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Aufregung

 肩を目掛けて突き出されたナイフ、その切っ先に空を切らせるべく、彼は左半身を引いて一歩後ろに下がった。その直後、左脚のばねを効かせて右脚を高く振り上げる。強かに腰を蹴りつけられた相手がよろめく、その隙を逃さず彼は追撃した――左に握ったナイフの柄でこめかみをえぐるように殴りつける。たまらず昏倒した男の手を踏みにじって指を砕きつつ、次に後方から躍りかかってくる男に向き直る。低く薙ぎ払われた大振りのナイフの一撃は手近にあった皿――わざわざこうしてホテルのVIPルームに飾るくらいだから高価なものなのかもしれないが、彼にとってはどうでもいいことだ――で受け止め、そのままそれを投げつけた。男は咄嗟に身を屈めて皿を避ける、その顔面に彼の膝蹴りが入った。鼻と歯の折れる音、くぐもった呻き声。片手に髪を引っ掴み、動かなくなるまで何度も蹴りつける。やがて、彼は男の頭から手を放した。
「そっちも片付いたかい」
 呑気な声に顔を上げると、彼の仕事上の相方(パートナー)が軽く両手を払っていた。手指にべっとりとついた赤い血も、みるみるうちに乾いていく。そちらもまた、彼と同じように二三名の敵を戦闘不能に追い込んだようだ。涼しい顔をしている男の足元にできた血溜まりだけが、先程までの戦闘の激しさを物語っていた。
「……ああ」
 彼――ナハトは低く返事をして、倒れ伏した男たちを手早く拘束した。その生死は確認しないし、身元を調べることもない。相方――リヒトと協力して男たちの身体を廊下に放り出し、ドアを閉める。彼らがこの後どうなるのか、それは彼らの仕事ではないから知ったことではない。それを仕事とする他の誰かがどうにか処理するのだろう、今までもずっとそうだったし、これからもそうだ。
 男たちは暗殺者で、ナハトらの護衛する「擬似戦闘指揮官(PCC)」の命を狙う者たちである。誰の命令でどこから派遣されているのか、何故転々と移動している彼らの居場所を突き止められるのか、そういったことは彼らには全く知らされていないし、きっとこれからも知らされることはない。ただ、彼らは差し向けられる暗殺者らを退けるだけ。それだけが、彼らの仕事だ。
 だが――。
「それにしても、僕たちは何人の『(モイゼ)』を倒してきたんだろうね」
 リヒトの軽口に、ナハトは軽く眉を上げた。無視をしても良かったのだが、戦闘の直後で興奮がまだ少し尾を引いていたのだろう、短く返事をする。
「……さあ?」
 わざわざ数えてもいないし、覚えてもいない。リヒトは肩をすくめた。
「ひとつきにざっと二三回の襲撃があるとして、大体そのたびに五名から十名の『(モイゼ)』を戦闘不能に追い込んでいる」
「…………」
「累積すれば、それなりの数ではあるよね。『PCC』のチームは世界中に存在しているわけだし、それも全部加えたら」
「……何が言いたい?」
 ナハトは振り返る。先程までの高揚感は既に鳴りを潜めつつあった。
「この『システム』……、」
 リヒトが蜜色の瞳をとろりと揺らめかせる。
「本当に戦死者の数を減らすのに役立っているのかな? ってね」
「…………」
 答えを持たず黙り込んだナハトの代わりに、別の声が割って入った。
「算数の計算は後にしてさあ」
 奥の部屋から、人工的なまでに赤い髪と目を持つ子供がうんざりとした顔で覗き込んでいる。
「さっさとシャワーなりなんなりで身支度しなよ……ふたりともひどい格好だし、部屋中血の匂いでやばいよ」
「確かに、レインの言うとおりだ」
 リヒトは笑った。
「ナハト、先にシャワーを使ってきなよ。僕は上に連絡を取る」
「……ああ」
 ナハトはレインという名の子供――この子供こそが、彼らの護衛対象である「PCC」だ――をちらと見て、そしてシャワールームに向かった。
「…………」
 ――この「システム」が本当に戦死者を減らしているか、だって?
 ナハトは小さく鼻を鳴らす。
 そんなことは知ったことではない。俺はただ、この「戦場」で生きるだけだ……「ヴァーチャル」に追いやられ滅びかけつつある、この「戦場」で。

