instagram

Zweifel

 伏せろ、と彼が叫ぶのと同時、背後の壁に銃弾が刺さった。
「駐車場で待ち伏せとは、新しいね」
 襲撃にもかかわらず、どこか弾んだ声で言う男――リヒトを無視して、彼は車体の影に身を潜める。その片腕に庇われるようにしてかがみ込んでいるのは、彼らが守るべき人物、レインであった。鮮やかな赤毛と赤い目をした、どこか人工的な匂いのする子供。
「なるほど、どうしていつも壁際に車を止めるのかなと思っていたけど、そういうことだったんだね」
 ぼそぼそと呟く声を彼――ナハトは無視して、ぐっと頭を下げさせた。この車体は通常のそれよりも防弾に優れた特別製である。短銃での射撃であればウィンドウの一枚も割れはしない。
「とにかく、ここにいろ」
 ナハトの声に、レインは素直に頷いた。

 ナハトとリヒトがレインの護衛に任命されて以来、彼ら三人は指示に従って転々とホテルを移動している。どれも一流のホテルばかりで、しかも彼らが宿泊するのは高度なセキュリティシステムの導入されたVIPフロアと決まっていた。それだけの価値が、レインにはある。だからこそ、彼ら二人がレインを護衛しているのである。
 一か所に留まる期間は長くて二週間、短ければ数日。当然、「襲撃」があれば予定がどうあれ即日移動を余儀なくされる。今回のホテルには十日程滞在して、ちょうどこれから車に乗り込み移動する、というところだったのだが、どうやら駐車場にやつらが――「(モイゼ)」が忍び込んでいたらしい。何人いるかは知らないが、柱の影から彼らを銃で狙っているのは間違いない。こういった可能性を警戒して、壁際に車を停めておいたのは正解だった、とナハトは思った。少なくとも、四方を囲まれてしまうことは防げる。だからといって、今この車の陰から顔を出すわけにもいかないのだが……。
「さて、どうする?」
 面白がるような口調でリヒトは言う。実際面白がっているのかもしれない、とナハトは思った。彼と組んでレインの護衛を始めてからそれなりの期間が経過したが、どうもこの男のことは未だによくわからない。一見物腰柔らかな好青年、かと思えば敵への攻撃は辛辣で、一片の容赦もない。派手に血を流すことを、楽しんでいるかのように見えることもある。共に元傭兵という身の上は共通しているが、その他の点においては一切共通点などないのではないか、と思えるのだった。――だが、任務を果たす上で大切なのは共通点などではない。
 ナハトは口早に言った。
「じっとここに隠れていても仕方がないな」
「そう。狙いを定められたまま近距離戦に持ち込まれれば不利にしかならない」
 何人の「鼠」かは知らないが、狙撃担当と接近戦担当に別れられるのは厄介だ。車の陰から押し出され、レインを殺されてしまう――それだけは避けなければならない。
「相手の人数の目星と、場所がわかれば」
「なるほど」
 リヒトが頷いた。
「それならどうにかしよう」
 腿のホルスターから銃を抜き、駐車場の天井の一点に狙いを定めて引き金を引いた。敵の用いた銃のように、消音処理は施されていない。パァン、と乾いた銃声が広い駐車場――彼らと「鼠」のほかには誰もいないが――に響き渡った。
 けたたましいアラームの音と、降り注ぐ雨。いや、スプリンクラーの作動だ。
 リヒトが撃ち抜いたのは、火災報知器の類だったのだろう。それを作動させた、というわけだった。
「これで、相手にもタイム・リミットができた」
 リヒトはにっこりと笑ってナハトを見る。ナハトは無言で頷いた。今のアラームで、ホテルのセキュリティシステムが作動した。すぐにここにも警備員が駆けつけてくるはずだ――そうなれば、「鼠」に課せられた暗殺任務は失敗となる。
 そう。あくまで敵は「暗殺」しなければならないのだ。レインを。すなわち、「疑似戦闘司令官(PCC)」を。さもなければ、その行為は「戦闘行動」或いは「軍事行動」の一環と見做され、「鼠」の雇い主に対して「包括的三次元軍事行動禁止条約(CTCBT)」違反のペナルティが課されることになる。
「じゃあ、警備員が来るまでここで息を潜めてれば勝ちってこと?」
 尋ねるレインに、いや、とナハトは否定した。
「それはどうかな……」
 確かにアラームは鳴った。スプリンクラーは作動した。だが、警備員は本当にここに来るだろうか? 来るとして、それは間もなくのことだろうか? それとも、彼らが「鼠」を仕留めた後――もしくは彼らが殺された後ではないだろうか?
「?」
 不思議そうに瞬くレインから目を反らし、ナハトはリヒトを一瞥した。
「行くか」
「ああ」
 短いやり取り。だが、それで十分だった。
「レインはちゃんと隠れててよ!」
 リヒトはそう言い残し、車体の左から飛び出す。ナハトは反対の、右方から。レインは呆気にとられたように、彼ら二人の姿を見送った。

