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Ausbildung

 サンディブロンドの前髪から、ぽとりと汗が落ちた。高級ホテルに敷き詰められたカーペットは、音もなくそれを沁み込ませていく。
 男はそれに気付いているのかいないのか、淡々と片腕を屈伸させ続けた。伏せた己の体重を片腕一本と両のつま先とで支え、胸が床につくほどに腕を曲げたかと思うとすぐにそれを伸ばす。既に回数は数えていない。三十分ほど経った頃、腕を代えた。タンクトップから覗く肩や腕は、うっすらと汗の膜で覆われている。
 その後も体勢を変え、部位を変えてトレーニングを続けた。男は終始無表情のまま、呼吸のペースは変わらない。
 ――部屋のドアノブが回る音に、男はようやく動きを止める。
「よくやるね、ナハト」
 姿を見せたのは、人工的な赤をその身にまとう子供だった。年はロウティーンとミドルティーンの境くらいだろう。男女ともつかない華奢な体を、ややサイズの大きなスウェットに包んでいる。
 男――ナハトは立ち上がり、サイドボードの上に置いていた水のボトルを掴んでごくごくと飲み干した。
「ただの日課だ」
「傭兵だった頃から?」
「……ああ」
 実際はそれよりもっと前からだったが、ナハトは訂正しなかった。
「戦闘は終わりか、レイン」
「うん、終わった」
 レインが頷くと、ナハトはそっけなく、そうか、と答える。この場にいないもうひとりの男がここにいたならば、きっと「何か食べる?」だとか、「飲み物をいれようか?」だとか、そういった気の利いたことを言うのだろう。だが、ナハトにはそんなつもりは毛頭なかった。
 彼の仕事はあくまでレインの――「疑似戦闘司令官(PCC)」の護衛であって、子守ではない。
 レインもそんなナハトの不愛想さには慣れているようだった。辺りを見回し、あれ、と呟く。
「リヒトは?」
「仮眠中だ」
「そう」
 リヒト――ナハトとともにレインの護衛についている、今ここにいないもうひとりの男。彼らふたりが、レイン直属の「擬似戦闘指揮官護衛官(PSP)」である。
 レインがその赤い視線でちらとナハトを見遣った。
「シャワー浴びてきたら?」
「リヒトが起きたらな」
「ああ、そうか……そうだね」
 納得したようにつぶやくと、レインはルームサーヴィスのメニューを手に取る。
「ナハトも何か食べる?」
「おれは要らない」
「…………」
 レインは肩をすくめて、付き合い悪いなあ、と呟いた。今に始まったことでもないだろう、とナハトは思う。

 ――戦場は、現実世界から仮想空間へと追いやられた。
 いかなる事由に基づくものであろうとも、三次元における戦闘行為そのものが重大な国際法違反であり、即座に厳格な制裁対象となる。枯渇しかかった「人間」という資源を守るために実現した、世界中の人々が夢見てやまなかったであろう、「戦争」のない「平和」な世界――しかし、戦争そのものが消えたわけではない。ただ、その場所を仮想空間(ヴァーチャル)へと移しただけである。限られた人間しかアクセスできないその「戦場」では、日々ヴァーチャルの兵士が殺し合い、ヴァーチャルの砲弾が飛び交い、ヴァーチャルの拠点が奪い合われている。……いや、実際に「擬似戦闘空間(ヴォイド)」でどのような戦闘が繰り広げられているのか、ナハトは知らない。何となくそう想像しているだけである。知っているのは、レインをはじめとする数名の「PCC」たちだ。
 そして、「戦争」の禁じられたはずの三次元で、唯一暗殺行動が黙認されている対象――それもまた、国益を一手に担う「PCC」だけなのだった。

 「PCC」は暗殺を避けるため、国内を転々と移動している。ほとんどの場合、セキュリティの厳しい一流ホテルが彼らの滞在場所だ。当然、食事もすべてルームサーヴィスで提供される。そういったホテルにはトレーニングジムが充実していることも多いが、ナハトはそこには行けない。レインの側を離れるわけにはいかないからだ。
