instagram

der Defekt

 部屋に備えられたステレオから、落ち着いたジャズが流れている。設定したのは彼の唯一の同僚であるリヒトだろう――彼は音楽には詳しくないし、好みのジャンルがあるというわけでもない。ただ、不快な音でなければ放置しておくだけだ。この程度の音量であれば、敵の気配に気付くのが遅れるということもあるまい。
「それにしても」
 と、目の前で新聞を繰っていたリヒトが不意に口を開いた。
「今日の戦闘はいやに長いね?」
「……そうか?」
 彼はローテーブルの隅に置かれた小型のディスプレイをちらりと見遣る。そこには隣にあるベッドルームと、そして中央には赤髪の子供が映っていて、この数時間というもの変わることのない光景であった。子供の名はレインといい、彼ら二人が命を賭して護衛する対象である。それは、レインが「擬似戦闘指揮官(PCC)」であるがゆえのことであった。
 「包括的三次元軍事行動禁止条約(CTCBT)」により、現実世界における戦闘行為が禁止されてから七年――戦場は仮想現実空間(ヴァーチャル)に設計された「擬似戦闘空間(ヴォイド)」にその場を移し、一般市民の前からその姿を消した。そこにアクセスし戦闘行為が許されるのは、「PCC」と呼ばれる者たちのみである。その彼らがいかにして選出されるのか、それぞれ何人いるのか、どういった存在なのかは、その安全保障上の理由から一切明かされていない。何しろ各国は極秘に敵対国の「PCC」の暗殺を企てていて、それはある程度の地位にある者たちにとってはもはや公然の秘密となっている。彼、ナハトとリヒトはその「PCC」を護衛するための「擬似戦闘指揮官護衛官(PSP)」であるが、それでも己の護衛対象であるレイン以外、誰が「PCC」なのか、他に何人の「PCC」がいるのか、それらのことは何も知らされていないのだった。
 まあ、知らされていないのと、知らないのとは別ではあるが――と、ナハトはリヒトをちらりと見ながら思う。「偽りの光(リヒト・フォン・ゲフェルシェング)」と呼ばれていた、名の知れた傭兵である。能力は高い、しかし決して任務に忠実であったとはいえない。そのような男が、「PSP」にむいているのか、いないのか――まあ、自分がリヒトよりも適性があるなどというつもりは毛頭ないが。
 ナハトは戦場に生きる傭兵である。高級ホテルのスイートルームで子供の護衛をするなどというのは、全くの想定外だ。それでも、ここが一番「戦場」に近い場所であることには違いない――。
「…………」
 リヒトはその蜜色の瞳を細め、ディスプレイをじっと見つめた。戦闘中の護衛のため、レインの部屋には隠しカメラが備え付けられている。彼らは「PCC」を付け狙う他国の暗殺部隊を避けるためにホテルのスイートルームを転々とする生活をしているが、移動するたびにそれは設置されている。レインにその存在は伝えていないが、ああ見えて敏い子供である、とっくに知っているのかもしれない。
「……いつもは戦闘中、手元は動くよね」
「ああ」
 レインは「ヴォイド」へのアクセス時、ゴーグルをつけ、特殊なグローブを嵌めてシート状のタッチパネルを操作する。何がどうなっているのかナハトにはさっぱりわからないが、そうやってレインは「ヴォイド」上の兵を動かし、戦略を展開し、敵を(たお)しているのだ。それが彼の良く知るかつての戦場と似ているのかどうか――ナハトにはわからない。
「さっきから、ぴくりとも動いていないよ」
「……?」
 ナハトは眉を寄せた。
「しかし、侵入者はないだろう?」
「うん、もちろん」
 リヒトの返事を聞きながら、ナハトは腰を浮かせた。
「様子を見に行ってくる」
「気を付けて」
 リヒトは微笑み、そして彼もまた立ち上がる。念のため、ナハトのバックアップをするつもりだろう。
「…………」
 ナハトは注意深く、レインの部屋の扉をノックした。
「レイン?」
 呼びかけるが、返事はない。
「入るぞ」
 ナハトは言い、ドアノブを捻った――死角に侵入者が潜んでいることを警戒して、左手にはナイフを抜いている。しかし、ベッドルームの中にはレインの他に誰もいなかった。嵌め殺しの窓しかない部屋ではあるが、念のため、クローゼットの中やベッドの下も確認した。誰もいない。デスクについているレイン――しかし、確かに先ほどから微動だにしていない。妙だ、とナハトは思った。
「レイン?」
 声を掛ける。しかし、返事はない。華奢な肩を軽く掴み、揺らす。
「おい、どうし――」
 途端、レインは崩れるように床に倒れたのだった。

