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アドヴェント・オブ・スプリング

 扉にノックをした後、主の書斎に入ったアリスは思わずため息をついた――別に部屋が散らかっていたせいではない。そんなことには彼女はよくよく慣れている。乱雑に積みあがった本の数々も、床に散らばった新聞も……まったく、彼女の主は何かひとつのことに夢中になると周りが見えなくなってしまうたちなのだ。だが、今の問題はそこではない。
 春の陽気を寄せ付けまいかとするかのようにぴっちりと閉じられた厚いカーテン、そして薄暗い部屋の中をちらちらと舞う埃――古い本らのせいか、どこかかび臭い。
 本でできた塔の合間にうずもれるようにして何か読み漁っている主人へと、アリスは声を掛けた。
「ゼロ様、カーテンを開けますよ」
「……ん」
 ゼロ・ハングマン。このハングマン城の主にして伯爵である彼は、アリスに気付いているのかいないのか、生返事を返してきた。日にあまり当たらないせいだろう、いつも顔色は悪い。元々やや浅黒い――多分、彼女の母親の血がそうさせているのだろう――肌の色ではあるが、それを差し引いても血色がよくない。黒目がちの瞳はぎょろぎょろとしていて、その下には浅くなることはあっても消えることのない隈が浮いている。痩せぎすの躰をいつも丸めるようにしていて、こうして座っていても明らかなくらいに猫背である。
 これはいけない、とアリスは思った。
 アリスはメイドである――それも、このハングマン城に勤める唯一のメイドだ。執事のリデルと彼女、そして彼らの主であるゼロ・ハングマン。その三人が、城の数少ない住人だ。ゼロは自分にまつわる「噂」をよくよく知っているから、社交界に顔を出すこともしないし、信心深くもないから教会にも出向かない。時折この城には訪問者もやって来るが――そういえば、アリスが勤め始めた頃よりも来客が頻繁になったような気もする――彼らがゼロを外に連れ出してくれるわけではない。たまに出掛けると思ったら、何やら血なまぐさい事件の捜査の手伝いとかなんとか……ゼロの「趣味」に口を出すつもりは毛頭ないが、健康的とは口が裂けても言えない生活なのである。
 先日城にやってきた、ゼロの旧知の仲の医者――デミアン・ロスチャイルドが言っていた。「たまには日光を浴びないと、体に良くないよ」と。ゼロは聞いているのかいないのか、はあ、だか、まあ、だか曖昧な返事しかしていなかったが。
 アリスは重いカーテンを押し開け、差し込む日光に目を細めた。春めいた陽光が眩しい。先日まで毎日のように立ち込めていた霧も消えて、今日は良い天気だ。少し窓を開けて、空気を入れ替えるのもいいだろう。アリスがそう思った時、背後からもごもごとゼロの声がした。
「アリス……眩しい」
「ゼロ様」
「眩しくて、本が読みにくい……」
 背を丸めてぼそぼそと呟くゼロに、アリスは再び深いため息をついた。
「ゼロ様」
「何です?」
 ようやく顔を上げたゼロは、案の定不健康そうな顔色で、隈の浮いた目をしばしばさせていた。
 ――これはいけない。アリスは意を決して言った。
「今日はピクニックをしましょう!」
「……はい?」
 不可解そうな顔をするゼロには構わず、アリスは固い決意と共に拳を胸の前に握り締めるのだった。

 ピクニックといっても、ゼロをわざわざ遠出させるつもりはない。広い庭があるのだから、そこで十分だ。とにかく、彼には日の光を浴びさせなければいけない。ゼロの虫干しだ。リデルに言うと、彼は二つ返事で賛成してくれた――ただ、私は忙しいのでお二人でね、と言われてしまったが。
