Kinder
唐突に車が揺れ、がくんと傾いた。ハンドルを握っていたナハトは即座に事態を把握したのか、舌打ちしながらもハザードを点灯させつつ路肩に車を寄せ、停止させた。
車窓の外をぼんやりと眺めていたレインは隣のリヒトにぐいと腕を引かれ、頭を下げる。
「なに? 敵?」
今ひとつ緊張感のない様子で聞き返すレインに、リヒトは負けず劣らず落ち着いた様子で、そうだね、と答えた。
「タイヤを撃ち抜いてパンクさせられたのかな」
「どこから――」
「さあ」
ナハトが吐き捨てる。リヒトが肩をすくめた。
「こんな公道で、目立ったことはできないはずだけどねえ」
――民間人の目の前での戦闘行動は、基本的にご法度だもの。
「…………」
レインはその人工的なまでに赤い瞳で、ちらと外に視線をやる。特殊な防弾加工がされているとはいえ、パワーウィンドウ一枚で隔てられた内と外。
しばらく待っても、追撃はない。
「俺たちが外に出るのを待っているのか?」
ぼそりと呟くナハトに、リヒトは首を傾げた。
「どうだろう……あたりに怪しい気配はないよね?」
「ああ」
ナハトは肯く。
「遠隔から狙撃するつもりかな」
「かもしれんが……」
だとするならば、ここからは出ないほうがいい。しかし、いつまでも車内に閉じこもっているわけにもいくまい。替わりの車を要請して、届くまでどれくらい掛かるだろうか……そう考えて、ナハトはふと気付いた。彼は、彼の雇い主である「国防省擬似戦闘管理部」の内部のことなど何も知らない。彼の仕事は「疑似戦闘司令官」であるレインを護衛することで、それだけを知っていれば基本的には事足りる。彼が傭兵であった頃も同様だった。味方については、あまり知る必要がない。彼が知らなければならないのは、倒すべき敵の方だ。味方については、あまり知ってもろくなことはない――。
「本当に狙撃かな?」
リヒトが不意に言った。ナハトはバックミラー越しに彼の顔を見る。
「どういうことだ」
「ここ、市街地だよ」
リヒトはその指の背でこつこつ、とウインドウを叩いた。その向こうには、市民の行き交う街並みがある。
「例えばここから出てきた僕らが、何者かに狙撃されて死ぬとするだろう。大騒ぎになる」
「まあ、確かに……」
先日、移動遊園地で襲撃を受けたことがあった。あれは人混みに紛れることで、かえって狙撃の瞬間をひとに目撃されにくくする意図であったろうし、混乱に乗じて事態そのものはうやむやになってしまった。しかし、今回はごく普通の市街地である。日常生活を送る市民の目の前での殺害行為は、暗殺といえる範囲をやや逸脱するといえるだろう。それは、重大な「包括的三次元軍事行動禁止条約」違反となる。
「じゃあ、事故か?」
たまたまタイヤがパンクしたとでもいうのか。半信半疑で問い掛けたナハトに、リヒトは苦笑した。
「それはわからないけど――でも、可能性はあるだろう? 故意に仕組まれた事故である可能性もあるけれど、ね」
「…………」
ナハトは思考を巡らせるように口を噤んだ。
「少し、車外を見てくるよ。僕がやられたらあとよろしく」
リヒトは冗談でもない様子でそう言うと、ドアを開けてその長身をするりと外に出した。レインはそれを黙って見送る。
ナハトは小さくため息をついて、そして本部に報告を送信する――「タイヤ故障につき走行不能。状況は確認中」即座に返答があった。「了解。敵襲に注意されたし」
注意ならしている、とナハトは思った。それが俺たちの仕事だ。
戦場を失った――或いは奪われた、傭兵であったはずの俺たちは、こんな形で今なお戦争にしがみついている。誰かに命を狙われつつ、誰かの命を奪わっていなければ、生きてはいけないのだとでもいうように。
ナハトは辺りを注意深く観察した。特に変わったところはない――頭上に茂る街路樹、歩道を足早に歩く勤め人らしき男女、ベビーカーを押して歩く若い母親、杖をつきゆっくりと進む老人。無邪気な声を上げて駆け回る子どもたち。
――異質なのは、俺たちだ。
「原因はわからないね」
車内に戻ってきたリヒトが、長い脚を窮屈そうに折り畳みながらそう言った。
「タイヤの穴は見つかったけど、銃痕ではなさそうだった」
「何か踏んだのかもしれんな。……代車を待つより、タイヤを替えるほうが早いか?」
ナハトの提案に、リヒトはわざとらしく顔をしかめてみせた。
「うわあ、力仕事は嫌だなあ」
ナハトは無視してナビゲーションを動作させた。周囲にあるパーキングを確認する。レインが尋ねた。
「ねえ、私も外に出てもいい?」
「いいけど、離れないでね」
リヒトの返答に、こくり、とレインは肯いた。
