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Pfannkuchen

 テーブルの上に薄いシートを広げたレインは、その華奢な手にぴったりとしたグローブを嵌めた。スコープは流行のコンタクトレンズ型ではなくグラス型。左耳にはインナーフォンが挿してある。
 レインがその指先でシートの上に触れると、そこには大小様々なウィンドウが現れた。何が映っているのかは傍から見ていてもさっぱり理解できない。レインの掛けているスコープ越しにしか見えないからだ。
 ただ確実なのは、そのシート上で「戦争」が行われているのだということ。
 こんな高級ホテルの一室で、「戦争」だと――ナハトはこみ上げる苦い気持ちを噛み殺し、レインから目を逸らした。「戦争」とはこんな空調の効いた快適な屋内で椅子に座ってするものではない、と彼は思う。くだらない感傷の類だと指摘されればそれはそうかもしれないが、過去の遺物として片付けるにはあまりにも鮮やかな記憶なのだった。
「ナハト、ジュース飲む?」
 グレープフルーツを絞ってみたよ、とにこやかに声を掛けてくるのは、同僚のリヒトである。元傭兵という経歴は同じなのに、やけに陽気で明るく、人懐こい。無口で無愛想なナハトに対してでさえ、だ。
 ナハトは一瞥し、肯いた。
 すぐさま、クラッシュアイスとジュースで満たされたグラスが差し出される。ご丁寧なことに、ストローまで刺さっていた。
「レインも後で飲むかな?」
 呟くリヒトに、ナハトはさあな、と肩をすくめた。後で、とはいえ先程ログインしたばかりである。あと数時間は戻って来ない。
 レインは「擬似戦闘司令官(PCC)」である――そして彼ら二人は、その護衛なのだった。
 「PCC」がこの国に何名居るのかは非公開であるし、レイン以外の「PCC」をナハトは知らない。だがこうして「擬似戦闘空間(ヴォイド)」に時間差で順にログインしていることを考えると少なくとも十名前後はいるのだろう、と思っている。
 「PCC」についての詳細は明かされない――明かされるはずがない。彼らは「包括的三次元軍事行動禁止条約(CTCBT)」批准以降の世界の中で、軍事面における国益を一手に担っている存在なのだから。第一級の軍事機密である。
 だからこそ、「PCC」は三次元における軍事行動が禁止された今でさえ暗殺の対象になり、ナハトのような元傭兵による護衛が必要になるわけだ。
「僕らも本当、物好きだよねえ」
 リヒトは彼の向かいのソファに腰掛け、その唇を窄めてストローをくわえた。長い脚を組み、目を伏せて笑う。
「せっかく『戦場』がなくなったっていうのに、こうして僕らは『戦場』の近くに留まり続けている」
 他にも職業の選択はあったはずだ――それなのに、彼らはよりによってこんな。
「…………」
 ナハトは一見普通のスーツにしか見えないであろうその服の下に仕込まれた、数々の武器や暗器を思った。
「俺は」
 ぼそりと言う。
「他で生きられる気がしなかったからな」
 返事があるとは思っていなかったのか、リヒトがその向日葵のような色の瞳を見開いた。
「傭兵は長かったの?」
「いや……ほんの数年程だが」
「じゃあ、僕も似たようなものかなあ」
「俺には、あんたのほうが不思議だ」
 ナハトはちらとリヒトを見た。口の中に広がるグレープフルーツの酸味が心地良い。
「何が?」
「ぱっと見、傭兵って柄じゃないだろう。あんた」
「そう?」
「ああ」
 肉体を鍛えているのはわかるし、肉弾戦に慣れているのも既に良く知っている。しかし前線の兵士につきものな、ある種の無骨さや粗野さが彼にはない。同じ軍属でも上級軍人のような、そんな風格を感じるのだ。
「気のせいだよ」
 リヒトはあっさりとそう言って目を逸らした。
 ――彼らは互いの経歴をほとんど知らない。どこを渡り歩いてきたのか、どこに雇われていたのか、誰にスカウトされたのか。
