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Krankenhaus

 広々としたその部屋は、一見したところ病室には到底見えなかった。しかし、奥に置かれたパイプベッドとその脇に吊るされた点滴、電子音と波形を絶えず吐き出し続けるモニター、何よりそこに眠る男の顔色が、その部屋の本質を思い出させる役目を果たしている。
 もともとは付き添いの者が眠るためのものなのだろう、ソファベッドにその小柄な身を預け、レインは毛布をすっぽりとかぶっていた。少年とも少女ともつかない未熟な骨格、人工的なまでに鮮やかな赤毛。今は毛布に隠れているが、手足の爪も同じ色に塗られている。
 部屋にはもうひとつ椅子があって、そちらには男がひとり、腰掛けていた。夜も遅い時間であるが、少しも眠そうにはしていない。ベッドに眠る男を起こさぬためか、彼は低く囁くような声で言った。
「不便を掛けるね、レイン」
「別に」
 レインは首を横に振る。
「ナハトが怪我をしたのは、私を庇ったからだし」
 日中、彼らは十名弱の暴漢に襲われた。レインを狙った襲撃そのものは珍しいことではないが、いつもよりも少し相手の人数が多かった――何とか退けはしたが、数名には逃げられてしまった。今病室で眠っている男、ナハトがレインを庇って負傷したのは、その時である。幸い彼は上手く受け身を取って軽傷だった。ただ、ひどく頭を打ったせいか嘔気が続くというので、大事を取ってこの病院のVIPフロアに一晩入院することになったのである。
 男は淡々と言った。
「そのことなら気にする必要はないよ」
 君を守ることが僕らの仕事なのだからね。
「……リヒトも」
 レインが膝を抱えて呟く。
「私の身代わりになってくれるってわけ?」
「もちろん」
 蜜色をした瞳をとろりと細め、リヒトと呼ばれた男は微笑んだ。
「それが僕らの仕事だから」
「矛盾していない? 仕事は、業務と報酬によって成り立つんだよね」
 レインは静かに指摘した。
「いくらそれが仕事だといっても……例えば、もし私をかばって命を落としたとするでしょう? そうしたら、その仕事に対しての対価は受け取れないわけだよね。割に合わないんじゃないのかな」
「何を今更。別に、報酬は後払いと決まった話でもないだろう?」
 レインはその赤い目をぱちぱちと瞬いた。
「ええと、つまり二人は既に命を買われているということ? 前払いで?」
「そういうこと。無論、この任務を継続している間に支払われる分もあるけれど……まあ、要人の護衛なんていうのはそういうものだから」
「じゃあ」
 レインは尋ねた。
「今までリヒトの護衛した人は、全員無事だった?」
 リヒトが生きているのだから、理屈上はそうでないとおかしい。無論、全ての任務に成功してきたならば、という条件付きではあるけれども。
「…………」
 リヒトは、特に表情を変えることもなく小首を傾げた。
「レインは、僕を信用していないのかな?」
「そういうわけじゃない」
 レインは眠るナハトの顔に視線を投げた。
「ただ……」
 私には、よくわからないだけ。
 立てた膝に掛けた毛布に深く顎を埋め、レインは呟く。
「命で、命を庇うということ。よくわからない」
 確かに、今更だとは思う。だが、今まで彼らの闘う姿は見ていてもあからさまに庇われることはなかったし、彼らの負傷する姿もほとんど見たことはなかった。彼らは強い。きっと、かつて戦場があった頃は傭兵としても非常に優秀だったのだろう。
「改めて――しかも他でもない君に、言うまでもないことだけど」
 リヒトは淡々と言う。
「命は不可算名詞ではないから」
「それはそう。わかってる」