パンクしたままの車を、空きのあるパーキングに移動させる。ナハトとリヒトは車外に出て、てきぱきと作業を始めた。リヒトはああ言っていたが、実のところ慣れた作業ではある、二人がかりなら数分以内に終わるだろう。
レインはふたりから数メートルほど離れたところで、ぼんやりとその作業を見守っている。ジャッキアップされた車体が、レインの顔に影を落としていた。
不意に、甲高い声が響く。
「わあ、すっごいきれいな色!」
レインは驚いて振り返った。そこにいたのは、幼い兄妹であった。兄はロウティーン、妹は十にもならないくらいだろう。妹は口をぱくぱくと開閉しながら、レインの赤い髪を指差している。
先ほどの声を上げたのは兄の方らしいが、まだ声変わりもしていない。
「まっかっかだあ。トマトみたい!」
「あたしはいちごだと思うわよ、お兄ちゃん!」
「……ええと」
レインは面食らったようにふたりを見下ろした。
「君たち、なに?」
「なにって?」
きょとんとした顔で聞き返され、レインは口ごもった。――確かに、何、と言われても困るか。
ちらとリヒトとナハトの方を見遣る。タイヤの交換は既に終わったようで、ナハトが何事か端末で連絡をとっているのが見えた。行き先のホテルが変更になるのだろうか、それともまた別のトラブルか。リヒトはレインの視線に気付いたようで、にこりと笑みを返してきた。まあ、何にせよレインの心配することではない。レインの身の回りのことは、何ひとつレインの自由にはならないのだから。全ては、あのふたりの――その雇い主である政府の手の内にある。
基本的に仏頂面のナハトと、変わらぬ笑顔のリヒト。だが、ふたりの本質は非常に似通っている――彼らは兵士だ。レインが「擬似戦闘空間」で動かすのと同じ、与えられた任務の為の最適解を導き出し、その通りに行動する。ヴォイドにいる仮想の兵士より、彼らはよほど優秀だろうけど……、とレインはぼんやり思った。
「ねえ、名前なんていうの?」
「え?」
兄妹のつぶらな瞳に見つめられ、レインは思わず言葉に詰まる。そういえば、ナハトとリヒトを除いて、滞在するホテルに勤めるホテルマン以外の人と会話を交わした記憶は久しく存在しない。
名乗ってもいいのだろうか。レインの名自体は、「PCC」として公に知られているわけではない。そんなリスクを政府が冒すはずがない。しかし、レインの命が常に狙われているのも事実である。
戦争を禁じた「CTCBT」後の世界において、架空世界における戦争を指揮し、勝利を期待される存在――「PCC」。まるでビデオゲームのようだと揶揄されるような戦争であっても、国際条約上それは戦闘行為であり、戦線の状況によってその講和条約は勝者にとって有利なものに、敗者にとっては不利なものに姿を変える。各国は優秀な「PCC」の育成に血眼になっており、さらに国家によっては秘密裏に他国の「PCC」の暗殺に乗り出してもいるのだった。無理もないことだ、とレインはどこか諦めのような気持ちでそう思う。結局、弱いものは強いものに喰らわれるのだ。その競争のフィールドをどう置くか、手駒を何にするか、それが変わるだけ。自然の摂理は、変わらない。
「れ……」
レインは口ごもりながら、名乗った。
「レッド、だよ」
「名前に合わせてるの?」
その、髪と目の色。爪もだよね? 無邪気に問う幼い兄妹の眼差しが、痛い。こんな小さな子供と語るような言葉を、レインは持ち合わせていない。
レインは目を背けた。落ち着かない。
「私、もう、行かなきゃ。だから――」
「そっかあ」
兄が肯き、妹が微笑んだ。
「じゃあ、仕方ないね」
――ばいばい、レッド。
すっと差し出された兄の手に、レインは自分の手を重ねようとして――はっ、と身を引いた。
なんだろう。嫌な予感がする。
「レッド?」
レインの、本当の名ではない名が呼ばれる。レインは呟いた。
「違――」
「はい、よくできました」
不意に、聞き慣れた低い声が割り込んだ。
いつの間に接近していたのか、リヒトがレインの真後ろに立っていて、少年の額に銃を突き付けている。
――ぱん、
と、冗談のように軽い音。
額に空いた穴から血を噴き出して、少年は倒れる。その、レインに差し出したのと反対側の手には――銃が。
「え――」
その場で動けなかったのは、レインただひとりだった。
幼い妹の少女はぱっと身を低くして、懐に手を入れようとする。その目には、明らかな殺意の光。
「させねえよ、」
ナハトの声。少女は絶叫した。その手首から先が、乾いたアスファルトに落ちる。夥しい量の血が、滝のように袖口から滴り落ちた。
ナハトは兄妹の背後に回り込んでいて、その手には大振りのナイフを握っている。その刃は、禍々しくも真っ赤に曇っていた。