 その後のふたりの動きは迅速だった。ナハトは身を屈めて脈と呼吸を確認し、リヒトは彼らの荷物の中から自動除細動器(AED)を持って駆けつける。
「……脈も息もある。それは必要なさそうだ」
「そう」
 床に仰向けに寝かされたレインは、苦しそうでもなく通常の呼吸をしている。ただ眠っているように見えた。しかし――。
「…………」
 ナハトは眉を寄せ、ゴーグルをつけたままのレインの顔に手を伸ばした。
「待って」
 ゴーグルを外そうとする彼を、リヒトが制止した。
「何だ?」
「今のレインの状況が分からない。それを外していいものかどうか……その、『ヴォイド』との接続がどういう状態なのか、そもそもそれがどういうものなのか、僕らは何も知らないわけだから」
「……それもそうか」
 ナハトは舌打ちをした。とりあえず、血圧と脈拍、酸素飽和度を測る。全てが正常範囲だった。少なくとも、差し迫った生命の危険はなさそうだ。
「どうする。上に指示を仰ぐか」
「そうしよう。……ナハトはレインをベッドに」
「ああ」
 彼らの雇い主、つまり政府との連絡はリヒトが一手に担っている。リヒトが部屋を出ていくのを見送ってから、ナハトはレインを抱え上げた。小さな体である。少年とも少女ともつかない、ほっそりとした手足。人工的なまでに赤い髪は、きっと生来のものではないだろう。しかし、彼がレインの護衛を始めてからというもの、染髪をしていた記憶がない。伸びた髪は適当にリヒトが切ってやっているようだし――まったく、器用な男だ。
 小さな頭に武骨なゴーグルは、全くといっていいほど似合っていなかった。ベッドの上に横たえ、ナハトはじっと注視する。――意識レベルを測るために多少の痛み刺激を与えてみようかと思ったが、それも危険かもしれないと思い直した。
 何しろ彼は「PCC」の――いや、レインのことを何も知らない。知ろうとも思わなかったし、知る必要もないと思っていた。
「…………」
 数分後、リヒトが姿を現した。
「『医療班』が来るんだって」
「医療班?」
「詳しくはよくわからないけど、とにかく一度診察するらしいよ。……ああ、それからやはりゴーグルやグローブなどは勝手に外さない方がいいそうだ」
「そうか」
 ナハトは頷いた。専門家が来るのなら、それでいい。
 この部屋にいる必要もないだろう、とナハトはレインの側を離れた。リヒトは彼の肩越しにレインを眺めていたが、やはり彼もまたその場を離れる。
 ひとりクイーンサイズのベッドに取り残されたレインは、いつもよりもひどく小さく、頼りなく、無力に見えた。