 レインが頼んだのは、クラブハウスサンドウィッチとグレープフルーツジュースだった。部屋の入り口でナハトがそれらをボーイから受け取り、ソファテーブルの上に並べてやる。早速一口かぶりついたレインは、もぐもぐと頬を動かしながらナハトを見遣った。
「さっきのあれ、毎日やってるの?」
「……時間があればな」
 レインの向かいに腰掛け、二本目の水のボトルに口をつけながらナハトは短く答える。
「体が鈍らないように?」
「……別に、そういうわけでもない」
 体が鈍るほどの期間、暗殺者どもがレインを放置していたことはない――とは言わなかった。今ではレインもほとんど襲撃に動揺を見せることもなくなったとはいえ、敢えて自分の命が常に狙われているのだと思い出させてやる必要もないだろう。
 それにしても、何故彼らは「PCC」の居場所をすぐに突き止められるのだろう。移動しても移動しても、そして倒しても倒しても、彼らは次々現れて追ってくる。少しばかり不自然な頻度だ、とナハトは感じていた。まるで「誰か」が情報を流してでもいるような――まあ、そうだとしてもおれには関係のないことだが。
「癖のようなものだ」
「ふうん……」
 レインがもう一口、かぶりついた。赤い爪が、こぼれたクリームチーズで汚れている。
「リヒトもそういうの、やってるのかな」
「さあ」
 知らない、と首を横に振った。
「あいつはそういうところを人に見せるようなタイプではないだろう」
 何となく、そんな気がした。ナハトと同じ傭兵上がりでありながらどこか品の良さを漂わせ、それでいながら時にナハト以上に容赦なく敵を葬る冷酷さをも兼ね備えた男。リヒトが汗水垂らしてトレーニングに励むところなど想像もつかないし、そういう姿を人に見せるとも思えない。――傭兵とは、血と汗と泥の匂いに塗れたものだと思っていた。だが、あのリヒトからは血の匂いしかしない……それも、ごく薄く。
 ナハトの言葉を聞いたレインは、くすくすと笑い出す。
「それもそうか。確かにね」
 ――リヒトはそういうところ、ある気がする。
 ふと、ナハトは不思議な感覚に襲われた――俺は何故、今こんな場所にいるのだろう。高級ホテルのVIP専用フロア、そのソファに腰を下ろして、サンドウィッチをぱくつく子供と向かい合っている。血も、汗も、泥の匂いもしない。先ほど彼のかいた汗も、ふわふわの厚いタオルがほぼ吸い取ってしまった。一体何故、俺はこんなところに……。
「全く、人が寝ている隙に噂話かい?」
 先ほどレインの入ってきたのとは別のドアから、もうひとりの男が姿を見せた。仮眠していたとは思えないほど、すっきりした顔と装いで現れた長身の男――リヒトである。
「ああ、起きたの」
 レインがリヒトをちらと見遣り、悪びれもせずに言う。
「ていうかそれ、少し前から起きていたのに立ち聞きしてたってことじゃない」
「人聞きが悪いね」
 リヒトは肩をすくめた。
「君たち二人が仲良さそうに話しているからさ、遠慮して入っていけなかったんだよ」
「……ばっかみたい」
 レインが口汚く吐き捨て、リヒトは苦笑する。ナハトは黙って立ち上がった。
「シャワーを使う。何かあれば呼んでくれ」
「はいはい」
 微笑むリヒトを残し、ナハトはその場を後にした。やたらと広いバスルームのドアを閉め、深く息を吐く。
 鏡に映る自分の肉体は、見慣れたものだった――銃創の痕、ナイフによる切創の痕、その他数え切れないほどの小さな傷痕。それを視認し、安堵する。
 おれは何も変わっていない――おれは今でも戦場を求める傭兵のままだ、と。

 数分でシャワーを終え、身支度を整えて元の部屋に戻る。レインは既にサンドウィッチを食べ終え、食器を残したままその場を離れていた。眠りに行ったのかもしれない。