 ランチのためのサンドイッチをバスケットに詰め、カトラリーやお茶の用意をして――アリスがゼロを出迎えに行くと、彼は不承不承といった様子で部屋から姿を現した。相変わらず櫛の通っているのかも定かではない髪を掻きながら、それでもアリスの抱える大荷物を見ると、持ちましょう、とバスケットのうちのひとつを持ってくれた。
「で、どこに行けばいいのです」
「お庭にいい場所があるんです」
 アリスはそう言うと、ゼロを先導して庭に出た。ゼロは黙って彼女に着いてくる。
「こっちですよ」
「……はい」
 アリスがゼロを案内したのは、城の敷地の中でやや丘状になっている芝生の上だった。手早く敷布を拡げ、さあ、どうぞ、とゼロを誘う。ゼロはその上にバスケットを置き、すとんと腰を下ろした。ちょうど、眼下には花壇が広がっている。リデルがまめに手入れをしているからだろう、荒れることもなく季節の花々が風に揺れていた。
 アリスもまた敷布の上に載って、バスケットを開いた。
「簡単なものですけど」
「いえ、ありがとう」
 礼を言ってゼロはお茶を受け取り、そして片手にハムとレタスのサンドイッチを持ってがぶりと頬張った。
「……うん。美味しい」
「サンドイッチって、お外で食べると一段と美味しく感じられるような気がしますね」
 アリスは微笑む。孤児院にいた頃にも、時々園庭で簡素なピクニックごっこをしたものだった。
「外で食事を摂るのは、初めてかもしれません」
 ゼロはぽつりと呟いて、また一口サンドイッチを齧った。
「暑いくらいに晴れているのに、まだ風はひんやりとしていますね。春だからでしょうか」
「そうですね。今ぐらいがきっと、ピクニックにはうってつけです」
 アリスが笑うと、ゼロは眩しそうに目を細めた。
「なるほど、もっと暑くなると楽しんでもいられなくなりそうですか」
「木陰に入れば少しは涼しくなるとは思うのですけど」
 ゼロ様は、時々こうして外に連れ出して差し上げなくては――そう思いながら、アリスはサンドイッチを食べる。思えば伯爵とメイドが共に食事を摂るなど考えられないことだが、ハングマン城では既にそれが通例となっていた。アリスだけではなく、普段はリデルも食卓を共にする。そうでなければ、ゼロはきっと食事を摂りたがらないだろう。ただでさえ、食欲というものが人一倍薄い――甘いものを除いては――ゼロである。放っておけば、食事を摂るのもうっかり忘れてしまいそうだ。
「デザートに焼き菓子もありますから、どうぞ」
「ありがとう」
 そよ風が、ゼロのやや伸びた前髪や襟足を揺らす。アリスは見るともなく、彼の耳の形や骨ばった顎、そして鼻梁の落とす影を眺めていた。
「――少し、あついな」
 不意にゼロが呟いて、アリスははっとした。
「木陰に移りますか?」
「そうしましょう」
 一度バスケットの中にカトラリーを片付けて、彼らは芝生の端の、木の下へと敷布を移した。ごつごつとした根の上は座り心地が悪いだろうとアリスは気にかけたが、ゼロは首を横に振るだけだった。
 シャツのボタンを一つ二つ外し、ゼロは木の幹に背を預ける。
「ここなら涼しい。……でも、芝のみどりがとても眩しいです」
「ゼロ様は眩しがりですね?」
 もう少し陽の光を浴びて、慣れていただかないと――言うアリスに、ゼロはわずかに苦笑したようだった。
「そうですね……」
 さらさらと、木々の梢を風が揺らしていく。
 不意に、ゼロがアリスの腕に手を伸ばした。向き合う形で座っていた彼女を、ちょうど半回転させる。
「アリスも、こちらにもたれて。その方が楽ですよ」
「え、わ、私は」
「いいから」
「ゼロ様?」
 アリスの背中が、硬いものに――とはいえ、それは明らかに木の幹より弾力性があって、しかもあたたかなものだったけれど――に触れた。慌てて体を起こそうとするが、両肩をそっと掴まれ阻まれる。
「楽にして」