 尋ねられたことも、尋ねたこともない。きっとこれからもないだろう。知らない方がいいこと、知るべきではないこと、そんなものは世の中にいくらでも転がっているのだから。
「…………」
 ナハトは視線を動かし、レインをちらりと見遣った。彼女はシートの上にグローブを嵌めた十本の指先を触れさせ、それを目まぐるしく動かしている。
 ――あんな子供が「司令官」としての適性を見出される、なんてな。
 何度となく思い浮かべたことをまた繰り返し、ナハトはため息を噛み殺す。
 レインのことも、彼は何も知らない。性別も、出身も、正確な年齢も、家族構成も、何も。
 レインは何も語らない。奇妙な子供である。白い肌に鮮やかな赤毛、赤い目。手足の爪もことごとく赤く塗っている。
 ――血の色を模しているのか、とは聞けなかった。だがナハトにはそうとしか見えない。レインには、血の雨をくぐった経験などないのだろうけれど。
 

 数時間が経ち、ナハトとリヒトの前にあったグラスは当然空になった。いや、リヒトの方だけは溶けた氷で薄まったグレープフルーツジュースが僅かに残っている。ナハトは氷までがりがりと齧ってしまった。
「ああァ!!」
 レインが不意に奇声を上げ、スコープを外した。とん、と拳でテーブルを殴る。細い腕である、大した音は鳴りはしない。汗ばんだ額に、赤い前髪が張り付いていた。
「おや、終わったのかい」
 リヒトが笑ってホテルのロゴの入ったハンドタオルを差し出す。レインは肯いてそれを受け取り、顔を埋めた。
「挽回が大変だった」
 ぽつりとつぶやく。
「私の前の『PCC』が軒並み拠点を占領されてて、もう……」
「機密情報はあまり口にしないほうがいいんじゃないかい? 僕らにも無論守秘義務はあるけれど」
 リヒトが言わんとしていることはナハトにも理解できる。
 所詮、リヒトもナハトも雇われた狗に過ぎぬ存在である。いつレインに――否、この国に牙を剥くかもしれないのだ。
「別に、これくらいどうってことはないよ」
 レインは投げやりにそう答えた。
「疲れたなあ」
「何か飲む? それとももう少しお腹に入れるかい?」
 ルームサービスメニューを示して言うと、レインはそれを手に取った。
「パンケーキが食べたい」
 言うなりパタンとメニューを閉じ、レインはシートを除けたテーブルの上に突っ伏した。既にグローブも外している。
 あれこれと世話を焼くリヒトを横目に、ナハトは黙って座っている。
 レインはぶつぶつとつぶやき続けた。
「少数の『兵士』を見捨てられないでどんどん『増援』を送るから泥沼になる――『拠点』の方が余程戦略的価値は重要なんだから、『前線基地』のひとつやふたつ、捨てられないでどうするんだ」
「…………」
 ナハトは「ヴォイド」での戦い方に関しては全くの無知である。だが、レインのいう意味はなんとなく理解できた――理解できるがゆえに。
 すっと立ち上がった。振り返るリヒトに向かって、煙草、と告げる。
 部屋を出て行く彼を、誰も止めはしなかった。

 フロアにあるバルコニーに出たナハトは、大きく息をついた。
 良い天気である。街外れの丘の上にあるホテル、その高層階にあるVIPフロアからは眼下の街並みが一望できる。ナハトは壁に背を預け、空を仰いだ。透き通るような青、そこに浮かぶ雲はまるでグラスに浮かぶクラッシュアイスのよう。
「誰が煙草だって?」
 からかうような声に、ナハトは振り向きもしなかった。
「あれをひとりにしておいていいのか」
「同じフロアにいるんだし、大丈夫でしょう」
 リヒトはポケットに両手を突っ込んだままの格好で、ナハトの顔を覗き込んだ。
「煙草。君、吸わないだろう」
「肺機能に弊害が出るからな」
 ナハトはあっさりと認めた。
「ニコチン中毒の野郎どもは、任務中でもあれが切れると苛々して厄介だった」
「わかるよ。僕も吸わないんだ」
