呆気に取られてゼロを見送っていたが、やがてはっと我にかえり、キッチンに戻った。――とにかく、今は下拵えをすべて済ませてしまわなくてはいけない。ゼロのことは、その後で考えよう。アリスはそうきっぱりと割り切ることにしたのだった。

 アリスの仕事が一段落した時には、既に日が暮れていた。所狭しと並んだ料理に満足しながら、ふと先ほどのゼロの不可解な様子を思い出す。あれは一体、何だったのだろう。
「リデルさんに聞いてみようかしら……」
 アリスはぽつりとつぶやいた。ゼロ本人に尋ねても良いのだが、あまりはっきりとした答えは帰って来ないような気がする。
「あの方も、お菓子は遠慮なくねだられるのに、妙なところで口が重いんだから」
 階段を上りながら、彼女は独りごちる。ゼロは主人で、自分はメイドなのだ。ゼロの方が気を遣ってどうすると言うのだろう。言いたいことがあるのなら、何でも言ってくれればいいのに――少し、寂しいような気がした。
 リデルの私室の前で立ち止まり、とんとんとノックをする。多忙な彼が在室しているかどうかは自信のないところだったのだが、意外にもすぐに返事が戻ってきた。
「はい?」
「あの、アリスです。お邪魔してもよろしいでしょうか」
 少しの沈黙を挟んで、ドアがすっと内側に開いた。リデル自ら扉を開けに出てくれたらしい。
「どうぞ」
 穏やかな笑顔にほっとしながら、アリスは部屋に入った。デスクの上には所狭しと書類が積み上げられている。ゼロの伯爵としての財産の管理や税金の処理などはすべてリデルが請け負っているから、仕事量は膨大なものなのだろう。よく独りで切り盛りしているものだ、とアリスは感心した。
「何かお話があるのでしょう? 何ですか?」
 リデルは灰緑色の目を優しく細め、アリスを促す。彼女は用件を思い出して、手を軽く打った。
「あの、ゼロ様のことなのですけど」
「ええ」
「どうかされたのでしょうか?」
「どうか……というと?」
「先ほど、キッチンにいらっしゃって……私はクリスマスディナーの準備をしていたのですけど、その時のゼロ様のご様子が少しいつもと違っていたものですから」
 いつもならあれを味見させろこれを味見させろとうるさく言うゼロが、何も味見せずに帰ったのだ。アリスが何かあったのかと心配するのも無理はないだろう。
 リデルはアリスの言葉を聞き、苦笑を浮かべた。
「ああ……ゼロ様は、クリスマスが苦手でいらっしゃるのですよ」
「クリスマスが? 何故ですか?」
 首を傾げるアリスに、リデルは言う。
「実は――クリスマスは、ゼロ様のお誕生日なのです」

  × × ×

 ディナーの時刻。いつも通りふらりと食堂に現れたゼロは、食卓を見て絶句した。
「ゼロ様」
 アリスはいそいそとキャンドルに火を点けて回りながら振り返る。
「さあ、どうぞ!」
「はあ……」
 飾り立てられた食堂を眺めながら、ゼロはリデルが椅子を引いた席に付く。
「これは、一体……?」
「お誕生日おめでとうございます、ゼロ様」
 側に立つリデルの言葉に、ゼロはばっと彼を見上げた。
「お前、余計なことを……!」
「何のことでしょう?」
 リデルはそ知らぬ顔でゼロを見下ろす。ゼロは小さく舌打ちをした。
「確かに今日は私の誕生日だが、同時に母の命日でもあるんだぞ」
「アリスには、後半は伝えませんでした」
「何故だ?」
 ケーキを運んでくるアリスには聞こえないように、ゼロが尋ねる。リデルは無表情な主人の顔を見つめながら、静かに言った。
「アリスは貴方のお母様とお知り合いではありません。彼女が貴方の誕生日をお祝いしたいという気持ちに、敢えて水をさす必要はないと思ったものですから」
「…………」
 ゼロはため息をついた。
「本当にお節介だな、お前は」
「そうでなければ、私はここにはいませんよ」
 リデルはしれっとした顔でそう言うと、ゼロの側から離れていった。その代わりに、アリスが歩み寄ってくる。
「今日はゼロ様の誕生日ですから、これ全部食べていいですよ!」
「は……」
 彼女が持っているのはブッシュドノエルだ。彼女自身の腕よりも一回り以上太い。
「ゼロ様、おやつ大好きですものね。どうぞ!」
「いや……いくらなんでもこんなには……」
 もごもごと口の中でつぶやきかけて、ゼロはふと口をつぐんだ。
「…………」
「ゼロ様?」
 アリスの声に、ゼロは上目遣いで彼女を見上げる。
「今日のディナーは……一緒に食べませんか」
「え?」
「どうせ私独りではこんなに食べ切れませんし。あ、リデルも呼んで来て下さい。ケーキは二人に一切れずつあげます」
「え? でも……」
 メイドの自分が伯爵と同じテーブルでディナーを食べるなど、考えられない。困惑するアリスに、ゼロは小さく微笑みかけた。
「今日は私の誕生日なのでしょう? 私の言うことを聞いて下さい」
「は、はい!」
 アリスは何故か顔を真っ赤にして、リデルを呼びに駆けて行った。
「…………」
 食堂にひとり残されたゼロは、食卓に置かれたブッシュドノエルに顔を近付ける。ふわりと香るブランデーの匂い。指先でつつくと表面のクリームがぽこりと凹み、彼は慌てて手を引っ込めた。
「クリスマスに誕生日……か」
 丸焼きのターキー、湯気を立てるスープ。ゼロは肘をついてそれらを眺めながら、ため息をつく。
「あまり無条件には喜べないんですけどねえ……」
 ――確かに、アリスはゼロを取り巻く悪夢を知らない。だからこそ、単純にゼロの誕生日を祝ってくれるのだろう。もし、彼女が知ったらどうするのだろうか。自分が、死母の腹から父の手で取り出された赤子だったと知ったら……祖母に殺され掛けた過去を知ったら……。
「リデルさん、早く早く!」
「は、はあ」
 向こうから、アリスがリデルを引っ張ってくる声がする。リデルの珍しく困った声に、ゼロは笑みを浮かべた。――アリスに勝手なことを告げ口した罰だ。存分に困ればいい。
「さて、食事にしましょうか」
 席に着くアリスとリデルを見回し、ゼロはナフキンを手に取った。

