die Ritter
――そういえば、噂を聞いたんだけれど。
護衛対象が別室にいるのを見計らったかのように、その男はぽつりと口を開いた。
「噂?」
同室にいるもうひとり、彼は興味もなさそうに問い返す。
「そうだよ。あくまで噂」
男は長めに伸ばされた黒い前髪の下から、ちらりとその淡い色素の瞳を覗かせている。
「この国の『擬似戦闘指揮官』のひとりが、暗殺されたらしい――ってさ」
「…………」
彼は口を噤んだまま、己の座るソファの前に鎮座するローテーブルの上のグラスを取り上げ水を煽った。グラスのおもてを覆っていた結露が、彼のかさついた手を濡らし滴る。
「……ふん、」
彼は小さく鼻を鳴らした。
だから何だ、とは言わない。だが、彼の表情にはそれがありありと浮かんでいた。ぽつ、と吐き出すように別の言葉を口にする。
「『あれ』は死なない」
「『あれ』――ね」
立ったままの男はそんな彼を見下ろし、穏やかに微笑んだ。
「そりゃあそうだ。その為に僕たち、『擬似戦闘指揮官護衛官』がいるのだから」
それを聞いて、ふん、と彼――ナハトは再び鼻を鳴らす。皮肉っぽく口元を歪め、
「くだらん噂を集めているんだな、リヒト」
と言った。ナハトの耳に、その噂とやらは入っていない。彼らの雇い主である政府から正式にもたらされた情報、というわけではないのだろう。リヒトは個人的に情報網を持っているということだろうか――まあ、どうでもいいことだ。正直なところ、ナハトに興味はない。たとえ、リヒトがいつか彼を――否、彼の雇い主を裏切って敵に回ることになったとしても、その時はリヒトを退ければいい、それだけのこと。リヒトを相手にするのは困難なことかもしれないが、それが仕事だ。
戦場に簡単な仕事などない。だからこそ、ナハトは戦場に命を懸ける。
「そう?」
男――リヒトはへらへらと笑っていた。
「ま、これからもお互い頑張ろうじゃないか?」
気を引き締めるに越したことはない、と思ってね。
「…………」
ナハトは答えず、残りの水を飲み干す。
言われるまでもない。彼は戦場にいるのだ――負ける訳にはいかない。
ところで――。
ふと、ナハトは思った。
「あれ」は、知っているのだろうか。己の同輩が死んだこと……殺されたこと。護衛が、失敗したことを。
もし、それを知ったとして、「あれ」は何を思うのだろう。
怒りか。
悲しみか。
恐れか。
哀れみか。
それとも――それとも。
「!」
ナハトはかっと目を見開き、リヒトを見上げた。リヒトもまた、そのまなざしを鋭いものにしている。
一瞬の視線の交錯ののち、意識的に呼吸を再開した。
彼らは互いに無言のまま、その手をそれぞれへの武器に伸ばした――
夥しい情報量が、複雑に張り巡らされた人工神経ネットワークを駆け巡る。だが、そのほとんどは無意識下に処理され、その残滓のみがネットワークの中枢に位置する思考回路のうちに浮かび上がる。それを「一瞥」して、決定プロセスへと押しやる。その流れ去る行く末を見守ることもなく、また新たな残滓が浮かび、それを掬う。掬い上げたそれは、すぐに弾けて姿を消す――その内包する「情報」を、閃光のように残して。回路を走る「情報」は、繰り返される演算を経て「決断」へと姿を変える。
――まるで、サイダーの泡を潰しているみたいだ。アルコールでもないのにマドラーをかまえて。しゅわ、しゅわ、しゅわ。
グラスの底から浮かび上がってくる透明な泡、それに際限があるのか、ないのか。自分には良くわからない――そもそも今こうして考えているのが「誰」なのか、良くわからない。
今、わたしは「戦争」中なのだ。
「擬似戦闘空間」は今、私に向かってひらかれている。
いや、違う――
私は端末。
世界にひらかれた。
人間にひらかれた。
私は、ただの、端末。
まだ、ほんとうの意味では使われることのない。
もし、
私の使われる日が来たら、
それは……わたしの、……
――「戦場」が消失する。
レインのネットワークからクローズされると同時、別の「PCC」の前にひらかれたはずだ。それが誰なのか、どんな人物なのか、レインは知らないし興味もない。まあ、どうせ自分のようなろくでもない人間だろう。
自分の前に戦っていた「PCC」についても同じだった。知りたいとは思わない。それを知ったところで何も変わらないし、何も変えられない。それはもはや、手の届かない過去である。
「…………」
レインのゴーグル――今や視覚情報端末は角膜上に載せるコンタクトレンズ型が一般的ではあるが、それをレインは好まない――には先ほど自分の挙げた戦果が羅列されていたが、レインはそれを一瞥だにしなかった。それを見たところで何も変わらないし、何も変えられない。それは既に、手の届かない過去である。
何かを変えられるのは、自分が「戦場」にアクセスしている、その時間だけだ。その間だけ、自分は戦況を、世界を変えられる。――恐らくは、誰もが思うよりもずっと、ほんの少しだけ。