 リヒトは笑う。
「そもそもナハトから煙草の匂いはしないしね」
 ナハトは顔を顰めた。
「ノンスモーカーの確認なら済んだろう。他に用があるのか」
「別に、その確認に来たわけでもないんだけどな」
 リヒトは外を眺め、目を細める。
「いい天気だ」
「…………」
 ナハトは答えない。
「『ヴォイド』の中の『兵士』って、どんなふうなんだろうね」
 リヒトは構わず呟いた。
「ただの数字、なのかな。それともその個々の肉体までデザインされているのかな。個性はあるんだろうか。どうなんだろうね?」
 ナハトは肩をすくめる。
「さあな。所詮はデジタルデータだろう」
「デジタル――ね。でも、言ってみれば僕らもデジタルな存在だよ」
 ゼロとイチ。オンとオフ。有と無。生と死。全てはその二元論に帰着できる。きっと。
「何が言いたい?」
 苛立ったように声を上げるナハトに、リヒトはあくまで穏やかだった。
「レインが切り捨てた『兵士』が何人だったのかはわからないけどさ。でも、僕らは数年前まで確かにそちら側にいた人間だったんだ」
「…………」
「レインのいうことは理解できるし、きっと『司令官』としては正しいんだろう。少数の犠牲を切り捨てて大きな利益を守る。何も間違ってはいない。でも……なんだろうね、少しもやもやする……そうじゃない?」
「…………」
 ナハトは押し黙った。リヒトのいうことはわかる。共感もできる。だがそれがそのまま彼の感じた苛立ちと同じかというと、そうとも言えないような気がするのだった。
 彼自身が切り捨てられることに、これまで苛立ったことなどない。あくまで自分は正規の軍人でもない一介の傭兵で、ただの駒だった。そのことはよく理解していたし、いつ捨て駒にされても良いと思っていた。その覚悟はあった。
 そんなものだ、「戦争」なんて。正義や大義や大衆の利益の名の元に、個は消費され、無視される。それはわかっている。ナハトはそれに異論はない。その上で、彼は「戦場」を生き抜いてきたのだから。
 それなら何故、さっき俺は苛立ったのか……。頭で理屈を理解することと、感情論は別だとでも言うのか。
「まあ、僕はそう簡単に僕を犠牲にはさせないけどね」
 リヒトが呟く。ナハトは顔を上げた。
 リヒトは笑っている。いつものように人懐こく、屈託なく。
 きっとこの男は、戦場でひとを殺す時もこんな表情だったのだろう。彼の纏う穏やかな空気、柔らかな物腰、それらは全部彼にとっては武器なのだ。獲物を油断させるための、或いは自分の殺気を隠しておくための武器。
 できればこいつとは戦いたくないな、とナハトは思った。そう思わされる相手に出会うことはさほど多くはない。それがこうも身近にいるとは、何とも居心地の悪いことだ。
 ナハトの内心をよそに、リヒトは声を上げた。
「ああいけない、ルームサービスがそろそろ来る」
 さすがにレインひとりに受け取りを任せるわけにはね、とリヒトは言う。護衛上それは非常によろしくない。
「それから」
 ちらりとナハトを見遣り、彼は言った。
「レイン、勝手に君のぶんのパンケーキも頼んでたよ?」
 ナハトは眉をひそめる。
「……何故だ」
「さあ? あの子なりに気を遣ったのかも」
「なんのことだ」
 リヒトはそれ以上何も言わず、バルコニーを後にした。
 ナハトは壁にもたれ、ため息をつく。
 ――パンケーキ、だって? 「戦争」の後に?
「…………」
 ふう、と吐き出す、紫煙ですらない吐息。
 結局は羨ましいだけなのかもしれない、とナハトは思った。現存する唯一の「戦場」を支配できる「PCC」が、その存在が羨ましい。
 今俺にできることは、レインを護ること――それだけが、「戦場」と繋がるための唯一の方法。
 そのためいに、さしずめ今俺のなすべきことは。
「……パンケーキを食べること、か?」
 ナハトの疑問符に応えるものは、ただ底抜けに明るい空ばかりであった。