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キティ・インザ・スノウ

 その年のクリスマス、ロンドンはひどい天候に見舞われた。イブの昼過ぎから急に天気が悪くなり、夕方以降はずっと吹雪いている。雪はみるみるうちに膝丈まで降り積もった。夜が明けても、雪は積もるばかりである。
 街はきっと、ひっそりと静まり返っているだろう。家々は門戸をかたく閉ざして、冬の嵐が過ぎるのを待っているに違いない。クリスマスのミサくらいは行われているのだろうか――それは、郊外の城に仕えるメイド、アリス・ウェーバーには知る由もないことであった。
「街に出るのはやめた方がいいでしょう」
 と、執事のリデルが言う。アリスも全くの同感であった。こんな吹雪の中、馬車を出すなんてことができるはずがない。
「ディナーの買い出しも、諦めるしかありませんね」
 買い置きのものでどうにかするしかない、とアリスは嘆息する。
 今日は彼らの主の生誕日。本当は、豪華なお祝いの料理と、主人の大好きな甘いデザートをご用意したかったのだけれど……。
「アリスが遭難でもしたら、ゼロ様は誕生日どころではありません」
 リデルはその穏やかな翡翠の目を細めた。
「今日はおとなしくしていましょう」
「……そうですね」
 雪が、窓に激しく吹き付ける。暖炉には火があかあかと灯っているが、それでもどことなく足元から冷気が這い登ってくるようである。
「そうだ、アリス」
 リデルが彼女の名を呼んだ。
「ゼロ様がうっかり凍えないように、ついていてあげてくれませんか。あの方、どうも寒いとか暑いとか、その辺りの感覚が少し鈍くていらっしゃる。以前、ひどく冷えた部屋の中で、薄着のまま、ぼうっとしておられたことがありました。案の定、その後ひどく熱を出しましてね――」
「わ、わかりました!」
 アリスは大きく頷く。主をそんな目にあわせるわけにはいかない。
「ちゃんと暖かくしていただきます!」
「頼みましたよ」
 リデルは微笑んで、この城の唯一のメイドの背中を見送った。そうして、ふ、と息を吐く。着込むの着込まないのという問題ではない。今、ゼロを独りにしておきたくなかった。
 見遣った外の景色は、一面の白。
「ゼロ様は、こういう天気がお嫌いらしい」
 リデルは目を細める。彼自身、その日のことを直接知るわけではない。ゼロからも断片的にしか聞いていない。それでも、なんとなく想像はつくというものだ――。
「ゼロ様がお生まれになった日は、ひどい吹雪だったそうだから」

 ゼロ・ハングマン。首つりの伯爵。
 彼の誕生日は、彼の母の命日であり、そして彼の父の心が壊れた日でもある。
 ――この子だけは、どうか。
 雪のひどく降った日。
 瀕死だった彼の母は彼の父に縋り、己の腹から赤子を取り出させた。父は、泣きながら妻の腹を切り裂いた。
 噴き出す真っ赤な血に全身を染めて、ゼロはこの世に産声を上げた。
 母はそのまま事切れ、父は次第に精神を病み――十年後、まだ幼い彼を遺して自ら命を絶った。彼を苛んだ祖母はやがて彼を取り巻くもの全てに殺意を向けるようになり、狂気の刃はやがてゼロ自身へと向けられた……。
 リデルは身震いをした。祖母の――マリア・ハングマンの血を流したのは、自分だ。ゼロを守るため、彼は人を殺めた。法で裁かれることがなくとも、罪は罪だ。贖うことなどかなうはずもない、重い罪。
 それでも、私は。
 強張った顔で泣くこともできぬまま、孤独に身体を丸める、己の主を思う。
 あの方が、一人にするなと、そう仰ったから。
「ああ」
 リデルは困ったようにつぶやいた。
「寒がりなのは、私の方かもしれませんね――」