「……まあ、それすらもただの幻想かもしれないけどね」
レインはつぶやき、立ち上がった。ホテルに備え付けられていたのは座り心地のいいチェアではあったが、この数時間じっと座位にあったせいか、膝や腰に軋むような痛みをおぼえる。
「お腹空いたな」
伸びをしながらつぶやくと同時、軽妙なノックの音に続いてドアが開いた。
「リヒト、メニュー貸して」
ドアに背を向けていたレインだが、振り向きもせずにそう告げた。ノックのくせで、それが誰であるかがわかる。そもそも、どうせこのフロアにいるのはレインを含めて三人だけだ――レインの護衛であるナハトと、リヒト。それ以外の人間が居るとすればそれは即ちレインの命を狙う暗殺者であり、もしそれがノックをしてレインに接触することがあったならば、それは護衛の敗北とレインの死を意味する。
「ルームサービスのメニューでいいかい?」
朗らかなリヒトの声に、レインは、そう、と言いながら振り返る――
「……げっ」
「ごめんごめん、ついさっきまで『お客様』を接待していてね」
リヒトの黒髪も、やや蒼白みがかった肌も、髪と同じ色のスーツも、粘度の高い赤黒い液体によってひどく汚れていたのだった。
「…………」
レインは差し出されたメニューをじっと見る。その皮張りの表紙にも、点々と血痕が散っていた。到底、手に取る気になどならない。
「うん?」
リヒトはとぼけたように首を傾げる。その口元は笑んでいて、そして頬はわずかに紅潮していた。
「ご機嫌だね、リヒト」
レインはメニューを受け取ることなく、ため息混じりに言った。
「襲撃があったってことは、どうせ移動でしょ……今サービスを頼むのはやめておく」
「そう? 悪いね」
「……思ってもいないくせに」
「君を命懸けで守る騎士たちに、随分な言い様だね?」
「騎士?」
レインはにやりと笑う。
「私は貴方達に忠誠を誓ってもらった憶えはないし、誓ってもらいたいとも思っていないんだけど?」
リヒトは芝居がかった様子で――その前髪は血でばりばりと固まってしまっていたが――軽く首を振った。
「ふむ、そう言われて見ればそうか」
「……とりあえず、移動する準備するから」
たいして存在しない私物を、小さなボストンバッグひとつに詰める。
「で? ナハトも無事……なんだよね? 多分」
レインは手を動かしながら、軽い調子でリヒトに尋ねた。
「もし、」
リヒトが、いつもとかわらない調子で聞き返してくる。
「そうでなかったら? ……僕が君を裏切って、ナハトの血を全身に浴びて――君の前に立っていたとしたら?」
「…………」
レインがぴたりと動きを止め、そしてゆっくりと首を巡らせた。
その顔に、表情はない。
「だとしたら、この時間は無駄だよね」
――さっさと私を殺すべきなんじゃないの?
レインは頬に落ちかかる赤毛を軽くかき上げた。
「もし、リヒトがものすごく悪趣味で、私を怖がらせたり、私に憎まれたりしたいのだとしても、無駄だよ」
真紅の瞳が、ねとつく朱をまとったリヒトを映す。
「私は、絶望しないから」
――もう、二度と、絶望したりはしない。
レインを見返すのは、一対の蜜色。琥珀にも似たそれは、レインを虫のように捕えている……。
「……冗談、」
リヒトはくすりと笑った。
「そんな、真面目に受け取られると困るなあ」
「あり得なくもないと思っているからね」
レインは口の端を歪めた。
「今、一番私を殺す可能性が高いのは、多分貴方だ」
「…………」
リヒトは黙ったまま微笑んでいる……。
「――おい、」
凝った空気を、低い声が掻き乱した。
「何してる。さっさと行くぞ」
部屋を覗き込んだのは、ナハトだった。そのサンディブロンドの髪は、リヒトと同じく、返り血に塗れている。
「ああ、ごめん。すぐに行くよ」
リヒトは変わらぬ調子で答え、レインをちらと眺めやった。
「行けるかい?」
「……勿論」
レインは目を伏せ、ひそやかにわらった。
「地の果てまでも、貴方たちに着いていくよ」
――いつか、己の運命に見捨てられる日まで。
「最期のとき――私の側にいるのは、誰なんだろう?」
そのつぶやきを耳にしたリヒトは軽く肩をすくめ、一方のナハトは怪訝そうに眉を寄せた。
「決まっているだろう、」
「え?」
「俺か、こいつだ」
顎をしゃくってリヒトを示す。
「…………」
示されたリヒトは小さく噴き出し、レインの瞬きの回数が知らず増えた。
「……それもそーか」
それが、彼らがレインの護衛である故なのか、それともいつかレインを殺す側に回るからなのか、それはわからないけれど――きっと、ナハト自身も、レインがそのように考えていることくらいは知っているだろう。
「行くぞ」
「行くよ」
血塗れの騎士たちが、レインの手を引き連れて行く――また次の「戦場」へと。