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 広々としたホテルのエクゼクティブ・スイートの一室には、淡々とニュースを読み上げるアナウンサーの声が響いている。タオルでそのサンディブロンドの髪を手荒に拭いながら、ナハトは後ろ手にシャワールームのドアを閉めた。ソファには見慣れた男の姿があって、うっすらと微笑みながらモニターを眺めている。
『――……が連合軍との停戦合意に達したと表明しました』
「停戦?」
 ナハトはその語句に反応し、声を上げる。ソファの男――リヒトが、ちらとその蜜色の眼差しを彼に投げた。
「そう。『包括的三次元軍事行動禁止条約(CTCBT)』が発効してから、初めての事例だそうだよ」
「…………」
 ナハトは黙って目を細める。

 ――いつ頃からか、戦争は国家の間で起こるものではなくなっていた。
 かつては領土や資源を巡って、国境をせめぎあって、国家間、或いはそれ未満の部族間で行われていた戦闘行為が、いつしかその意味合いを薄れさせ、その代わりとでもいうようにテロリズムが台頭してきたのだった――テロでは領土は拡がらない、国境は動かない、資源も手には入らない。だが、それが「戦争」の主流となっていったのは事実だった。争いの種は、もはや物質ではなくシステムだった――政治のシステム、或いは宗教のシステム、経済金融のシステム。テロリストのシステムに対する要求が一体何なのか、そもそもどのシステムに対して戦いを挑んでいるのか。該当するシステムがテロリズムによって実際変容するものなのかどうか、それはナハトにはわからないし、興味もなかった。
 ――彼は、戦場にさえいられればそれで良かったのだから。
 ナハトやリヒトがかつて傭兵として駆り出されていたのは、テロリストたちの巣窟と目された場所の掃討戦が多かった。それは大抵山岳地帯や乾燥地帯などの、よそものを寄せ付けないような荒れた土地で、その地形はテロリストたちがゲリラ戦に持ち込むのに適していたのだろう。あの頃の戦争は、まるでモグラ叩きだった。テロリストの主張そのものは曖昧化しつつもその手段は先鋭化し、テロリズムに晒され得る地球上全ての場所が広義の「戦場」に呑み込まれていった――例の、「CTCBT」が発効するまでは。
 今は、「戦場」は現実(リアル)にはない。少なくとも、ないことになっている。「戦場」は仮想現実(ヴァーチャル)へと追いやられたのだ。

 ナハトはテレビ画面に目を遣る。読み上げられているそのテロリスト組織の名称は、彼にも聞き覚えのあるものだった。確か、彼らとは何度か戦闘を交えたことがある。むしろまだ存在していたのか、と小さな驚きをおぼえた。戦場を「擬似戦闘空間(ヴォイド)」に移して、あの組織はどんな風に戦っていたのだろう。戦争を続けていたということは、すなわち彼らもまた「擬似戦闘指揮官(PCC)」を擁していたに他ならない。しかし、「ヴォイド」では彼らお得意のテロ行為は不可能だ。では実際にどのような形で戦争が行われているのか、それは「PCC」ならぬナハトには知り得ることではない。
「……そもそも」
 ナハトの体のあちこちに残る古傷が、シャワーの熱を帯びてじくじくと掻痒感を滲ませている。彼は肩に腕を回して親指の爪でそれを軽く掻きながら、ぽつりと呟いた。
「よく彼らが『CTCBT』に従ったものだな」
「ああ」
 曖昧な表現ではあったが、リヒトにはすぐ通じたらしい。彼はわずかに振り向いた。
「テロリストらの使用する武器や弾薬、彼らが自給自足していたと思う?」
「……いや」
 ナハトは首を横に振る。
「密輸ルートがあった」
「そう。じゃあ、輸出していたのは?」
「…………」
 わかりきったことを聞くな、とばかりにナハトは口を噤んだままだった。リヒトもそれ以上に促すことはない。
 ――テロリストに安定して武器を供給し続けていたのは、テロリストの狙うシステムに浸かりその恩恵を受けているはずの企業らであった。それを、国家もまた見てみぬふりをしていた。
 軍需産業は、己の血を餌に肥え太る。
「『CTCBT』がうまくやったのは」
 リヒトは訥々と語る。
「まず、軍需産業を取り込んだことだね――彼らに『ヴォイド』という新しい市場を与えた」
 誰が、どういう取引をしたのだかはわからないけど――もしかすると、軍事企業側の何者かが自発的に開発した新技術を、国際社会に向けて売り込んだのかもしれない。
「そうして、そういった企業が現実の武器の製造を辞めて、『ヴォイド』の運営や維持に回ったとしたら――」
「『ヴォイド』へのアクセス権をテロリストたちにも与えたというのか」
「そうでなきゃ意味がない。だろう?」
 リヒトが、不意にナハトの背後に向かって声を掛けた。
「ね、レイン?」
 ナハトは振り向かない。気配なら、先程からそこに感じていた。
「そうだね」
 淡々と同意する、少年とも少女ともつかない声。その気配は素足のままぺたぺたと歩み寄ってきて、未だ上半身には何も身に着けず立ったままのナハトの隣を抜け、リヒトの座るソファのその隅に腰掛けた。リヒトが、靴を履かないと足が汚れるよ、と告げたがその子供はまるきり無視した。
 人工的なまでに赤い髪、赤い爪、そして赤い目を持つ彼らの護衛対象――すなわちこの子供こそ、「ヴォイド」にアクセスできる限られた人間のうちのひとり、「PCC」なのであった。