 何度かの大戦を経て、戦争は定まった戦線のないテロリズムを主なかたちとしてとるようになった。予測を超えて減少した人口、反比例するように増加する無差別な市民の犠牲――それらを解決する画期的な手段として世界にもたらされたのが、「ヴォイド・システム」であった。現実での戦闘行動を厳しく規制し、戦争を「仮想現実(ヴァーチャル)」に追いやったのである。戦争は「ヴォイド」上で行われ、仮想の軍隊、兵士が戦闘行為を行う。戦死者も破壊される街も、全てはヴァーチャルであり、もはや戦争は現実世界を傷つけるものではなくなった。そしてまた、戦争をなくそうとする人類の不朽の――そうでありながらも決して成し遂げられることのなかった試みすら、不要のものと化したのであった。
 「ヴォイド・システム」における戦闘を指揮する任務を与えられている特別な人間こそが「PCC」であり、そしてこれは一般市民の預かり知らぬことではあるが、その暗殺行為に限っては戦闘行為と見做さないのが暗黙のルールとなっているのだった。

 その国家機密級の存在である「PCC」のうちのひとりがレインだ。何故こんな子供がそのような重要な任務に就いているのか、ナハトは知らない。家族の記憶もないと語っていたレインがいわゆる「訳あり」の存在であるのはわかってはいるが、だからといって同情する気はないし、そもそも深く詮索する気もない。「PCC」であるがゆえに暗殺の危険に晒され続けているレインを護衛する、それがナハトの――そしてリヒトの仕事だ。それだけわかっていれば十分である。
 シャワーで返り血を洗い流して部屋に戻ると、レインは既に荷造りを済ませていた。襲撃を受けたあとの荒れた部屋の中で、さいわいにも無傷だったソファの上に膝を抱えて座っている。
 リヒトは彼と入れ替わるようにシャワールームに入った。ナハトは仕方なくレインに尋ねる。
「移動か?」
「そりゃね」
 レインはオーバーサイズのパーカーに包まれた肩をすくめる。
「こんな血なまぐさい部屋に滞在し続けられないでしょ」
「……そうでもないが」
 傭兵時代の戦場には、いつだって血と汗と泥の匂いがしていた。
 レインはため息をついて付け加える。
「……セキュリティ上の問題もあるしね」
「…………」
 それなら納得だ、とナハトは口には出さず思った。
 レインはソファの上で両腕を上げ、高く伸びをする。
「移動が終わったら、キッシュが食べたいな。チーズたっぷりのやつ」
「……腹が減ったのか」
「うん。私もさっき終わったばかりだからさ」
 つまり、レインは先程まで「ヴォイド」に接続していたということだ。ナハトはわずかに苦笑した。その中で一体何人の、何百人の、或いは何万人の兵士が死んだのか、もしくは街が破壊されたのか、ナハトにはわからない。どうせすべては数字だけで扱われる「ヴァーチャル」なものだ。現実の戦場のような、火薬や硝煙の匂いすらもしないだろうし、兵士たちもきっと名前すらもたないのだろう。だが、かつての彼ら傭兵とて、名前などないも同然ではなかったか……。
「人間って、争いごとなんかの最中には交感神経が優位に働いてアドレナリンが出るっていうけど……」
 レインはソファの端から足をぶらぶらと揺らした。
「アドレナリンって、空腹感とか眠気とか、そういうのを抑える働きがあるんだって。理に適っているよね」
「……ああ、そうだな」
 確かに、ナハトも戦場で空腹感など感じたことはなかった。理由など考えたこともなかったが、そもそもがそのように作られているというのなら仕方がない。
 レインは彼を見上げた。
「ナハトはお腹空かない?」
「……いや、俺はまだ」
「まだ、戦闘中のモードだから?」
「…………」
