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フラジャイル・ノット

 その日のロンドンは、雪景色であった。暖炉にくべられた薪が次々に爆ぜる。厚いカーテンに遮られてなお、冷気が室内に染みていた。
 部屋の主、ゼロ・ハングマン伯爵は厚いガウンを着込み、ロッキング・チェアに深く腰掛けている。目の前には城唯一のメイド、アリス・ウェーバー。
「これは……」
 ゼロは何度となく瞬きを繰り返した。彼を見下ろすアリスの笑顔が、ひどくまぶしい。
「わたしに、ですか?」
「ええ」
 眼前に差し出されているそれを、おそるおそる受け取る。折り畳まれたそれは、どうやら膝掛けらしい。シルバーグレイとでもいうのだろうか、光沢のあるシックな色合い。ふわふわとした毛糸を緻密に編んだそれは、ひどくあたたかそうであった。
 戸惑うゼロに、アリスは優しく笑っていた。
「最近、寒くなったでしょう? それに、もうすぐゼロ様のお誕生日ですから。たいしたものではありませんけれど……」
「…………」
 そうだ、もうすぐクリスマスが来る。ついこの前まで忌まわしい思い出を呼び起こす日でしかなかった、彼の誕生日。去年は確か、リデルとアリスと、三人でディナーを囲んだ。今年も、アリスはここにいてくれている。ゼロは手の中の膝掛けを握りしめた。――やわらかい。
「ありがとうございます。とてもうれしいです」
「手編みなので、粗いところもあるとは思いますけれど、見逃してくださいね」
「……手編み?」
 ゼロはぴくん、と体を震わせた。
「これはアリスが編んだのですか?!」
「え、ええ」
 気圧されたようにアリスがうなずくと、ゼロはまじまじと膝掛けを見つめた。
「アリスはすごいですね……こんな、素晴らしいものを作ることができるなんて」
 アリスはぱっと顔を赤らめた。ゼロの衣服やハングマン城の調度に比べれば、彼女の編んだ膝掛けなど見栄えはしない。そんなことは、彼女が一番よくわかっている。
「本当に、たいしたものじゃないんです。別に模様もつけてないし、刺繍もついてないし……」
 孤児院にいた頃は、よく幼い子供たちのセーターを編んだものだった。それは彼女が小さい頃、また別の誰かにしてもらっていたこと。きっと、彼女のセーターを着ていた子供たちが、今は誰かの分を編んでいる。それを繰り返していくことで、あの場所は成り立っているのだ。
「いいえ」
 ゼロは真面目な顔でつぶやいた。
「何もないところから形あるものを生み出すことができる。料理も同じですが、誇るべきことですよ。アリス」
「ゼロ様……」
 なんとなく、その横顔が寂しげに見えた。――まるで、自分には何もないと言っているみたいだ。アリスの胸がちりりと痛む。そんなこと、ないのに。
 アリスはことさらに明るい声で言った。
「良かったら、使ってくださいね」
「使う?!」
 ゼロは視線を上げた。ぎょろりとした大きな目が、いつもよりずっと見開かれている。
「そんなもったいないこと、できません」
「で、でも」
「もし汚したり、傷めたりでもしたら……」
 握りしめてわなわなと震えるゼロに、アリスは苦笑した。
「別にいいじゃないですか。汚しても。傷ついても」
「どうしてです? そんな、もったいない……」
「ゼロ様」
 アリスはゼロの目の前に跪き、彼の目をじっと見つめた。――いつか、アリスがこの話を聞いたとき。話してくれた人は、こうやってアリスのことを見つめてくれた。優しく、そして愛しさを込めた眼差しで……。
「形のあるものは、いずれすりきれて、壊れて、なくなってしまう運命なんです。仕方がないんです。どんなに大切にしても、気を付けていても、なくなってしまうときはなくなってしまうから」
「嫌です」
 ゼロはまるで駄々っ子のように首を振った。
「そんなのは、いやだ――」
「でも」
 膝掛けを離すまいとするかのように、強く握りしめられているゼロの拳。アリスはその上にそっと自分の掌を重ねた。
「ゼロ様が喜んで下さったお気持ち、大切にしたいと思って下ったこころは、私が確かに受け取りましたよ」
「…………」
 ゼロは、はっと顔を上げる。
「だから、それを糧にして。今のが駄目になったら、また新しいものを作って差し上げます」
「でも」
「使っていただきたいんです。……ほら、こうやって」
 アリスはゼロの手から膝掛けを取り上げ、広げて彼の膝を覆った。
「あ……」
 ゼロは小さく息を吐いた。
「あたたかい……です」
 ぽつりとこぼれたゼロのつぶやきに、アリスは笑みを深くした。
「ゼロ様が、お風邪を召されませんように」
「……ありが、とう」
 膝を抱え、そこに掛かった膝掛けに頬を摺り寄せる。
「ありがとう、アリス」
 灰色に深く顔を埋め、ゼロはつぶやいた。
「……アリスの匂いがしますね」
「え?」
 アリスはどきりとしたが、ゼロには他意などないようで、まるで猫のように体を丸めていた。
「いつもお菓子を作ってくれるから、甘い匂いがします」
 アリスは顔を赤らめ、言い返した。
「それならゼロ様だって、甘い匂いがすると思います」
「私も?」
 ゼロはきょとん、と顔をあげた。その表情が、本当にまるで猫のようで。
「だって、いつもお菓子をたくさん食べていらっしゃるんですもの」
「ああ……そうですね」
 ゼロは控え目に、くすくすと笑った。――血の匂いからは決して逃れられないと思っていた。それなのにアリス、貴方というひとは。
「お誕生日おめでとうございます、ゼロ様」
 ――私の前で、こんなにも笑ってくれる。
「ありがとう、アリス」
 ゼロは彼女の髪に手を置き、ささやいた。