 レインは擬似戦闘から離脱したばかりなのだろう、その頬はうっすらと上気している。手にゴーグルを玩びながら、テレビ画面をその真紅の眼差しで睨むように眺めた。
「どういうことだ?」
 ナハトが尋ねると、レインはちらと彼を眺めた。口元を歪める。
「いい加減、服を着たら?」
「…………」
 ナハトは言われるがままにTシャツを拾い上げ、身につけた。レインは何も、彼の裸体に恥じらったわけでも、ナハトが体を冷やすことを心配したわけでもない。
「『ヴォイド』へのアクセス権は、『CTCBT』に批准しさえすれば誰にでも与えられるんだよ――そういうことになっている。たとえそれがテロリストの集団であろうが、同じこと」
「しかし、そんなものに批准せずにテロを続けようとする組織もあったろう」
「うん、いくつか。でもね、」
 その後を引き取って口を開いたのは、リヒトだった。
「そういう組織は次々に潰されたんだ――多国籍軍による徹底的な掃討戦が行われてね。まるで見せしめだったよ」
「……よく知っているな」
 ナハトが呟くと、リヒトは苦笑を浮かべた。
「僕もそれに参加していたからね。君もじゃないのかい?」
「…………」
 ナハトは思い返す。もしかすると、自分もそれに関係することに雇われていたのかもしれない、しかし記憶は定かではなかった。彼は自分の雇い主についても、敵についても、ほとんど知ろうとはしなかったからだ。彼が知るべきだったのは敵の戦力と布陣、どの程度味方の援護が期待できるか、その程度のことだ。敵の信条も、雇い主の事情も知ったことではない。戦争に、それらは必要ない。