「そうだね、とにかく」
 ナハトが答えるより前にシャワールームから姿を現したリヒトは、髪を拭うタオルの間から爽やかな笑顔を見せた。
「まずは君を安全なところに移動させないことには。ね?」
「……安全なところ?」
 レインは皮肉っぽく笑う。
「そんなところ、本当にあるの?」
 暗殺者に狙われ続けている「PCC」としては当然の発言であっただろう。だが、
「比較の問題だよ」
 リヒトはあっさりと答えた。
「既に襲撃を受けたここより、まだ狙われていない場所のほうが安全。その程度の意味さ」
「……なるほどね」
 レインはため息とともに荷物の詰まった小ぶりな鞄を抱え上げ、ひどく汚れている床を見回した。
「じゃあ、この何かの破片だらけの床を歩くリスクからも守ってくれる?」
「ナハト、よろしく」
「…………」
 靴を履いているんだから少しくらい尖ったものを踏んだって問題ないだろう。ナハトはそう思いながらも、仕方なくソファからレインを抱え上げた。正直、ここで押し問答する方が面倒くさい。
 レインの小柄な体は少しも重くはなかった。ナハトはそれを抱えたまま、リヒトの開けたドアを潜って部屋の外まで移動し、廊下に下ろした。彼らが廊下に積み上げた「(モイゼ)」たちの姿は既になくなっていたが、カーペットや壁にはまだ血痕が残っていた。これもいずれ、彼らが去った後に跡形も残さずクリーニングされるのだろう。レインは血痕を踏まないようにひょいひょいと廊下を移動していく。ナハトは無頓着にそれを追った。振り返ったレインが眉をひそめる。
「靴の裏、汚れるよ」
「後で替える」
 ナハトは素っ気なく言った。車まで行けば、新しい靴が用意されているはずで、今履いているそれはそこで捨てる予定なのだ。
「あ、そう……」
 レインは呆れたように呟いた。そして、ぽつりと続ける。
「ナハトってさ、あんまり大事なものとか、なさそうだよね」
 お気に入りのものとか、好物とか。
「リヒトにはそれなりにありそうだけど……」
「おや、バレてるみたいだ」
 ナハトの背後にいるリヒトがおどけた口調で言う。
「だってリヒトは自分でコーヒー入れたり、ジュース絞ったりするじゃん。少なくとも美味しいものは好きなんでしょ? ナハトは大抵水ばっかり飲んでるしさ、なんかあんまり拘りとかないんだろうなーって」
「…………」
 ナハトに特に反論はなかった。自分に何か特別に大切なものがあるかと聞かれれば、きっとないと答えるだろう。それが食べ物であろうが、衣服であろうが、人物であろうが、同じことだ。そういう生き方をしてきたし、そういう生き方を選んできた。だから……だから?
 ナハトは聞き返す。
「だから、なんだ?」
「ううん、別に」
 ただ思っただけ、とレインは言う。
「お前には、あるのか」
 言ってから、ナハトは自分でも意外に思った。――なぜ、そんなことを聞いた? 別に興味もないのに、なぜ。
 聞かれたレインもまた、意外そうな顔で振り返った。
「……どうだろうね。でも」
 言って、少しだけ笑う。
「美味しいものは好きだし、ふかふかのベッドで眠るのも好きだよ」
「僕と同じだねえ」
「わー、嬉しくないお揃い」
「ひどいなあ」
 レインとリヒトのくだらない掛け合いを聞くでもなく耳に入れながら、ナハトは歩みを進めた。
 俺が好むもの――俺に必要なもの。もしそんなものがあるとしたら、それはきっとレインが言っていたところの「交感神経の興奮」だ。食欲も睡眠欲も失せてしまうほどの興奮、それさえあればいい。
 そして彼にその刹那の興奮をもたらしてくれるもの、それこそが戦場なのだった。だからこそ、彼は戦場のなくなったこの現実でも尚、それを求め続けている……。