 車体の影から出て間もなく、ナハトはスプリンクラーで濡れた地面を一瞥した。ところどころ、柱の陰に濡れ具合の薄い場所がある。そこに「鼠」が隠れている、とナハトは判断した。まずは最も自分の位置から近い、「鼠」の潜む柱の陰に滑り込む。スプリンクラーに続く彼らの動きが予想外だったのか、ほとんど銃弾は飛来してこなかった。
「!」
 果たして、柱の裏には「鼠」の一人がいた。銃を構え直すその男に向かい、ナハトは勢いをつけたまま跳躍して脚を振り上げる。鈍い音と共に男が吹っ飛び、柱に叩きつけられた。その手から銃が落ちる。側頭を強かに蹴られて脳震盪でも起こしたか、ずるずると座り込んで起き上がる様子を見せない。ナハトは床の銃を拾い、倒れ伏した男の脳天に一発撃ち込んだ。
 さて、次だ。
 柱の陰から顔を覗かせ、次の標的を選ぶ。頬を掠めて飛んだ銃弾に一瞬ひやりとするが、だからといって彼が怯むことはなかった。こんなものは、慣れている。
「ふッ」
 鋭く呼気を吐き出し、スプリンクラーの降りしきる中をナハトは走った。低い体勢で一気に駆け抜け、柱の陰に立つ男の脚を抱え込むようにして体当たりする。たまらず倒れる男の、その腿に流れる動脈を目掛けてナハトはナイフを突き立てた。短い絶叫。
 さて、次だ。ナハトは男の脚を離して一転し、立ち上がった。時間を掛けるとレインの元に「鼠」が到達してしまうかもしれない。あくまで、彼らの任務はレインを守ること――「鼠」の殲滅はそのついでである。目的と手段を間違えてはならない。
「行かせないよ!」
 朗々と響くリヒトの声の後、ばたりとひとの倒れる音がした。ちらりと覗いてみると、彼らの車の方向に向かっていた――ナハトたちがいなくなった隙に、レインを殺そうとしたものだろう――「鼠」のひとりを、リヒトが射殺したらしい。銃声はしなかったから、リヒトもまた敵の銃を奪って使用したものと見える。
 瞬時にそれらを見て取り、ナハトは次の標的へ向かって駆け出した。できるだけ相手の銃口に身を晒さぬよう、柱の影を使いながら接近する。胴部分には防弾衣を着込んではいるし、動き続けている脚を狙うのは至難の業だが、頭をやられてはひとたまりもない。
(死ぬことが怖いんじゃあない)
 ナハトは思う。
(ただ、もう戦えなくなることが)
 面白くない――。
 ふと、自分やリヒトが死んだらレインはどんな顔をするのだろう、と思った。ふたりとも死んでしまえば、次に殺されるのはレインだからそれどころではないかもしれない。では、どちらかが死んだとしたら。ひとりが死んでしまって、それでもレインはちゃんと守られたとしたら。その時、レインは……。
(くだらん)
 ナハトは吐き捨てながら、大きく横に跳んだ。一瞬前まで彼のいた場所を、人工的な霧雨を斬り裂いて銃弾が何発か通り過ぎていく。何発か、ではない。ナハトはその銃から放たれた弾数を数えていた。銃声がない分数えづらくはあったが、不可能ではない。そして、間違いない。もはやその手に銃弾は残っていない。その銃に装填可能な弾の数くらい、彼は知っていた。
 敵が銃を放り捨て、ナイフを抜くのが見える。ナハトは思わず笑みが浮かぶのを自覚した。そうだ、それでいい。
 敵の振るうナイフを身を捩って避け、一瞬相手に背を向ける。そうしながらナイフを握る手首をがちりと掴みつつ足払いを掛け、肩口を床に向かって鋭く突き飛ばした。たまらず倒れ込む男の鳩尾に、すかさず靴先を叩き込む。血反吐を吐く顎を目掛けて、もう一発。
「終わったかい、ナハト」
 動かなくなった敵に背を向けたところに、ちょうどリヒトの声がした。
「ああ」
「こっちも終了だ」
 振り返ると、リヒトが何事もなかったかのようににこにこと笑っていた。だが、その全身は返り血を浴びてひどく汚れている――ナハトもきっと同じようなものだろうが。彼らの足元のコンクリートは、血混じりの水たまりで赤黒く変色していた。
「びしょびしょになってしまったね」
 リヒトが長い前髪をかき上げた。その黒髪は濡れて一層艶を増し、先ほどまで血生臭い戦闘の中にあったようには見えなかった。だが、滴る雫は血の混じった薄紅色である。
「……予定通り移動するのか」
「ああ、そこのところは指示を仰がないと」
 車体は大まかに無事とはいえ、銃弾による細かな傷はついている。そのまま使用するか、代車を手配するのか。そのあたりのことは、リヒトが彼らの「雇い主」と相談する必要がある。
 車の方に戻りながらそんな話をしていると、レインがひょこりと顔を覗かせた。パーカーを目深にかぶり、何とかスプリンクラーを防ごうとしたようだが、グレイの生地はじっとりと水を吸い込んでしまったようだった。
 二人の姿をみとめたレインは、何ともいえない表情を浮かべて言った。
「車の中にタオルがあった」
 白い、恐らくはまっさらなタオルを、それぞれ二人に投げて寄越す。
「汚れるよ?」
「別にいいでしょ。タオルなんだから。拭くためにあるんだし」
 そんなに濡れていちゃあ、風邪を引く。
「風邪……ねえ?」
 リヒトが苦笑しながらナハトをちらりと見る。ナハトは肩をすくめて、その真っ白なタオルに顔を埋めた。真新しい白が、真紅に染まっていく。
「引くでしょ、風邪くらい」
 レインはぶっきらぼうに言った。
「人間なんだから」
「……かもな」
 ナハトは小さく呟いた。