  × × ×

 モスグリーンのベルベットの張られたロッキングチェアに深く体を埋め、ゼロ・ハングマンは暖炉の火をぼんやりと見つめている。
 彼の様子を見に来たアリスは、少し離れた椅子に腰掛けて繕いものをしていた。ゼロは彼女に声をかけるでもなく、ただじっと座っている。時折瞬く黒い瞳だけが、彼が人形ではなく命あるものなのだと示していた。
 炎が揺れる。影が揺らめく。
 あたりを支配する静寂、しかしアリスにとってそれは決して不快なものではなかった。
 先ほどまでいつもの白いシャツ一枚と黒いスラックスという軽装だったゼロだが、今は以前に彼女の編んだストールを巻いている。グレイのそれは、白と黒で彩られた彼によく似合った。裸足だった足にも、靴下を履いてもらった。
 アリスの視線に気付いたのか、ゼロが不意に身じろいだ。顔半分をストールに埋めたまま、目尻を少し和らげた――ような気がする。無表情な主人の表情を読むのは、いつもひどく難しく、それでいて少し楽しい。
「あたたかいですよ、アリス」
 ストールのことだ、と気付いてアリスは微笑んだ。
「お気に召して良かったです」
「なんだか使うのがもったいないような気がしますが……」
「使って下さい。いくらでも編んで差し上げますから」
 最初にお見せした時にも、こんな会話をしたのだったな。アリスはくすりと笑う。
「ん」
 ゼロは少し、ストールに頬を擦り寄せるようなしぐさをした。その瞳は薄く細められ、暖炉の火を映してぼんやりと光っている。
 ――こんなとき、アリスは奇妙な衝動に駆られる……たとえば彼女がこっそり主人と同じ名をつけた黒猫に対してするように、抱き上げて思いっきり撫で回したいような、その温もりを全身で感じたいような、頬と頬を合わせて鼻先にキスしたいような、切なくてあたたかくて少しばかり苦しい、そんな心地である。もちろん、実践はしない。できるはずがない。
「あっ」
 気が散ったせいか、アリスは指先に小さな痛みを感じて声を上げた。針が、左の人差し指を掠めたらしい。赤い珠がぷくりと浮かぶ。
「アリス?」
 素早く近付いたゼロが、彼女の左手を掴む。
「すみません、たいしたことないんです。大丈夫――」
 跪いたゼロは無言で、彼女のその指先を唇にくわえた。舌先が傷に触れ、ずくりと疼く。
「ゼ、ゼロ様、血が、きたない」
 悲鳴にも似た声をあげるアリスに、ゼロはうっすらと微笑んだ。
「いいえ」
 指を離したあと、改めてもう一度唇に押し当てる。今度はもう、痛まなかった。
「貴方の作るお菓子と同じに、甘いです」
 見上げるその黒々とした瞳は、まるで猫の瞳のように悪戯めいて、それでいて奇妙な熱を宿していて……。
 ――消毒と包帯をリデルに頼んできますね、とゼロは言い、ぽかんとするアリスを残して立ち上がった。
 にゃあ、と鳴き声。黒猫が、ゼロと入れ替わりに部屋に入ってきたのだ。
 ひょい、とアリスの膝の上に飛び乗り、ざらりとした舌で彼女の頬を舐める。
 びく、とアリスは身を震わせる。その頬は、真っ赤だった。
「……ゼロ様と同じ名前をつけてしまったのがバレたのかしら。それで、猫の真似を……?」
 にゃあ。猫は肯定も否定もしない。ただ、澄んだ瞳でアリスを見つめているだけであった。