 ゼロの声が耳元で聴こえる。
「ら、楽にって……」
 言われても、とアリスはしどろもどろになった。ゼロに背後から抱えられるような形で、どうやって楽にしろというのか。春の陽光など比較にならないほどの熱が、アリスの全身を駆け巡る。
「無理ですか?」
「え、えっと」
「駄目ですか……?」
 彼女の肩から、既にゼロの手は離れていた。今なら離れられる。今なら何事もなかったかのように、さっきまでの位置に座り直せる。今なら。今なら――。
「…………」
 しかし、アリスはそうしなかった。ゆっくりと全身の力を抜き、背中をゼロに預ける。アリスの後頭部がちょうどゼロの肩に当たって、ゼロは彼女の髪にそうっと頬を摺り寄せた。
 ゼロの片腕が、アリスを支えるように彼女の腰に添えられている。アリスは俯き加減になって、彼の胸に赤くなった顔を伏せた。
 ゼロの少し速めの鼓動の音が、アリスの耳に響く。
「ありがとう、アリス」
「…………」
 それは、こうして彼を外に連れ出したことに対する礼なのか、それともピクニックの準備をしたことか、それとも……。
 答えに困ったアリスはますます深く俯いたが、ゼロは何も言わずにただ眩しげに目を細めているだけだった。

 そのままどれくらいの時間が経ったのだろう。ゼロはアリスに触れていない方の手を伸ばしてお茶を飲んだり、焼き菓子を頬張ったり、マイペースに過ごしていた。アリスはといえばそれどころではなく――だが、次第に緊張もほぐれてきて、ゼロに手渡された菓子を少しは口にした。ゼロの好みに合わせた菓子は甘く、バターの風味が効いていて、ひとくち噛むとほろほろと口の中で溶けていく。
 ふたりを包む、まだ若い新緑の匂い。木々の葉の間をすり抜けて揺らめき彼らに届く、光の文様。火照った頬に心地よい、髪を揺らす少しひんやりとした春のそよ風。遠く近く鳴き交わす、小鳥の声。
 そして、彼女の背をしっかりと支えている、ゼロの固くあたたかな躰……。
 ――まるで夢の中みたいだ、とアリスは思った。
 こんなに近くにゼロ様がいて、側にいてくれて――側にいさせてくれて。夢みたいにしあわせで、苦しくて、うれしい。

 日が傾き始める少し前に、ゼロがぽつりと言った。
「そろそろ戻りましょうか……日が落ち始めると、すぐに気温が下がりますから」
「そ、そうですね」
 アリスはそそくさとゼロから離れ、振り向く。きっとまだ、彼女の顔は赤い。
「あの、重くなかったですか……?」
「全然」
 ゼロはいつものように淡々とした調子で応える。そして、
「アリス」
 と彼女の名を呼んだ。
「はい?」
 片付けをしていたアリスは手を止め、顔を上げる。その頬にゼロが指先で触れ、反対側のこめかみにはまた別の感触が触れた。
「また、来ましょう」
 囁くような声が彼女の耳に落ちる。
 ゼロはバスケットをひとつ手に持って、ゆっくりと城に向かって歩き始めた。
「…………」
 その、相変わらず丸まった背をしばし茫然と見送っていたアリスは、やがて、はい、と答えた。残りの荷物を抱えて、主人の後を追う。
 まだ、ほわほわと全身があたたかい。それが春の陽気にあたためられたせいなのか、それとも先ほどまですぐそこにあった彼の体温のせいなのか。どちらでもいい。どちらでもいいから、ただ――。
(ゼロ様も今、このあたたかさを感じてくれていればいいのだけど)
 アリスの胸を満たすこのしあわせが、ふたりの触れ合っていたところから、少しでもゼロに流れていますように。
(ゼロ様)
 アリスの心の声が届きでもしたかのように、ゼロが不意に振り返った。その顔は、逆光で良く見えない。それでも――きっと、彼は微笑んでいる。たとえ他人にそうとは見えなくても、きっと微笑んでくださっている。何の根拠もなく、アリスはそう確信していた。