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ドリームレス・ドリーム

 ――お茶の時間になったのに、アリスが姿を見せない。そわそわとしながらもしばらく大人しく待っていたゼロだが、やがて城の中をうろうろと歩き回り始めた。
 立ち寄ったキッチンにもひとけはない。ゼロは彼女の部屋の前に立つと控えめにノックをした。
「……アリス?」
 呼びかけてみるが、返事はない。
「アリス――」
 誰もいないのか。ゼロは小さく身震いをした。言い知れぬ不安が彼を襲う。執事のリデルは所用で留守にしていて、今この城にいるのは城主であるゼロ・ハングマン伯爵と、唯一のメイド、アリスだけなのである。城を満たす静寂が、孤独が、彼をひどく落ち着かなくさせた。
「アリス、入りますよ?」
 もう一度確認してから、ノブを回す。
「アリス……」
 部屋に入ったゼロは、ほっと安堵のため息をついた。アリスは、ベッドの上に丸くなって眠っていた。手元には何かのレシピをメモしたものだろうか、紙束が散らばっている。ゼロはそうっと近付き、それらを拾ってサイドテーブルの上に置いた。
「…………」
 ゼロは見るともなくその紙をぱらぱらとめくった。料理の手順を書き連ねてある他に、後から書き加えたらしいコメントが添えられている。――ゼロ様はこれがお気に入り。ゼロ様はもう少し甘い方がお好み。ゼロ様にはここをホワイトソースに変える。ゼロ様にはラム酒を控えめに。ゼロ様はウェルダンで。どのメモの中にも見られる、「ゼロ様」という文字。アリスの筆跡で並ぶそれに、ゼロは落ち着かない気持ちで目を瞬かせた。
 アリスは優秀なメイドだ。だから、主人のことをこんなにも考えてくれる。――私は、彼女の雇い主だから。
 ゼロは振り返った。アリスはついうとうとと眠りこんだのだろう、エプロンもつけたままで、靴を履いた足を床に投げ出している。
「…………」
 ゼロはアリスの足元に跪き、靴のリボンを外してそっとそれを脱がせた。足を抱えてベッドの上に載せてやる。
「ん……」
 僅かに身じろぎしたアリスだが、目を覚ます気配はなかった。
「……?」
 ゼロはアリスの隣に小さく丸まっている、黒いものに気付いて目を見張った。――猫だ。以前、どこかの屋敷からゼロが拾ってきた黒猫。アリスはそれに名前を付けたと言っていたが、名前自体はどうしても教えてくれない。別に、ゼロがその猫を呼ぶことなどないので困りはしないのだが。黒猫は、名付け親と知ってかアリスにひどく懐いている。今もそうだ。ゼロの気配に目を覚ましたのか、黒猫はもぞりと体を動かして――アリスの頬をぺろりと舐めた。
「!!」
 小さく息を呑むゼロ。アリスは寝入ったまま、くすぐったそうに首をすくめている。
「――お前」
 ゼロは小さくつぶやいた。黒猫の首根っこをひょい、と掴みあげる。にゃあ、と鳴くそれを手早く部屋の外に放り出し、容赦なくドアを閉めた。何となく、今はそれを追い払いたくなったのだった。
 猫の鳴き声でアリスが目を覚まさなかったかと恐る恐る振り向くが、彼女は変わらず眠っている。――体調でも悪いのだろうか。ゼロは心配になって彼女の頬にそっと手を触れた。熱くはない。表情も辛そうなものではないし、きっと大丈夫だろう。アリスは真面目な子ですから、無理を言って負担を掛けてはいけませんよ――リデルにそう言われて以来、ゼロは何かと彼女の体調を気にかけている。確かに、この城にメイドは彼女ひとりしかいないのだ。彼女を働かせすぎてはいけない。彼女がここでの仕事を辛いと感じるようになったら、今までのメイドたちのように辞めてしまうかもしれない。そうなったら、ゼロはとても困る。彼女は今までのメイドとは違うのだ。どう違うのかというと、それは……。