  × × ×

 リデルの姿は、彼の自室にはなかった。ゼロはふらふらと城の中を探す。どこに行ったのだろう――舌の上に残る甘い味わいを感じながら、ゼロはエントランスホールへと足を向けた。物音がする。きっとリデルだろう。まさかとは思うが、この天候の中出掛けようとしているのなら、止めなくては――。
「おお、ゼロ! わざわざ出迎えか?」
 そこで彼が目にしたのは、ストロベリーブロンドの髪の大男、ルイス・ブラウンだった。リデルは雪でぐっしょりと濡れた彼のコートを受け取っている。
「ルイス?」
 ゼロは首を傾げる。
「こんな嵐の中、何か用ですか? 余程急ぎの依頼でも――」
「違う違う」
 ルイスは慌てて遮った。警官としての訪問ではない、と彼は言う。もちろん、彼に解剖を依頼するための死体を持ってきたわけでもない。
 ゼロは不思議そうな表情を浮かべる。
「では、何故?」
「用事がないと来ちゃ駄目か?」
「そんなことはありませんが、ただ不可解だなと」
 真顔でそう答えるゼロに、ルイスは少し寂しげな眼差しを見せた。ゼロにはわからない。ルイスの抱く友情の念が、伝わらない……。
「たまたま近くを通りかかったんだよ。そういうことにしとけ」
「こんな嵐の日に?」
「そうそう、うっかり凍死しそうになってさ、駆け込んできたわけ」
「はあ。危ないですよ、ルイス」
「リデル。お前の主人どうしていつまでもああなの」
 ルイスに苦情を言われたリデルは苦笑する。
「とにかく、ゼロ様とルイスは応接間へ。温かいお茶をご用意致します」
「リデル」
 ゼロはふと思い出す。
「アリスが指先を怪我した。消毒と包帯を」
「畏まりました。ではお茶はその後で」
 リデルは一礼し、踵を返した。
 残された二人の男は、どちらともなく顔を見合わせる。
「それ、似合うな」
 ルイスにストールを指差され、ゼロは少し面映ゆそうに目を伏せた。
「アリスが、編んでくれたのです」
「もう、さっさとくっついちまえお前ら」
「……はい?」
「なんでもない」
 リデルは忍耐強く見守ってるんだなあ、とルイスは慨嘆する。俺には真似できない。
「嵐が止むまで、いるでしょう?」
 ゼロはそう言って、応接間の方へと足を向けた。その足取りは、いつもよりも少し軽いように見える。
「あ、ああ。そうさせてもらえると、助かる」
「ルイスが凍死したら困りますからね」
 冗談とも本気ともつかない調子でゼロは言う。
「おい、ゼロ」
 その髪を背後からくしゃりと撫で、ルイスは言った。
「ハッピーバースデー」
「…………」
 ゼロはきょとんとルイスを見上げる。ルイスは繰り返した。
「誕生日、今日だろ?」
「……ええ」
「初めて、言えた」
 嬉しそうなルイスを不思議そうに見つめたあと、ゼロは目を伏せる。ためらいがちに口を開く。
「あ――ありがとう、ございます」
「どういたしまして!」
 知り合ってから、早十数年。ルイスは初めてゼロの誕生日を祝うことに成功したのだった。

 その日のディナーではルイスが誕生日プレゼントと称して持ち込んだワインが振る舞われた。テーブルの上には有り合わせの野菜のスープと厚切りハム、そしてブレッド。作り置きのブランデーケーキ。ゼロの要望で、客のルイスだけでなくリデル、そしてアリスも共に食事をした。
 ハングマン城には珍しく、華やいだ――そしていささか羽目をはずしたディナーとなった。
 最初に酔っ払ったルイスをリデルが早々に客室に放り込み、ゼロもまた同じ名を持つ猫とともにアリスの膝を枕にして占領し動かなくなったが、結局はリデルによって寝室に戻され、寝かしつけられた。
 こんなに騒がしいクリスマスは初めてだ、とリデルはため息をつきながらも口元は緩んでいる。少なくとも、以前までの静まり返ったクリスマスよりはずっといい。
 アリスが来て、そして少しずつルイスとの関係も変わって――ゼロ様は変化している。それは決して悪いことではない、とリデルは思う。
 リデルは城唯一のメイドに労いの言葉を掛けた。
「お疲れ様、アリス」
「いいえ」
 皺になったスカートを膝の前で引っ張り伸ばしながら、アリスは赤い顔で笑った。彼女も少しばかりワインを口にしていたのだ、ということをリデルは不意に思い出す。そうでなければ、いくら彼女でも主人に膝を枕にされて平然と髪を撫でることなどできるはずがない。彼は猫ではないのだ。
 城中で素面なのは、酒に強い自分だけか――。
「私、わかったんです。ゼロ様って猫そっくりだから――だから」
 アリスはほわほわと笑いながら、とんでもない言葉を放った。
「だから、時々どうしようもなくかわいいんだって……」
「…………」
 リデルは一瞬絶句して、そうしてやれやれと首を振った。
「アリス。今日はもう寝なさい」
「はい」
 素直に応じるアリスに、リデルは小さく言葉を投げる。
「一度飼う覚悟をしたなら――捨ててはいけませんよ、アリス」
 まあ、猫の方が懐いて離れないだろうけれど。
 リデルはグラスに残ったワインをぐいと飲み干す。いくら飲んでも少しも酔えない自分の体質が、こんな時ばかりは少し恨めしかった。