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Wasser

 レインは車の中にいる。一見しては特殊装甲とは見えない、だがその車体を構成する金属もガラスも、すべてが特殊な仕様である。かつての戦車並だよ、とリヒトは言ったものだった。
 いつも運転するのはナハトで、後部座席に並ぶのは彼女とリヒトだ。しかし、今はいずれも空。車の中には、レインひとりである。
 レインの護衛である元傭兵の二人――ナハトとリヒトはレインの座るドアを左右から囲むようにして立ち、襲い来る「暗殺者」たちと相対していた。レインらが駐車場に停めていた車に乗り込もうとしたその時、数名の暗殺者に襲われたのである。
 レインは「擬似戦闘指揮官(PCC)」である。すなわち国家最大の軍事機密のひとりであって、その存在が「擬似戦闘空間(ヴォイド)」での擬似戦争の行く末を左右する。
 「包括的三次元軍事行動禁止条約(CTCBT)」によって三次元での戦闘を禁じられ、「戦場」にアクセスできるのが「PCC」のみになった今では、その「PCC」の暗殺のみが、唯一表立っては規制されていない「軍事行動」なのであった――とはいえ、市民生活に影響を与えるような暗殺行動、軍事行動をとればペナルティを課される。結局、銃火器に頼らない原始的な方法に頼るしかない。
 レインはちらと外のナハトを見上げる。サンディブロンドの髪、群青色の瞳。いつも無愛想でぶっきらぼう。私の事が多分、あまり気に入らない。正直なひと。こうして誰かと戦っている時だけがとても楽しそう。体はそこそこ大きいのにとても素早くて、身のこなしが私にはとても追えない。ナイフで正確に敵の急所を切り裂くのが得意。
 車体の反対側を守るのはリヒトである。黒髪、鮮やかな向日葵色の瞳。ナハトよりも少し背が高い。いつも微笑んでいて、優しい――いや、優しそうに振舞っている。愛想もいい。私のことは、多分どうでもいい。何を考えているのかわからない、きっと嘘つき。ナハトとは少しも似ていないのに、やっばりこうして誰かのことを殴ったり蹴ったり踏んづけたりしている時は、心底生き生きしていて、そこは同じ。
 ナハトのナイフに掌を貫かれた男が、絶叫の形に口を開ける。だがその音は防音の効いた車内にいるレインには聞こえなかった。リヒトに顎を割られた男の歯が窓にぶつかって、血の跡を引いて落ちていく。レインはそれをぼんやりと眺めていた。
 この人たちは、兵士だ。私には支配できない兵士。「PCC」である私が、唯一操れない兵力。そもそも私は近接格闘の心得などないから、操れたところで無駄だろうけれど。
「…………」
 彼らが負けたら、私はここから引きずり出されて、殺されるのだろうか。きっとそうだろう。「PCC」は私だけではないし、私が死んでも代わりはいる。替えの効く私などに、リヒトやナハトのようなレベルの実戦経験者をそんなにたくさんあてがえるはずがない。そんなことくらい、分かっている。
 では、私は彼らに勝って欲しいのだろうか? ――よく分からない。
 ここは仮想空間ではない。噴き出す血も、飛び散る汗も、砕ける骨も、それはすべて現実だ。戦闘が終わった後も消えてなくなるわけではない。この血で汚れた車の窓は、きっと赤黒く染まったままだろう。死体は転がったまま。負傷者は呻き声を上げて身悶え続ける。
「お待たせ。終わったよ」
 レインの横のドアが開いて、リヒトが顔を覗かせた。点々と飛んだ返り血をものともせずに彼は微笑む。
「人が集まる前にさっさと移動するぞ」
 ナハトが運転席に乗り込む。
「……あの人たちは置いとくの」
 尋ねると、リヒトは笑顔のままで頷いた。
「後処理は、そのための班がいるって聞いてるから」
「あ、そう」
 レインは呟き、前に座るナハトを眺める。その表情からは、先程までは確かにあった、変に高揚したような、鮮やかな色彩は影を潜めている。いつもの不機嫌、いつもの無表情。
「ちょっと血なまぐさいかもしれないけど、我慢してね」