「戦争はなくすべきだ――しかし、現実にはなくなることはないし、なくなっては困る」

 不意に、レインが歌うように言った。
「困る?」
「困らない?」
 レインはナハトを見つめ、笑う。視線が、蛇のように絡み合った。
「貴方は、困らない?」
「…………」
「自己主張の場は必要なんだよ――ガス抜き的な意味でも」
 ただし、それで人が死ぬのは割に合わない。リヒトは肩を竦めた。
「かつてほど、人の数は余っていないからね」
 前世紀には資源の枯渇を憂い環境保護を訴える団体や学者は数多いたが、まさか人類という資源が真っ先にその危険に晒されるなど誰も予想だにしていなかったことだろう。だが、それは起こった。戦争によって人命の奪われることのない世界の実現が、もはや綺麗事とは言っていられないほど人類にとっての急務となったのだ。
「『ヴォイド』での戦争も、多分現実のそれとそうはかわらない」
 レインはそう言った。お前は現実の戦争を知らないだろうに、とナハトは思う。
「武器を買って、兵士を養い雇って、輸送して――まあタイミングや配置も重要だけどさ」
 ソファに深々と体を埋め、レインは言う。
「結局は、お金なんだよね」
 与えられた予算の分だけ、軍は強くなる。
「……はは、まあそういうものさ」
 リヒトが笑った。
「今回停戦に合意したあの組織も、結局は資金が尽きたんだよ」
 レインは、真紅の炎をそのまま凍結させたような、そんな冷えた眼差しで呟いた。
「これ以上戦争を続けられなかった。だから、連合軍の出した条件をのんだわけ」
「……本当に?」
 ナハトがぼそりと口を開いた。
「本当に、のんだのか? 合意に納得しない残党はいるのでは?」
「当然いるだろう、――ねえ!!」
 語尾を怒鳴るように告げて、リヒトはレインを薙ぎ倒すように抱え込み床にダイブした。ナハトも即座に床に伏せる。
「!!」
 窓に嵌め込まれていた特殊強化ガラスが、見るも無残に砕け散った。その破片に混じり、マシンガンの弾丸がばらばらと床に転がる。
「ちッ」
 ナハトは舌打ちした。――やはり、停戦に納得などしていない残党はいるのだ。そいつらはもはや「CTCBT」に従う理由などないし、その象徴とも言える「PCC」を殺害するのに手段など選ぶ必要がない。隠し持っていたのであろうありったけの武器とともに、捨て身の攻撃を仕掛けるだけだ。
「一体どこから居場所が漏れるんだ」
 ナハトの呟きに、リヒトはさあね、と答えた。レインはおとなしくリヒトの下敷きにされるがままになっている。怯えるでもなく、怒るでもなく――ただただ、無表情だった。
 連射がやんだ、と一息ついた次の瞬間、ナハトはまた別の音が鳴り響いているのに気付いた。
「ヘリか!」
「軍用ヘリの生産は既に禁止されてるけど、民間のヘリならいくらでもあるからね」
 ここはホテルの高層階である、ヘリで狙いをつけるには向いている。
 ナハトは目まぐるしく思考を巡らせた。
 ヘリごと突っ込んで来られるとまずい、しかしもし彼らが確実に「PCC」の――つまりレインの死を確認しようとするのなら、ヘリからこのビルディングに乗り移って来る必要がある。彼らの計画は、どちらだ。
 ――どちらでもいい、敵の計画は阻止するのみだ。
「リヒト、レインを頼むぞ」
 ナハトは素早く床を匍匐して移動した。ヘリが何かしらの行動に移る前に、先手を打つ。
「うん、任せて」
 ナハトの思惑を聞くでもなく、リヒトは軽く請け合った。
 ナハトは床に転がっている赤子の頭ほどの大きさの水晶を手に取った。ホテルに置かれていた備品であろう。そして、もう片方の手には倒れたライトスタンドの柄。
 ヘリは、あの小さな尾翼を壊してやりさえすればバランスを保てなくなり、なすすべなく墜落する。――だが、砕けた窓の近くにナハトが近寄って、そうして再び掃射が行われたら? ナハトはどうすることもできずに死ぬだろう。
 ――だから?
 ナハトは知らずその口元に笑みを浮かべていた。
 ――だから、なんだ?

 ここは、「戦場」だ。

「――ふッ!」
 ナハトは素早く立ち上がると、窓際に向かって走った。そうしながら、左手に掴んだ水晶玉をふわりと宙に放る。そうして、両腕で掴みなおしたライトスタンドの柄をまるでベースボールのバットのように持ち、両脚をぐっと踏みしめ腰を捻ってスイングした。
 ごう、と風を切る音に続いて硬質な響き。弾き飛ばされた水晶玉は、真っ直ぐにヘリの尾翼に向かって飛んだ。
「下がれ!」
 リヒトの声に、ナハトは慌てて飛び下がり頭を低くする。その眼前に、彼の身長を上回る長辺を持つ巨大なテーブルが立ち塞がるように放り込まれた。ガガガガ、とその厚い天板のおもてを弾丸が穿つ音。
 直後、ヘリの乗組員のものと思われる怒声が響いた。プロペラ音がふっと遠ざかる――そして数秒後、地上から遠く地響きと悲鳴が。
 ヘリは墜ちた――墜とすことができた、とナハトは満足する。
「全く、無茶をするよ」
 伏せた彼の傍らにうずくまったリヒトが、その小脇にレインを抱えたままナハトの顔を覗き込んでいつも通りに微笑む。――お前、よくあの重厚なテーブルをぶん投げられたものだな、とナハトは思った。
「でも、いい判断だったよ」
 ナハトは、リヒトの称賛など意に介さぬ風で鼻を鳴らした。
「当然のことをしたまでだ」
 ――「仕事」だからな、とナハトは言う。