 結局、代車が手配されることとなり、その間彼らは先ほどまでいたVIPフロアに戻って順にシャワーを使用し、身支度を整えた。
「ねえ、ナハト」
「なんだ」
 レインの使用しているドライヤーの音が聞こえる。タオルで荒っぽくそのサンディブロンドの髪を乾かしていたナハトの目の前に、リヒトが小さな一枚の紙を差し出した。
「……?」
 何かの事故を報じる新聞記事のコピーのように見える。これがどうした、と言いかけてナハトははっと息を呑んだ。
 記事には、被害者の顔写真が楕円にはめ込まれていた。その顔。
「レイン……?」
 ナハトの目が忙しく文字を拾う。事故。被害者。見知らぬ名前。子供。脳死。
 ――脳死……?
 ドライヤーの音が止むと同時、リヒトはその紙を手の中に握り込んだ。テーブルに置かれた空の灰皿の中に突っ込み、火を点ける。……今までも使用したメモ用紙等はそのように処理してきた、だからレインは不審には思わないだろう。思わないだろうが。
「以前君は言っていたよね。あの子は『化物(ゲシュペンスト)』だと」
 リヒトが囁くように言う。
「もしそれが本当だとしたら、君はどうする?」
「…………」
 短い沈黙の後、ナハトは小さく笑った。
「俺たちに、ひとのことは言えまい」
「…………」
 リヒトは灰皿の中の灰にその蜜色の視線を投げ、くすりと笑った。
「……それもそうか」
 ナハトはグラスに入った冷水をぐっと飲み干しながら思う。――そういえば、やはり警備員は来なかったな、と。