 リヒトの言葉に、レインは黙って頷いた。もう慣れたよ、とは言わなかった。
「……そういうものだろう」
 ナハトがぽつりと言う。
「人には血が流れている」
「そうだね」
 レインはくすっと笑った。
「今度、『ヴォイド』にもそのエフェクト、実装してもらうように提案してみようかな?」
「…………」
 下らない、とでも言いたげにナハトは鼻をならす。
「ま……、それでも私の視点からじゃ見えないだろうけど」
 レインは目を閉じ、血臭の漂う車内で体を丸めたのだった。

 新しい滞在場所となるホテルに到着したのはまだ夕刻だったが、レインは早々に休みたいと言った。リヒトが軽食をルームサービスでとり、それを口にしたレインはそのままベッドルームへと引っ込む。程なく聞こえてきた水音は、シャワーを使っている音か。
 ナハトとリヒトもまた交互にシャワーを浴びて、ようやく戦闘の汚れを落とすことができた。車も今、クリーニングされていることだろう。窓にべったりついた血の跡も、ようやく綺麗になる。
 濡れた髪をタオルで拭きながら、リヒトはナハトの座るソファの向かいに腰掛けた。ナハトは水をボトルから直接口にしている。濡れた唇を手の甲で拭い、小さくため息を漏らした。
「……今日の『(モイゼ)』の中に、知り合いがいた、って?」
 リヒトの問いに、ナハトは俯く。それが頷きの代わりだということは、すぐにリヒトにも見て取れた。
「知り合いというほどじゃない。昔、何度か同じ戦場の、同じ作戦に参加した……それだけのことだ」
「それはもう立派な知り合いでしょう」
 リヒトは苦笑する。
「むしろ、僕らみたいなものにとってそれ以上ってあるの」
「…………」
 ナハトは答えない。
「まあ、元傭兵の身の振り方としては、どちらもあり得る話だものね」
 リヒトは言った。
「僕らは『PCC』を護衛する側に回った……だけど、狙う側に回ったっていい訳だ」
「ああ」
 ナハトは乾いた答えを返す。
「それだけのことだ」
 今更、知り合いとの戦闘に躊躇うような繊細さは持ち合わせていない。しかも、ナハトがその相手のことを思い出したのは顔を見た時でも、ナハトに指を切り落とされた時の悲鳴を聞いた時でもなく、倒れた後にその懐から見えた銃の、その銃身についた傷の場所と色形だったのだから。
「たわ言だと思って聞き流して欲しいんだけどさ」
 リヒトはガス入りのミネラルウォーターをグラスに注ぎ、レモンを絞りながら言った。
「『PCC』を狙うのは、何も敵対関係にある外国とは限らないよね」
 ナハトは顔を上げる。
「どういうことだ?」
「『ヴォイド』には凄まじい利権が絡んでいる。今まで武器製造や輸出に絡んでいた企業のうち、新しい『軍事産業』にシフトすることができた企業なんて数少ない。そうだろう?」
「……ああ」
 リヒトはうっそりと微笑んだ。
「『ヴォイド』システムを破綻させるのに一番手っ取り早いのは?」
 ナハトはほんの僅か思考し、そして返答した。
「『PCC』を片っ端から殺していく……か」
「そういうこと。非公開の『ヴォイド』のサーバの位置を特定できたとしても、それを物理的に破壊したらさすがに国際社会から非難轟轟だろうし、ペナルティは避けられないよね。一応、『ヴォイド』システムは国際社会のコンセンサスを得ているわけだから」
「ふん……なるほどな」
 ナハトは頷く。リヒトは僅かに声を低めた。
「片っ端から『PCC』を狩り尽くしていけば……いくら秘密裏に暗殺されたことにしても、情報は漏れるものだからね。なり手がなくなるか、或いは『PCC』が必要なこのシステムそのものに疑念が生まれるか、だ」
「…………」
 ナハトはふと思う。――レインは一体どうやって「PCC」に選ばれたのだろうか。そもそも、「PCC」とは一体何なのだろうか。擬似戦闘空間「ヴォイド」における戦闘指揮官。あんな子供が? 何故? 何故元軍人達ではなく、あんなど素人が選ばれたのだ? レイン以外の「PCC」とはどんな人間なのだろう?