  × × ×

「ねえ、アリス」
 食後の紅茶を飲みながら、ゼロはぼんやりと尋ねた。目の前にあったブッシュドノエルは既にない。リデルやアリスに一切れずつわけて、残りはすべて彼が食べた。リデルは呆気に取られていたが、気にしないことにする。明日からのおやつを減らされるかもしれないのが、気に掛かるところではあった。
「何ですか?」
 空になった皿を重ねて片付けながら、アリスが振り返る。
「貴方の誕生日は、いつですか?」
「……ああ」
 彼女は困ったように笑った。
「私、孤児ですから。誕生日はわからないんです」
「…………」
 ゼロは沈黙し、やがて黙って頭を下げる。
「すみません……」
「いいえ、お気になさらないで下さい」
 アリスは明るく笑う。それは、決して無理をした笑みではなかった。
「それにしても、ゼロ様のお誕生日がクリスマスだなんて。なんだかわくわくしますね!」
「そうですか……?」
「ええ」
 嬉しそうにはしゃぐアリスを見ていたゼロは、やがてふと思いついたように口を開いた。
「アリス」
「はい?」
「今日は枕元に靴下を吊るして寝るといいですよ」
「え?」
「知らないんですか。クリスマスにはサンタクロースが来るんです」
「いえ、それは知っていますけど……」
 アリスは目を瞬かせる。
「ゼロ様の口からその単語が出るとは思っていませんでした」
「それはどういう意味ですか」
 ゼロはくすりと笑い、紅茶を飲み干して立ち上がった。
「とにかく。靴下を忘れないで下さいね」
「は、はい……」
 呆気に取られているアリスを残し、ゼロはのそのそと食堂を出て行く。
「おやすみなさい、アリス」
「おやすみなさい……」
 アリスは目を大きく見開いたまま、彼の背中を見送っていた。

  × × ×

 翌朝――目覚めたアリスの枕元の靴下には、細い金細工のネックレスがひとつ、入っていた。
「すごい……綺麗」
 うっとりとつぶやいた後、アリスは慌ててベッドを飛び出す。入れたのはゼロに決まっているが、こんな高価そうなものを自分が貰うわけにはいかない。
 彼の部屋に飛び込むと、ゼロはのんびりと新聞を読んでいるところだった。
「ゼロ様?!」
「おはようございます、アリス」
 ちらりとアリスを見遣り、のんびりと言う。
「ああ、手に持っているのはサンタクロースの贈り物ですね? 良かったじゃないですか」
「え……いえ、あの……」
「お茶が入りましたよ、ゼロ様。……おや」
 リデルはその場にいるアリスを見て少し驚いたような顔をしたが、やがて苦笑を浮かべて彼女を促した。
「とりあえず着替えましょうか、アリス」
「へ……?」
 着替え――そういえば、自分は今、寝巻きにガウンを羽織っただけの姿だ。アリスは顔を真っ赤に染めた。
「し、失礼しましたっ!」
 ばたばたと駆け出していくアリスを見送り、リデルはソファに座るゼロを見下ろした。
「よろしいのですか? あれはお母様の形見では?」
「何のことだ?」
 ゼロは無表情にリデルを見返す。リデルはそれ以上何も言わず、彼の朝食の用意をすべく部屋を出て行った。

「……メリークリスマス、アリス」
 ――初めてサンタクロースになった感想は、なかなかに良いものだった。たぶん、これはアリスが彼の誕生日を祝いたがった気持ちと似ているのだろう。
「メリークリスマス」
 窓の外に降り積もる――きっとハングマン家の墓にも降り積もっているだろう雪を眺めながら、ゼロはもう一度つぶやいた。