Nebenwirkung
深夜、とあるハイクラスホテルの、最上級スイートルームの一室。
足元を照らすわずかな灯りの中、ナハトはじっと目を開けている。眠れないのではない。眠ろうと思えばいつでも、どこでも眠ることができる。それは彼ら傭兵――元傭兵たちにとっては必須の技能であった。その彼が眠らずに起きているのは、今彼が眠ってはならない時間だからに他ならない。ナハトが起きている分、リヒトは眠っている――先程までとちょうど反対だ。彼らは一晩中、代わる代わる仮眠をとってこの部屋の警備に当たるのである。
ナハトとリヒト。元は傭兵であった彼らふたりは、この部屋に寝泊まりしている「擬似戦闘指揮官」の護衛だ。人命が資源であると見做されるようになった昨今、戦場は仮想現実の中へと追いやられた。その戦場――「擬似戦闘空間」で仮想の軍隊をを指揮する役割を担っているのが、各国に数名程度存在すると言われている「PCC」である。その存在は国家戦略上の最重要機密であり、時に暗殺者によって付け狙われる彼らの生命は、国家の威信をかけて守護される――ナハトは小さく鼻を鳴らした。何のことはない、「PCC」はヴァーチャルでもリアルでも、戦場にいるというだけのことなのだ、本人たちがそうと自覚しているかどうかはともかくとして。そのことを、ナハトはこの任務を通して知った――だからこそ、彼はまだここにいるとも言える。
「…………」
闇に響いたわずかな物音に、ナハトは素早く視線を動かしたが、すぐに全身に漲らせた緊張を緩めた。
その一瞬の後、リヒトの眠る側ではなくメインのベッドルームに通じるドアが開いた。人工的なまでに赤い髪、そして同色に塗られた爪。レインだ。その見た目は、いささか派手なだけのティーンエイジャーであって、この子供がその「PCC」であるとは、誰も夢にも思わないだろう。
トイレか、などとナハトは聞かない。別にデリカシーに配慮したわけではなく、興味がないだけだ。この子供は確かにナハトの護衛対象だが雇い主ではないし、たとえ雇い主であったとしても彼は特に興味を抱かなかっただろう。
彼の気を引くものがあるとすれば、それは――。
レインはナハトに声を掛けるでもなくぺたぺたと素足で床を歩いて移動し――これが彼の相方のリヒトならば、「足の裏が汚れるよ」とでも声を掛けるのだろうが、あいにくナハトにそのような愛想はない――ナハトの前を横切って、ミニバーカウンターからミネラルウォーターのボトルを取り上げ、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。一連の動きに、迷いはない。
「……夜目がきくんだな」
声を掛けたのは、ただの気まぐれだった。案の定、レインも話しかけられるとは思っていなかったようで、驚いたように振り返る。やめておけばよかったか、とナハトは悔いた。しかし、もう遅い。
「別に、そういう訓練を受けているわけではないけどね」
ナハトはため息混じりに、だろうな、と言った。レインが戦闘に関しては――いわゆる近接戦闘に関しては完全に素人であることくらい、今までの道中で良くわかっている。身のこなしも立ち居振る舞いも、訓練を受けた人間のそれとはまったく異なっている。リヒトの、相手に漬け込ませるためのわざとらしい隙のある動作とは違う。そもそも、基礎体力もない。何しろ、この子供ときたら時にボトルの蓋が開けられないと彼らに頼むほどなのだから。
「…………」
レインは厚いカーテンに遮られた窓の方に顔を向け、無表情でじっと停止している。その赤い眼は、ほとんど瞬きもしていない。
「……どうした」
「夜目がきくのは、ただの副作用だよ」
レインは突然、ぽつりと言った。ナハトはわずかに息を呑む。
「……副作用?」
「…………」
レインは短い沈黙を挟み、やがて再び口を開いた。
「何故、私のような子供が『PCC』なのか」
「…………」
「不思議に思わない?」
「…………」
ナハトは答えない。レインが何を言いたいのか、彼にはわからなかったし、このままわからないほうが良いのではないかとすら思っていた。しかし、レインの言葉は止まらない。
「何故、本来戦争の素人であるはずの私が『PCC』に選ばれているのか……」
「俺には関係のないことだ」
ナハトのそのセリフは、闇の中にまるで強がりのように響いた。レインが小さく笑う。
「それもそうだね」
「……今は、違うだろ」
ナハトは躊躇いがちに、言葉を足した。レインが振り返る。夜と混じり合って深みを増したその紅の眼差しが、じっとナハトに注がれている。ナハトは小さく咳払いをした。
「なにが、違うの?」
「今はもう、素人じゃないだろ」
「…………」
レインは黙って目を瞬いた。ナハトは己の膝に視線を落とす。
「お前がどんなつもりかは知らんが、お前はもう素人じゃない」
――少なくとも、お前を付け狙う暗殺者どもはそう思ってはいないし、お前を俺たちに保護させている政府だってそうだ。
「……ナハトは?」
「なぜ俺が、無価値な素人を警護すると?」
「それが依頼なら、するでしょう」
――それはその通りだ、しかし。
ナハトはその薄い口元に笑みを浮かせた。
「餌は、美味い方がいい」
「餌?」
訊き返してから、レインは小さく噴き出した。