 無論、誰が「PCC」であるかは第一級の機密事項であって、彼らの知るところではない。情報は、知る者が少なければ少ないほど漏れにくくなる――たとえ時間稼ぎに過ぎないとしても。
 そして、それらはきっと、ナハトのようなものは知らない方がいいことだ。
「ま、全部ただのたわ言だけどね」
 リヒトは考え込み始めた様子のナハトにそう声を掛け、そしてソファに深く背を埋めた。
「……僕はこっち側がいいな」
 「PCC」を狩る側ではなく、守る側がいい。――多分、その方が快適だから。
 やわらかなベッド、温かくも冷たくもなるシャワー、ゆっくりと心ゆくまで楽しめる食事。この身を包む、さっぱりとした清潔な衣服。更には――希望通りの武器の携帯許可も。それら全て、彼らがこの仕事につくことで得られたものだ。
「僕はこの生活、結構気に入ってるんだよね」
「…………」
 リヒトの言葉に、ナハトは返事をしなかった。その代わりに思う――「PCC」は、まるで釣りにおける疑似餌(ルアー)のようなものだな、と。大規模な戦闘行為を禁じておきながら、暗殺活動については事実上黙認している――本当に、「ヴォイド」はかつての戦場の役目を果たしているのだろうか? 本当は、あらゆる殺意のターゲットを「PCC」に絞らせることが目的なのでは……いや、まさか。
 ナハトはぐいと水を飲む。
 そんな、馬鹿げたゲームのような話があってはたまらない。あくまでメインの戦場は「ヴォイド」にあって、その指揮官である「PCC」が狙われるのはその副産物だ。そうに決まっている。
 リヒトが不意に口を開いた。
「ナハトは護衛の仕事ってこれまでしたことある?」
「……ないな」
 そもそも、ナハトは人と関わるのは好きではない。戦場の、できるだけ第一線を選んで仕事をしてきた。悠長に会話など交わしている暇はないくらいの――そして、そういったところはリスクも高いがリターンも大きい、つまり報酬も高い。
「僕はあるよ」
 ナハトはじろとリヒトを眺めた。
「『偽りの光(リヒト・フォン・ゲフェルシェング)』――だったか」
「あ、知ってたのかい」
 リヒトは笑った。かつてナハトが「夜の客人(ナハト・ベズーハ)」と呼ばれていたように、リヒトもまた、そう呼ばれた日々があった。
「業界では有名だったからな」
 報酬か、己の扱いか、何かしら気に食わなければ依頼人でも容赦なく見捨てる。ただし、腕だけは超一級――まるで、扱いにくい兵器のようなものだ、と。ただの断片的な噂ではあったが、リヒト自身が否定しないところを見るとどうやら事実なのだろう。
「途中で契約破棄した場合は、ちゃんとお金は返していたよ?」
「知らん」
 言い捨て、ナハトは尋ねた。
「あれのことも、気に入らなければ見捨てるのか」
「……さあね」
 リヒトは呟く。
「言っただろう? 気に入っている、と」
 とりあえず、今のところはね、と付け加えた。
「…………」
 ナハトは黙っている。自分は、報酬さえきちんと支払われていれば任務を最後まで全うするのが常だった。多分、今回もそうだろう。
「気に入ってるよ」
 リヒトが付け加えるように言った。
「レインのことも――君のこともね」
 面白いからさ、とあっさり。
 ナハトは顔をしかめた。
「消えるのは好きにしろ――だが、敵として現れたなら容赦はしない」
「それはない」
 とリヒト。その一言は、今までになく真摯な響きを帯びていた――ナハトは思わず顔を上げる。と、じっと彼を見据えていたリヒトと目があった。
「君はレインを『化物(ゲシュペンスト)』だと言ったけど」
 ゆっくりと語られる言葉。
「だったら、君はどうなの?」
 ――君も、それから僕自身も。
「…………」
 ナハトは答えない。
 立ち上がったリヒトは意味深に笑い、グラスの中の水を飲み干す。浮かべていたレモンの薄切りが、ぺたりとその底に張り付いていた。