 リヒトはひとり、コーヒーを口にしていた。かぐわしい匂いが、部屋中に立ち込めている。
「君も飲むかい?」
「いや、いい」
 飲みかけたままだった水のボトルに手を伸ばしながら、ナハトは言った。
 ――数分の沈黙のあと、リヒトが口を開く。
「少し、打ち解けたみたいだね」
「何が?」
「レインとのことだよ。話をしていたじゃないか。前よりもずっと自然だったよ」
「…………」
 そうだっただろうか、とナハトは首を傾げる。リヒトは笑う。
「別に変な意味じゃなくてね。護衛対象とある程度距離を近くしておくのも、仕事をする上で大切なことだと思う」
「…………」
 そういうものだろうか、とナハトは思う。別にレインと仲良くしようが仲良くしまいが、やることは同じだ。レインを殺させない。レインを殺そうとするものは殺す。それが仕事なのだから当然だ。
 リヒトは不可解な表情を浮かべているのであろうナハトに向かい、軽くウィンクをしてみせた。
「僕らの間だって、最初の頃よりチームワークが良くなったと思わない?」
「そうか?」
 ――俺にとっては相変わらずお前は掴みどころのない男だがな……と、ナハトは言わなかった。その代わりにソファから立ち上がり、腰のベルトからナイフを抜く。音を立てることなくドアに駆け寄って、彼と同じものを手にしたリヒトと共にドアを挟んで壁に背をつける。
 最初の異変はかすかな物音だった。だが、それで十分だった。「PCC」を狙う暗殺者――「(モイゼ)」。
 次の瞬間、ドアが爆風と共に吹き飛んだ。小型の爆薬か何かを仕掛けていたのだろう。煙と共に飛び込んできたひとりを、リヒトが足を掛けて転倒させざま、その喉首をナイフで掻き切った。噴き出す血煙が、その顔を覆うマスクや防弾チョッキに沁み込んでいく。続いて姿を現した別の男の腕を捕らえ、ナハトは力任せにそれをひしいだ。ごっ、と鈍い音が響く。悲鳴じみたうめき声をあげるその男を壁に叩きつけながら、彼はその後頭部をナイフの柄で(したた)かに殴りつけた。男はずるずると床に崩れ、そのまま動かなくなる。そのナハトの背後を襲おうとした男は脇腹をリヒトに蹴り飛ばされ、先ほどレインの使った食器の置かれたままのテーブルに突っ込んでいった。すぐさまナハトはその後を追い、勢いよくソファを飛び越え、のけ反る男の顎に思い切り蹴りを叩きこんだ。骨の割れる乾いた音に続き、血反吐が喉に詰まる湿った音。
 おぼえのある金属音にナハトがくるりと振り向くと、ドアの外に立った男がフルオート・マシンガンを構えていた。その指は既に引き金に掛かろうとしている。リヒトは――別の男と格闘中だ。
「――チッ」
 ナハトは舌打ちと共に銃口に向かって走り出した。一歩二歩踏み出し、勢いをつけて床にダイブする。やわらかなカーペットはほとんど彼の躰を滑らせてはくれなかったが、それでも何とか男の足元に手が届いた。足首をひっ掴み、力任せに転倒させる。
「これって条約的にどうなの?」
 別の男を片付けたリヒトが、呆れたようにつぶやきながら倒れた男の手を無造作に踏みつけ、マシンガンを奪い取った。
「暗殺に向く武器じゃないでしょ」
 リヒトはその銃口を男の上顎に向けて突っ込む。くぐもった悲鳴をかき消すように、連続した銃声――久々に耳にした、しかしかつては聞き慣れていた音。ナハトは廊下にぶちまけられた血と脳漿から目を背け、ふう、と軽く息をついた。
「あーあー」
 最後の銃声はさすがによく響いたのか、寝室から覗き見たレインが部屋の惨状に顔を顰めた。
「相変わらずひどいものだね」
「うん、まあ、現実ってこういうものだよ」
 血塗れで屈託なく笑うリヒトに肩をすくめてみせ、レインは同じく血で汚れたナハトを見遣る。
「ナハトなんて、シャワー浴びたばかりなのに」
「…………」
 ナハトはすんと鼻を鳴らす。――立ち込める血と、汗と、死の匂い。
 そう。これこそが戦場の匂い。
「……慣れている」
 ナハトはうっすらと微笑んで、そう答えた。