「なるほど」
――私は敵を釣るための餌ってことか。ナハトが、己から奪われた戦場に戻るための。そして、その戦場に在り続けるための。
「…………」
少し喋り過ぎた、とナハトは口を噤む。
「……そうだね、」
とレインは、気を悪くする様子もなく笑いながら言った。
「私が強くなればなるほど……戦場で活躍すればするほど」
――きっと、より強力な暗殺者が差し向けられるだろう。
「それと戦うのは、斥けるのは」
――貴方達の仕事、ってわけ。
「……ああ」
ナハトは低く、唸るように頷いた。
「それが」
俺の――。
――そのとき、カチリと部屋の鍵の解除される音がした。かすかな音である。しかし、ナハトは聞き逃さなかった。すぐに腰を浮かせる。その口元に笑みの浮いたことを、彼は自覚していない。
訝しげな顔をしたレインの腕を引っ掴み、ナハトはソファの影に身を隠す。利き腕は腰に下げたナイフへ。同時に、眠っているはずのリヒトを起こすためのアラートを送信。
このフロアは、最高級のセキュリティシステムの支配下にある。声紋と虹彩認証、パスコードを組み合わせたロックの内側に自由に出入りできるものは彼ら三人以外にはいない。ルームサービスやベッドメイキングはプライベートコンシェルジュサーヴィスが担当し、その場合のアンロックも部屋に客である滞在者、つまり彼らがいる場合は内部からのみ可能である。無論、今はそもそもオーダーなどしていない。
――すなわち、その意味するところは。
「どうやって……」
同じことに考え至ったのだろう、レインがかすかに呟いた。その口元を、ナハトは軽く抑える。レインの声からその居場所を特定されることを防ぐためだ。
セキュリティシステムを突破したのか、それとも何者かを買収したのか。それはわからない。その検証はナハトの仕事ではない。後ほど、担当のものがゆっくりとやればいい。まずは――敵を斥けてから。話はそれからだ。
音も立てずにさっと扉が開き、闇に混じって黒ずくめの男たちが数名、飛び込んでくる――
「はい、いらっしゃい」
その場にそぐわぬ穏やかな声。
いつの間に身を潜めていたものか、扉の影、壁際に佇んでいたリヒトがナイフを閃かせた。先頭の男の頸部を切り裂き、水鉄砲のように血が噴き上がる。男たちの間にさざなみのように動揺が広がった。
「動くな」
レインに短く言い渡し、ナハトは身を屈めていたソファの影から飛び出した。身を低くして突進し、一人の男の腰に体当たりをして体勢を崩させ、壁に押し付ける。至近距離で向けられた銃口に臆することもなく、彼は鳩尾に膝蹴りを叩き込み、たまらず前屈みになったその顔面にさらにもう一発。崩れ落ちた体には見向きもせぬまま、落ちた銃を部屋の奥へと蹴り飛ばす。ナハトは振り向きざま、ナイフを握る男の手首を肘で弾いた。そのまま懐に飛び込むようにして男に背を向ける――足の甲に踵を踏み降ろした。ばき、と軽い音と骨の砕ける感触。ゆるんだ掌からナイフを奪い、振り返って男の眼窩に突き刺す。
絶叫。
「うるさい」
ナハトはつぶやき、辺りを一瞥した。リヒトを除いて、もはや部屋の中に立っている人間はいない。
「まったくだよねえ、こんな深夜に」
リヒトは微笑む。その足下には血溜まりが広がっていた。起き出したばかりの癖に、その艷やかな黒髪には寝癖のひとつもない。
「レイン。終わったぞ」
息のあるものを手早く拘束したナハトは、その名を呼んだ。
「…………」
しかし、返事はない。
「レイン?」
まさか、とナハトは思いつつもやや急いでソファの奥に回り込んだ。背を屈ませ、俯いているレインの顔を覗く。
「…………」
「生きてる?」
特に緊張感もなく呑気に尋ねてくるリヒトに、ナハトは頷いた。
「……寝ている」
確かに、レインは寝ていた。膝を抱え、体を丸めて……すうすうと寝息を立てている。
「なかなか図太いね」
苦笑するリヒトに、ナハトは肩をすくめる。――こいつも、お前には言われたくないだろうよ。
「慣れたんだろ」
「……いやな慣れだなあ」
「…………」
ますますお前の言えたことか。いや、俺もだが。
このまま座らせておくわけにもいかない。ナハトはあたりで適当に手についた返り血を拭い、その小柄な身体を抱え上げた。未熟な、少年のようにも少女のようにも見えるその肢体。
ナハトはそれをただ静かに見下ろしている。
――ただの副作用だよ。
――何故、私のような子供が「PCC」なのか。
知ったことか、と彼は思った。
とにかく、俺はお前を護衛しなければならない。命を懸けて――全てを懸けて。それが、俺の仕事だ。
小さな体は、まるで死体のようにぐったりと力ない。それでも、体温はナハトのそれよりも少し高いし、かすかながら寝息も聞こえる。これは死体ではない。人形でもない。生きている。
「本当、よく眠っているねえ」
リヒトが肩をすくめながらレインの無表情な寝顔を一瞥し、ベッドルームのドアを開けて両手の塞がったナハトを通した。
「…………」
やわらかなクイーンサイズのベッドに横たえても、レインは少しも身じろぎしなかった。その子供の見る夢を、ナハトは知らない。知ろうとも思わない。
お前を付け狙うものが何であっても、俺は必ずお前を守ってやる。
――そこに、戦場がある限り。