 それから十数分後には、「医療班」を名乗るものたちがやってきた――医者というよりも技術者に近いのではないか、ナハトは何となくそのような気がしていた。大小さまざまな荷物を抱えた無表情な数名の男女がリヒトに案内されてレインの元へ行き、ひとり戻ってきたリヒトと共にナハトはソファで彼らの「診察」が終わるのを待つ。監視カメラの映像は切るように言われたため、隣の様子はわからない。
「何でもないといいね」
 リヒトがぽつりと言う。ナハトは意外そうに言った。
「心配か?」
「そりゃあ」
 リヒトは肩をすくめた。
「これだけ毎日一緒にいれば、それなりに情もうつるさ」
「…………」
 本当だろうか――この目の前の男に限って、そんな人並みの感情など持ち合わせているのだろうか。まあ、嘘だとしてもナハトには何の影響もないが。
「それに、言っているだろう? 僕はこの仕事、気に入っているんだ――ってね」
 レインがいなくちゃ、始まらないよ。
「…………」
 ナハトはぼんやりと考えた。もし何らかの原因でこの仕事が続けられなくなったら、彼はどうするだろう。この、戦場のないで、戦場に近い場所を求めて――別の「PCC」の護衛になるのだろうか。それとも、他国の「PCC」を暗殺する側に回るか。
 部屋にはゆったりとジャズが流れ続けている――。
「ん、」
 とリヒトが立ち上がった。同時に、ナハトも動いている。
「おい、」
 ナハトは隣の部屋に向かって声を掛けた。
「しばらくそこから出てくるな」
 返事を待つつもりはなかったし、その時間もなかった。本当に聞こえているかどうかすらわからないが、確認しようもない。彼らの仕事はレインの――「PCC」の護衛である。その他のものが巻き込まれようが、どうなろうが、知ったことではない。
 ナハトは使い慣れた大小のナイフを抜く。瞬間、セキュリティロックの掛かっているはずのドアが爆音とともに吹き飛んだ。
「おっと」
 リヒトは飛んできたドアを危なげなく避け、それと同時に飛び込んできた男の腕を取って捻りそのまま肩を外した。苦悶の声を上げる男を放り捨ててその喉首を踏みつけつつ、別の男の振り回すナイフを身を屈めて避ける。その頭上を、小型のナイフが空を切って飛んだ。ナハトの投げたそれは、狙い過たず男の眼窩にずぶりと刺さる。
 絶叫。
「うるさいよ、隣の邪魔になるだろう」
 リヒトは笑みすら浮かべつつ軽く後退し、ローテーブルを蹴って宙に飛んだ――シーリングファンの羽に捕まり、長い脚を一閃させる。勢い良く壁に吹き飛ばされた男の首は、奇妙な方向に折れ曲がっていた。
 ――相変わらず派手好きな男だ。ナハトはややうんざりとしながらも、目の前の敵と相対する。どこの手のものかは知らないが、所詮は彼らと同じような傭兵崩れだろう。似たような手口ならいくらでも知っている。
(だが、)
 とナハトはうっすら笑みを浮かべた。
(相手が悪かったな)
 戦場で「夜の客人(ナハト・ベズーハ)」と呼ばれた俺を、なめてもらっては困る。
 身を低くして突進してくる男、おれの足の腱を切って動きを止めるつもりか――しかし、既に彼は見切っている。一歩跳び下がったナハトは、部屋に置かれていたダストボックスを蹴り上げた。軽い音を立てて男の顔面にヒットする、ナハトにはその一瞬の隙で十分だった。胸元から抜いた拳銃で、頭を狙う。一発、二発。
 買い物籠から取り落されたトマトのように――しかも、よりによって熟れ過ぎていた――男は脳漿を飛散させて床にどさりと落ちた。
「ひどい有様だ」
 リヒトがわざとらしく肩をすくめて笑う。その白皙の頬にべっとりと返り血がついていることには、気付いているのかいないのか。
「ふん」
 鼻を鳴らしたナハトは、レインのいるベッドルームに向けて声を掛けた。
「でてきていいぞ」
 おそるおそる開けられたドアの向こうで、息をのむ気配がする。この部屋の惨状に驚いたのだろうか。立ち込める血と硝煙の匂い。ナハトにとっては馴染みのある――そしてきっとそれはリヒトにとっても同じことだ。
 何をひるむことがある、とナハトは思った。ここは戦場だ――だとするならば、このような光景はごくごくありふれたものだ。レインですら、今はもう慣れたものだというのに。
 少なくとも、レインは「戦場」に生きる覚悟を決めている。
 こいつらは所詮戦場の住人ではないのだ。医療班だか何だか知らないが、彼らは「外側」の人間で、かつて泥に塗れて匍匐するナハトにマイク越しに無理難題の指令を投げてきたような、「あちら側」の者たちなのだ。彼らとも、そしてレインとも、生きる世界が違う。
 きっと彼らは思いつきもしないのだろう――自分たちが尾行され、「PCC」の居場所を敵に突き止められる原因となった可能性のことなど。
「くだらんな」
 ナハトは小さく吐き捨てる。リヒトが愛想良く、しかし返り血をべっとりとまとったまま、彼らに尋ねた。
「レインの様子はどうです?」
「し――心配ない」
 一番年上に見える中年男性が、やや青ざめた顔でそう言った。
「もうすぐ目覚めるだろう」
「そう、それは良かった」
「俺たちの任務に何か影響はあるか?」
 ナハトが尋ねると、男は軽く首を横に振った。
「別に、そういうことはない」
「今回のようなことは、今後も起こる可能性はありますか?」
「――さあ、わからない」
 こいつは今嘘をついた、とナハトは思った。ちらとリヒトを見ると、彼もまた意味深長な笑みを見せている。
「万が一同様の事象が起こった場合は、今回のように速やかに連絡を」
「……わかりました」
 しかしリヒトはあくまで澄ました顔で応対し、ナハトもまた何も言わなかった。
 ――「あちら側」の人間に嘘をつかれることにも、彼らはよくよく慣れているのだった。

 目を覚ましたレインは、自分が何か硬いものの上に頭を載せていることに気付いた。
「……あれ?」
 体が揺れている。車の中、だろうか。
「やあレイン、目が覚めたかい」
 見上げると、リヒトが相変わらずのうさんくさい笑顔でレインを見下ろしている。
「何、これ。どういうこと」
 レインは慌てて身を起こした――どうやら自分が枕にしていたのはリヒトの膝らしい。なんということだ、と舌打ちしたくなった。
「戦闘後にそのまま君は意識を失ってしまってね。でまあ、いろいろあって、ホテルをうつることになったんだよ」
「肝心なところを端折り過ぎじゃないの?」
 レインはぶつぶつと言いながら、後部ミラー越しに運転席のナハトを見る――思いがけず、目が合った。しかし、ふい、とすぐに視線を逸らされる。
「まあ、いいさ。調子はどう?」
「別に……特に何も」
 レインはリヒトにぼんやりと答えながら、徐々に視線を落としていく。くしゃり、と自分の髪を掴んだ。
「そう」
 リヒトの返事はあっさりしたものだった。
 ナハトもまた、何も言わない。
「…………」
 レインは目を細めた――その赤い瞳は、何も映してはいない。
過負荷(オーバーロード)……」
 ぽつりとつぶやいたその言葉を、リヒトは聞かなかったふりをした。