 ゼロはしばらく、じっと彼女の寝顔を見ていた。すう、すう、と繰り返される寝息。それと同期して動く肩と胸郭。――彼がいつも目にする、微動だにしない「死体」とは違う。生きている。知らず、表情が和らいだ。ゼロはもう一度、彼女の頬に触れた。やわらかく、あたたかい。
 先ほどの猫の寝姿を思い出す。気持ちよさそうに眠っていた、あの黒いかたまり。
「…………」
 ゼロは彼女の隣にそうっと横たわった。靴は脱いでおく。シャツのまま寝ると皺になるから後でリデルに叱られるかもしれないが、ひとまず気に留めないことにした。
 目を閉じる。夜眠るときと違って、窓から差し込む日の光が少しまぶしい。顔を背けて、身体を丸める。向かいには、眠るアリス。体温の届かない距離を置いて、ゼロはいつしかうとうとと眠りに落ちていった――。

 夕刻。リデルが帰宅すると、妙に城が静かだった。ゼロも、アリスも見当たらない。
「おや」
 ふたりを探していた彼は、ふと足を止めた。
「こんなところで何を?」
 例の黒猫が、アリスの部屋の前でにゃあにゃあと鳴いている。お腹が空いているのだろうか。リデルはひょいとそれを抱き上げた。見上げてくる黒い瞳。――アリスがこれをああ名付けたのも、わからなくはない。
「アリスはここですか?」
 猫が答えてくれるはずもなく、リデルは何度かノックを繰り返した後に部屋に入った。
「…………」
 目に入った光景に、リデルはため息をつく。部屋のベッドの上には部屋の主と――そして、
「名前のせいでもないのだろうけど、お前たちは本当にそっくりだね」
 シーツの上に丸まって、ゼロは静かに眠っている。昔から、息をしているのかどうか不安になるくらい、彼はひそやかに眠るのだ。
 リデルは苦笑して、猫を撫でた。
「さて、どうやって起こして差し上げようか」
 ――にゃあ、と鳴く猫。リデルは、し、とそれをたしなめる。そして、ゼロのくしゃくしゃになったシャツの襟へと手を伸ばした。
「――?!」
 リデルはまるでゼロが猫にしたのと同じように、彼の首を掴まえて部屋の外へと引き摺り出した。ちらりとベッドに目をやると、アリスは変わらず眠っている。扉を閉じたところで、リデルはゼロから手を離した。
「い、痛かった……」
 驚いたように目を見開いて彼を見上げるゼロに、リデルは笑顔で告げた。
「若い娘さんのベッドに、勝手に寝るものではありません」
「……だって」
 ゼロはつぶやく。
「猫が……」
 リデルは何となく彼の言いたいことを察し、苦笑した。
「貴方は猫ではないでしょう?」
「…………」
 ゼロはしぶしぶ頷いた。――まあ、似たようなものなのかもしれないが。リデルはやれやれ、と肩をすくめた。
「アリスは疲れているのでしょう。今日のディナーは私が作ります。もう少し経ったら、アリスを起こしてあげてください」
「わかった」
「くれぐれも、童話の王子様を気取ったりはなさいませんように」
「? どういうことだ?」
 眉を寄せたゼロに、リデルは笑みを浮かべて首を横に振った。
「いえ、何でもありません」
 ゼロが王子様を気取るような男である訳がない。そんなことは、リデルが一番良く知っている。
 ゼロに起こされたアリスは、ひどく驚くだろう。そして時計を見て青ざめて謝って――ゼロは別に、などともごもごとつぶやくのだろう。そして――まさか自分の隣でゼロが昼寝していたなどアリスは決して思い至らないだろうし、ゼロも口にはしないに違いない。
 本当に、この子たちは。
 笑みを零すリデルの腕の中で、猫がにゃあ、と小さく鳴いた。