「違うでしょう」

 リヒトの腕をほどき、レインがぽつりと言った。ナハトは目を眇め、その俯き加減の赤毛を眺める。
「……どういうことだ?」
「さっきのは分の悪すぎる賭けだった。ひとつ、敵の目前に無防備にナハトの全身を晒したこと。あのナハトの打った物体がヘリの尾翼に当たらなければ無駄死にで終わるし、当たったとしてもリヒトの援護がなければナハトは全身を蜂の巣にされて死んでいた。ひとつ、うまく尾翼に当たったとしても、バランスを崩してこちらにヘリが突っ込んでくる可能性もあった。そうなったら、ナハトだけではなくリヒトも、私も死んでいただろうしね」
 ナハトはふん、と鼻を鳴らした。
「だったら、どうしていれば良かった? 急いで逃げれば助かったとでも?」
「そのほうが確実ではあったと思う」
 ヘリからホテルに乗り移ってくるにしても、多少の時間はかかるはず。その間に、この部屋を去れば良かったのではないか。ここは特殊な防御体制の整ったVIPルームである、それを逆手にとればこのフロアに敵を封じ込めることだってできた。
「少なくとも――ナハトが私の護衛という仕事をまっとうするつもりがあったなら、そうするべきだったんじゃない?」
「…………」
「でも、実際の貴方の行動は違った」
 レインはふと顔を上げた。――そこに張り付いていたのは、まるで能面のような無表情。
 レインは俺に抗議しているのではないのか、とナハトは気付いた。レインはただ彼を分析しているだけ――「PCC」として、兵士の行動を分析しているだけなのだ。怒っているのでも、悲しんでいるのでもない。ただ、己の目に映った事実を告げているだけ。
「ナハトにとってここは『戦場』で、敵は倒さなければならないのだと考えた――だから、さっきみたいな作戦になったんだ」
 そのくらいのことは私にもわかる、とレインは言い切った。
 ナハトは顔を背け、小さく舌打ちをする。
「俺が気に食わないのなら、さっさと俺をくびにするんだな」
「別に? 私はただ――」
「――ねえ、」
 どこからともなくレインの靴を拾ってきたリヒトが、二人を遮った。
「どうでもいいけど、外がかなり騒ぎになっているようだ。話の続きは場所を変えてにしない?」
 彼の言う通りではあった。突然、上空からヘリが一機墜落したのである。騒動にならないはずがない。地上ではサイレンの音が鳴り響いているし、取材目的のヘリも飛んでいるかもしれない。窓ガラスの砕け散ったこのホテルの部屋の惨状に気付かれれば、ヘリの事故と関連付けられるに決まっている。そこに国家の最高級機密である「PCC」がいたことを嗅ぎ付けられるわけにはいかない。
 ナハトは素直に頷いた。リヒトの言う通りだ。ここに長居するのはまずい――また別の残党が駆けつけてこないとも限らない。空中戦、あるいは地上戦。どちらを想定するにしても、ここで待ちぼうけている必要性はどこにもない。
「行こう」
 リヒトに促され、ナハトを先頭に彼らは靴を履いたレインを挟むようにして、フロアの非常口へと向かったのであった。

「……お前の言う通りだ」
 ナハトは先頭を行きながらぽつりと呟いた。レインが聞いているのかどうか、それは彼にはわからない。
「俺は、『戦場(ここ)』でしか生きられない」
 ――だから。
「俺には、ゲシュペンスト(おまえ)が、必要なんだ」
 ナハトの呟く口元には――いつになく、はっきりとした笑みが浮いていた。