「あ……あぐ……」
「自爆スイッチを押そうとしたんだろうけど、遅かったね」
リヒトが同情のかけらもない声音でそう言った。ナハトが注意深く身を屈め、失血のせいか真っ青な顔の少女を拘束しようと試みる――。
「いや」
ナハトは呟いた。自害したな、と続けるのを聞いて、レインは目を見開いた。
「死んだの」
「自分で、だ。毒か?」
ナハトはそのか細い腕の脈を取り、確認する。
「身元を暴かれるのを恐れたか……」
「こんな小さな子が……?」
呆然と呟くレインに、ナハトはちらと冷ややかな眼差しを向ける。
「少年兵ってやつは、昔からの定番なんだよね」
リヒトは少年の頭を撃ち抜いた銃を懐にしまいながら、そう言った。
「どうしても子供の見た目だと油断してしまうだろう?」
今の君みたいにね、と責めるでもなく淡々と告げられる。
「それに、体型が小柄だからいろんな場所への潜入や身を隠すにもいいし、飲み込みも早い。兵士にするには向いてる」
「……無論、表向きは禁じられてはいるんだがな」
ナハトは地面に横たわるふたつの亡骸を見下ろすレインの視線を、その大きな手でそっと遮った。――血の臭いのする手。
「……同じだ」
レインは呟いた。
――戦争は禁じられている。だが、たしかにここに兵士はいる。リヒトとナハト。そして――そして。
私の周りが、戦場となる。――私を殺すための兵士と、私を守るための兵士が集うから。
戦場はここに、現実にある。
「ここの片付けは、担当に任せておけばいいよ」
リヒトはなんでもないことのようにそう言った。ああ、彼にとってはこれも日常なのだ、とレインはわずかに慄然とする。
「早くしないと、レインの戦争の時間が来るだろう?」
「……う、うん」
レインは肯く。確かにそうだ。早く新たな居室に落ち着いて、体調を整え、擬似戦闘空間にアクセスする準備をしなければならない。戦争の為に――現実から戦争を失くした、その対価としての擬似戦闘を。
戦争を失くした?
レインは首を傾げる。
本当に?
「――殺さずに拘束することはできなかったの?」
車に乗り込みながらレインがそう言うと、リヒトはくすりと笑った。同情しているのかい? と問われ、レインは首を横に振る。――多分、これは同情ではない。ただ、幼い子供たちがあっけなく殺された不条理への、怒りにも似た苛立ち。
「そうだね。僕とナハトしかいなかったら、それも可能だっただろうね」
「……どういうこと?」
「優先順位の問題さ」
戦争に強い君にならわかるだろう? とリヒトは言う。
「僕とナハトが負傷する程度のリスクなら、ね――あの小さな暗殺者たちの身元を割るためには、侵す価値があるだろう。つまり、得られる情報に見合ってるってことだ」
でも、とリヒトは続けた。
「君の身は危険に晒せない。それは僕らへの絶対の命令だから」
「…………」
レインは、そう、と小さく言った。ハンドルを握るナハトが、ぼそりと呟く。
「そういうもんだろ。戦争ってのは」
――戦場とは、そういうところだ。
「…………」
たとえそれが子供であっても、武器を持参して現れれば兵士として見做し、倒すしかない。
「レインがヴァーチャルで吹っ飛ばしてる兵士たちに、子供が混じっていないといいねえ」
やや皮肉っぽく言うリヒトに、レインは冷ややかに答えた。
「私の殺すのはただのデータ。ゼロとイチでできた、デジタル。そんなものに、子供も大人もないよ」
「本当にそうか?」
ナハトは前を向いたまま言う。その表情は、バックミラー越しには伺えない。
「ほんとうに?」
「…………」
レインは答えなかった。
ナハトはそれ以上問わない。リヒトはのんきに鼻歌を歌いながら、先ほど発砲した銃をその両手に弄んでいる。
――何故、あの幼い兄妹は兵士となったのだろう。誰にそれを強いられたのだろう。誰が、彼らにそれを強いたのだろう。
「あの子たちは、私を殺す為に……」
レインは呟く。傍らのリヒトはそれを聞いているのかいないのか、特に何の反応も返さなかった。
――彼らを兵士にしたのは、私?
「…………」
だからといって、おとなしく自分が殺されていれば良かったとは思わないし、思えない。そうなったとしても、別の「PCC」が選び出されて、またその「PCC」の命が狙われるだけなのだから。「PCC」を殺害するために、また暗殺部隊が作られる。
つまり、そういったこの世界こそが――
「……戦場、か」
レインは呟く。
――本当の戦場は、ヴォイドの中にはない。あれは所詮仮想に過ぎなくて、本物は――本物の戦場は。
この、世界だ。
真っ赤に染まった幼い躰を脳裏に浮かべながら、レインはその眼を閉じた。