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トリッキー・トリーター

「Trick or Treat」
「きゃあああああ!!」
 突然眼前に現れた黒い瞳に、アリスは悲鳴をあげてうずくまった。
「あの、アリス……」
 頭上の声が弱々しくつぶやく。
「その反応は、ちょっと傷つきます……」
「す、すみません」
 アリスは慌てて顔をあげた。彼女を見下ろしていたのは、やはりゼロ・ハングマン伯爵だった。いつも通りの無表情な顔で、親指を唇にあてている。子供じみた仕草と漆黒に彩られた容貌が、ひどくアンマッチだった。
 アリスは気を取り直し、スカートとエプロンをはたいて立ち上がる。
「えっと、ハロウィンですか?」
 そういえば今日は十月三十一日――アリスはすっかり忘れていた。ゼロは大きな黒目を期待に輝かせながらアリスに迫ってくる。
「ええ。ですからお菓子を下さい」
「お菓子なら、お茶の時間にも召し上がったでしょう?」
 そもそも先ほど夕食を摂ったばかりではないか。まるで年下の子供に言ってきかせるかのようなアリスの言葉を、しかしゼロはあっさりと無視した。
「そうですか、それならいたずらですね」
「ええ?!」
「期待していて下さい」
 彼の唇の端が、少しだけ持ち上がっていた。ゼロを良く知る者しか気付かないであろう、ほんのわずかな表情の変化。アリスが気付くようになったのも、最近のことだ。
「え、あの、ちょっと……」
 アリスの声などまるで聞こえないかのように、ゼロはくるりと彼女に背を向ける。ひょろりとした体躯が廊下に消えるまで、アリスは茫然と彼を見送った。
 ――いたずら……? 首つりの伯爵のする、いたずら?
 嫌な予感に、アリスはぶるりと体を震わせる。
「わ、わたしホラー苦手なんだけどな……」
 風変わりな主人の用意するいたずら。それを思い浮かべるだけで、アリスは血の気が引くのを感じた。

  × × ×

 その日の夜。仕事を終えたアリスは、自室の前で立ち止まった。誰もいないはずなのに、ドアの隙間からうっすらと光が漏れている。ゼロの言った言葉を思い出し、ごくりと唾を飲んだ。そうっとドアノブを回し、こっそりと中を伺う。
「あれ……?」
 部屋の中にひとけはない。光源はサイドボードの上にすぐ見つかったが、せいぜい蝋燭一本分の明るさ程度しかなく、良く見えなかった。
 アリスは手にした燭台を掲げ、部屋の中に足を踏み入れた。壁際のランプに火をうつし、振り返る。彼女の目に映ったものは――。
「あ」
 アリスはくすりと笑った。サイドボードの上に鎮座していたのは、小振りなカボチャを掘って作られたジャック・オ・ランタン。逆三角形でできたふたつの目、にんまりと笑った大きな口――造形は決して似てはいないのに、何故かアリスはゼロを思い出していた。
「リデルさんに作らせたのかしら……」
 つぶやきながら、それを手に取る。と、下に置かれていたメモに目が止まった。細く整ったその筆跡は、ゼロのものだ。
「『明日のおやつはパンプキンパイをリクエストします。刳り貫いた残りを保管してあるので使って下さい』」
 小声で読み上げ、アリスは目を見開く。
「『追伸――初めて作った割には、なかなか巧いでしょう?』」
 アリスはもう一度、ジャック・オ・ランタンに視線を落とした。
「これを……ゼロ様が?」
 とても器用な人なのだ、とアリスは思う。目はきちんと正三角形だし、口の中の歯も不揃いではない。初めてとは思えないほどの出来だった。――それにしても……。
「これだけのために、わざわざ?」
 思わず噴き出す。ただアリスを少しばかり驚かせて、そしてパンプキンパイをねだるためだけのために、こんなものを伯爵が自ら作ったというのか。カボチャの厚い皮を通して伝わってくる蝋燭の熱が、ほんのりと彼女の心を暖める。
「かわいいいたずらだこと」
 アリスはジャック・オ・ランタンのごつごつした頬をつんつんとつつき、それから少しだけためらったあと、カボチャの頂点にそっと唇を落とした。
「パンプキンパイですね。畏まりました」
 見れば見るほど、カボチャがゼロに見えてくる。アリスは苦笑を浮かべながら、それをサイドボードの上に戻した。オレンジ色の光が、彼女の部屋を照らし出す。彼女はベッドに腰掛けて髪をほどき、ジャック・オ・ランタンを眺めてうっすらと微笑んだ。
 ゼロが器用な理由――それは彼のあの「奇妙な趣味」と関係があるのかもしれない。だが、アリスは首を左右に振ってその思考を頭から追い払った。ジャック・オ・ランタンは悪霊避け。ゼロは確かに「首つりの伯爵」と呼ばれるが、それでも彼は決して悪霊などではない。そのことを、彼女は既に知っているから。
 明日は腕によりを掛けてパイを作ろう。今日のtrick(いたずら)、もしくはtreat(もてなし)のお返しに。――アリスは自分でも気付かないうちに、ひどく優しい笑みを浮かべていた。