 レインは頷いた。レインは今、この世界での「戦争」を一身に担う「擬似戦闘指揮官(PCC)」なのだから、そのくらいのことはわかる。より多くの命を、兵士を救うために少数は犠牲にする。大を生かして小を殺す。レインはそんなことに躊躇いを覚えはしない。だが、レインが「擬似戦闘空間(ヴォイド)」で扱っているのはすべてヴァーチャルだ。本物ではない。あくまでも、全ては「ヴォイド」の中での擬似兵士たちの生死であって、現実の生命ではない。
「でも、ナハトの命はひとつ。私のもひとつ。でしょう? 数えたなら同じになるよ」
「重みが違う」
 リヒトはあっさりと言い放つ。
「命は可算名詞だけど、イチ足すイチはニじゃないし、イチ引くイチもゼロじゃない。君は――まあ全部で何人いるかは知らないけど、いずれにせよ数限られた、選ばれたPCCだ。君の替わりは、そう簡単にはいない。僕らはそうじゃない、たかだか流れの傭兵崩れさ。いくらでも替えがきく。僕らとレインの命は、決して等価じゃないよ」
「…………」
「だろう?」
 リヒトは決して卑下しているわけでもないし、必要以上にレインを持ち上げようとしているわけでもない。ただ、彼は「事実」を口にしているだけなのだ。しかしレインは、……。
「レイン」
 リヒトが、不意に名を呼んだ。その柔和な顔からすっと表情が消える――まるで刃物のように怜悧な眼差しが、そこにはあった。
「三秒後、ベッドの下に飛び込んだらそこでじっとしていて。いいと言うまで動かないで」
「わかった」
 レインは即座に頷く。理由は聞かない。聞く必要もない。聞かなくてもわかる――
「三、」
 リヒトがカウントダウンを始める。
「二、」
 レインは毛布を掴んだままソファから立ち上がり、身を低くして床を転がった。ベッドの下のスペースに体を丸める。
「一、」
 そして、ゼロを告げるリヒトの声の代わりに、口笛ひとつ。
 それをかき消すように、ガラスの砕け散る音が聞こえた。

「そっちも大変だよねえ、本当はこんな少人数、爆弾のひとつでも使えばあっという間に殺害できるのにさ」
 強化窓ガラスを破って入ってきた、「(モイゼ)」は四人。屋上から降りてきたようだな、とリヒトは思った。窓の外に、頭上から垂らされた縄が見える。
「或いは機銃掃射とか、ねえ? 狭い一室に立て籠もっている相手なんて、こちらの身を危険に晒すことなく楽に殺せるはずのに」
 「包括的三次元軍事行動禁止条約(CTCBT)」が、それを赦さない。結果、こうして原始的な殺し合いが行われるわけだ。命を賭けなければ、命を奪うことはできない――そういう仕組みともいえる。見方によってはフェアかもね、とリヒトは笑った。その手には馴染んだ大振りのダガーが二振り。
「とはいえ」
 ――所詮、僕らも君も、替えのきく安い命に過ぎないのだけど。僕らはいわば、消費される命。
「そう安く売る気はないけどね!」
 二人の男が左右から彼を挟み、息を合わせて飛び掛かってくる。リヒトは大きく跳び下がり、先程まで彼が座っていたパイプ椅子を片側の男の脛に向けて鋭く蹴り飛ばした。もう片方の振るうナイフを躱し、腕が伸びたところを掴んで捻り上げながら投げ飛ばす。その先には三人目の男。リヒトは椅子で動きを止めた男に向き直り、ダガーの先端でその頸動脈を掻き切った。
 勢いよく噴き出す赤で、白い部屋に出鱈目な模様がはしる。リヒトはその返り血を頭から浴びながら、声を殺して笑った。
 四人目の男はナハトの眠るベッドの上に飛び乗った。ナイフを振り被り、その胸に向かって振り降ろす――。
 その身体が突然、水平方向に吹っ飛んだ。その先にいたリヒトが、おっと、とそれを避け、ついでとばかりにダガーを一本、その腹に落とし貫く。
 あと二人。
「おはよう、ナハト」
 脳天気なリヒトの呼びかけを無視し、ナハトはベッドから降りるやいなや点滴棒を引き抜き、ひとりの男の頭上からそれを叩きつけた。先程、ベッドに登った男の腰を蹴り飛ばしたのもナハトである。その顔色は既に平常通り、さほど悪くはない。