 ナハトの運転で車を走らせ、彼らは別のホテルへと移動した。上に指定された、先程までと同じく最高級のセキュリティで守られたVIPフロアである――だが、ここもまた安全な場所とは決していえない。いつだって、暗殺者たちは――「(モイゼ)」たちはこのセキュリティを掻い潜って侵入してくるのだから。
「待遇としては、特に文句はないからいいんだけどさ」
 レインは早速ルームサービスのメニュー表を物色している。
「こんなところより、普通の街なかのホテルのほうが案外襲われないんじゃないの。良く知らないけど、あいつら周りを巻き込むとまずいんでしょ?」
「それはなかなか鋭い指摘かもね」
 リヒトは備え付けのエスプレッソメーカーを操る手を止め、苦笑を浮かべた。
「確かにその通りかもしれない……でも、試すわけにはいかないから」
 レインはあっさりと納得したようだった。
「試して民間人に犠牲が出たら大変なことになるもんね」
 「PCC」の暗殺の際に一般人に犠牲が出て、もしそれが明るみに出たら……「ヴォイド・システム」の理念上、かなり厄介なことになるだろう。今のところそういったケースはない。少なくとも、あったとしても揉み消せるレベルだったということだ。
「…………」
 なるほどな、とナハトはフリーザーから水のボトルを取り出しながらひとりごちた。
 彼らの居るこのフロアは、言うなれば大きなネズミ捕りなのだ。レインという餌におびき寄せられて集まる「(モイゼ)」を捉える為に用意された、豪華なネズミ捕り……。
 ふと、ナハトの脳裏に疑問が過ぎる。

 ――どちらが本当の目的だ?

 すべてはレインを守る為なのか。
 それとも、レインを襲わせる為なのか。
 襲わせて守ること、そのふたつは実は表裏一体なのではないか。
 もしそうだとしたら、何故わざわざレインを襲わせる必要があるのか……。
 必要があるとしたら、それは誰にとって必要なのか。敵か。それとも――それとも。

「ナハト」
 レインに呼ばれ、ナハトははっとした。
「……なんだ」
「いや、別に……ぼうっとしてたみたいだったから」
 レインは言いながら、ルームサービスメニューを彼に突き出してくる。
「やっぱりさ、お腹減ってるんじゃない?」
「…………」
 ナハトは黙ってメニューを受け取る。空腹感はなかったが、突き返すまでもないような気がした。
 リヒトが明るく提案する。
「たまにはみんなで何か食べるとするかい」
「うん、いいんじゃない? たまには」
「…………」
 ナハトはちらとリヒトを見遣った。彼はナハトの脳裏に浮かんでいる疑念など先刻承知だとでも言うように、余裕を湛えた笑みを浮かべている。
 ――まあ、当然そうなのだろう。ナハトは思う。俺よりも、リヒトのほうがよほどそういった機微には敏感だ。だが、それでもリヒトは今のところこの仕事を続けている。それなら俺もそれでいい……少なくとも、今のところは。ナハト自身、仕事そのものに不満があるわけではないのだし。
「……クラブハウスサンド」
 ナハトがぼそりと言うと、レインは少し驚いたように目を見開いて、そしてくすくすと笑った。
「なんだ?」
「ううん」
 レインは笑いながら言う。
「なんとなく、ナハトが頼むならそれかなって思ってたんだ。そうしたら、あたったから」
 ナハトはうんざりとした顔で呟く。
「……俺は単純なんでな」
「いいことだよ」
 レインはふっと笑みを消しながら、そう言った。
「複雑ぶってる『システム』なんかより、余程いいよ――」
「…………」
 レインの言う意味はよくわからなかったが、ナハトは気にせずに水のボトルを開けてぐびぐびと飲み干した。
 なんの味もしない、冷えたミネラルウォーター。もしかすると、ナハトはその単純さを好んでいるのかもしれなかった。