 残りの一人の構えた銃口にリヒトがダガーを突き刺し、大きく一歩踏み込んでその鳩尾を拳で抉った。胃液を撒き散らしながらもんどりうって倒れる、その男をリヒトは手早く拘束する。
 ナハトはそれを横目に見ながら腕に刺さっていた点滴の内筒針を自ら抜き去り、手早く止血処置を施した。
「おやおや、勝手なことを」
「ふん」
 割れた窓の外に広がる夜闇と同じ群青色の瞳を眇めつつ、ナハトは鼻を鳴らした。
「不要だ」
「まあね」
 わざわざ病室に留まった理由、それは日中に逃がしたモイゼの残党を誘き寄せ、狩るためだ。ナハトの嘔気など口実に過ぎない――病院関係者をも欺くため。情報はどこから漏れるとも知れない、たとえその者が内通するつもりなどなくとも。
「あ、そうだ」
 リヒトは手をぽん、と打った。
「レイン、もう出てきてもいいよ」
「…………」
 ベッドの下からのそのそと這い出してきたレインは、血でひどく汚れた病室を眺めると呆れたように肩をすくめた。
「また派手にやったね」
「地味にしろとは言われていないからな」
 ナハトがぼそりと返答すると、レインはその赤い目でじろと彼を見上げた。
「元気そうで何よりだよ」
「は?」
「レインはね、ナハトが自分を庇って怪我をしたって少し気にしていたんだよ」
 リヒトが口を挟む。ナハトは怪訝そうに首を傾げた。
「それが仕事だ。気にする必要はない」
「ね? レイン、僕もそう言っただろう」
「…………」
 レインは答えず、溜め息をひとつついた。それと同時に欠伸も出る。そろそろ夜も明ける頃だろう。
「行こう」
「ああ、そうだね」
 と、リヒトは政府への連絡用端末を取り出した。恐らく、襲撃者の後始末と病院への補償を要請し、次の行先への指示を仰ぐのだろう。こんな時間でもちゃんと担当者は待機しているんだな、とレインはぼんやり思った。

 返り血塗れの男二人とその同じ色をその身に宿した子供は、病院地下の駐車場に止めた車へと向かった。
「ねえ」
 後部座席に腰掛けたレインがぽつりと言った。
「もしナハトかリヒトが敵にやられたとして、私が助かったとしたら――だけど」
 ナハトはシートベルトを締めながら、特に聞いている様子もない。
「でも替わりに来るのは、同じ人じゃないんだよね」
「そりゃあね」
 隣のリヒトが笑う。
「僕らはそのへんのスーパーで売ってるくまのぬいぐるみってわけにはいかない」
 ロット生産されているわけじゃないからね。
「…………」
 黙ったレインに、車を発進させたナハトが鋭い声を掛けた。
「余計なことを考えるな」
「余計なこと?」
「お前は戦争のことだけ考えていればいい」
 ナハトはつぶやく。
「そうだろう?」
「じゃあ」
 レインは問う。
「ナハトは何を考えているの?」
「俺か? ……俺は」
 バックミラーに映るその口元が、かすかに歪んだ。
「戦場のことだ」
「…………」
 レインはそれ以上何も聞かず、そしてリヒトにも尋ねようとはせず、車窓の外を眺めた。
 夜が明ける。
 朝が来る。
 私はまだ、生きている――。
(戦争の為に)
 レインは皮肉に口元を歪めた。
(つまりは、殺す為に)
 だが、いつかもしリヒトかナハトが自分の世界から居なくなってしまったら、それはきっとがっかりする出来事だろう。それでも尚、何事もなかったかのようにレインは戦い続けるのだろうか――「ヴォイド」に身を投じ、敵を撃ち破り続けるのだろうか。きっとそうだろう。それがレインの「仕事」で、レインの「役割」だから。レインは「PCC」なのだから。
 でも、それって何の為だろう。
 私は、何の為に――。
「レイン」
 リヒトが静かに名を呼んだ。
「少し、眠るといい」
「……そうだね」
 レインは素直に頷く。そうだ。余計なことは考えない方がいい。考えてもどうせ、答えは出ない。
 白い思考の壁紙の上を、ランダムに奔る赤。白い病室を彩った無秩序な血痕を想いながら、レインは静かに目を閉じた。