Roy Howell
びっくりした。そのお屋敷の窓から、天使みたいな女の子が顔を出したから。
屋敷はウィザードリィという大富豪のものだ。名前が指し示す通り「魔術師」の家系なのだという噂もあるけれど、おれは信じちゃいない。魔術なんて古い伝説に過ぎないもの、子供向けのおとぎばなしの中で十分だ。
たまたまおれがその屋敷の側を通りかかった時だった。
「?」
白い布きれがふわりと舞い落ちてきた。手に取ってみると、それはシルクのハンカチーフ。細かな刺繍とレースの縁取りがされたそれは、おれの目にもひどく高そうに見えた。
誰かが落としたのだろうか。辺りを見回して、そうして空を見上げて――おれはふとその女の子に気付いたのだった。
薄い色のブロンドの巻き毛に縁取られた白い頬。見たこともない鮮やかないろの、大きな瞳。まるで、教会の壁画に描かれた天使のような、もしくは美しいお人形のような――。
「それ、あたしのなの」
しゃべった。おれは驚いて、ハンカチーフを握りしめたまま一歩あとずさる。
「おかあさまの形見なんですって。返してくださる?」
「……う、うん。もちろん」
女の子はにこりと笑う。
「ありがとう。取りに行くわ」
――もちろん、使用人が来るに違いない。おれは屋敷を囲む塀の外側に立ちつくし、屋敷の誰かが来るのを待った。
そして、数分後。
「ねえ、あなた。なまえは?」
高い塀の向こうからひょこりと頭を出したのは、意外なことにあの女の子自身だった。近くで見ると、ほんとうに――びっくりするくらいきれいな顔をしている。宝石みたいな瞳は赤く澄んでいて、おれは本当にどきどきした。年は、おれよりも少し小さいくらいだろうか。
「ど、どうやって……」
「梯子よ。庭師が立て懸けたままにしていたの」
澄ました顔で、彼女は言う。
「きみ、名前は?」
おれの質問に、彼女は快く答えてくれた。
「セシリア。セシリア・ウィザードリィ」
あれ以来、おれは幾度となく彼女と会った。
セシリアは、つまりこの屋敷のお嬢様なのだった。にもかかわらず、おれが屋敷の壁に小石を投げ当てると、すぐにひょっこりと二階の窓から顔を覗かせ、窓から身を乗り出してくれる。時には美味しいお菓子をハンカチーフに包んで投げてくれることさえあった。
「ローイ! 何か面白い話はある?」
セシリアは、どうやら滅多に外出することはないらしい。ちょっとしたニュースやゴシップなんかを、本当に面白そうに目を輝かせて聞いてくれる。だからこそ、おれは――。
「面白いかどうかはわからないけどさ……セシリアは怖い話って平気か?」
「へ、平気よ」
本当だろうか。白い頬をぷっと膨らませ、赤い瞳を泳がせつつも、彼女は頷いた。そこで、おれは街を騒がせる「吸血鬼」の話をした。もちろん、本当にそんな化け物がいるわけじゃない。若い娘ばかりを狙ってその血を――そして命を奪っていくという、恐るべき「殺人鬼」だ。街中がその話題でもちきりなのだが、きっとセシリアは知らないだろう。彼女は驚くほど世間知らずなのだ。お嬢様だからとはいえ、少々度が過ぎるとおれは思う。
「…………」
案の定、話を聞いたセシリアは顔を青ざめさせた。しまった脅かし過ぎた。おれは慌てて言葉を付け足した。
「大丈夫、警察が必死に犯人を捜してる。すぐに掴まるよ」
本当にそうなら、もうとっくに掴まっていてもいいはずなのだが。
「そ、そうよね」
ローイは大丈夫? と尋ねてくれる彼女に、おれは笑いかけた。
「おれは男だし――それにすばしっこいよ。そんなやつにつかまったりはしない」
「そう? それならいいけど……」
「セシリア」
おれは塀を少しだけよじ登り、手にしていたものを差し出した。たいしたものじゃない。赤い花。道端に咲いていたのだが、鮮やかな色が彼女の瞳に少し似ていたから。
「あたしに?」
セシリアは驚いたように目を見開いて――その白い手を伸ばし、受け取ってくれた。だが、彼女が手にすると、その花はひどくみすぼらしく見える。おれは恥ずかしくなって、目を背けた。何をやっているんだろう、おれは。
「それ、捨ててくれていいから!」
「あ、ローイ……」
後も見ずに駆け出す。
わかっている。おれは親もいないストリートチルドレンで、靴磨きが生業だ。一方のセシリアは、こんな大豪邸に住むお嬢様。きまぐれにおれに構ってくれているだけだ。わかっている。
でも、それでもおれは――セシリアに、会いたかった。あんまりきれいだから。その顔も、言葉も、そして心も。純粋で、真っ直ぐで、まぶしかった。
セシリアには両親がいないのだという。おれもそうだというと、同じね、と優しく微笑んでくれた。でも、あたしにはアンドリューがいるのよ、と彼女は言う。アンドリュー? 尋ねたおれに、彼女は肩をすくめてみせる。意地悪な執事なの。でもお料理が上手で、頭が良くて、とても気が効くのよ。意地悪なのは、きっとあたしを甘やかさないためなんだと思うわ。セシリアが口にする名前は、ほぼそいつのものだけだった。親代わり、というやつか。そいつが、セシリアを外に出さないようにしているのだろうか。まだ見ぬその男にいらだちながらも、結局おれはそいつのことばかりの彼女の話に、相槌を打つよりほかなかったのだった。
セシリアにヴァンパイヤの話をした数日後の夜。いつものねぐらで丸まっていたおれの耳に、かすかな悲鳴が届いた。おれのいるのは、教会の中だ。牧師がおれを知っていて、いつも礼拝堂の鍵をあけていてくれる。ここに掛かった絵の中の天使がセシリアそっくりで――いや、それはいい。今はこの悲鳴の方が問題だ。
「…………」
無視しようかなとも思ったのだけれど、結局のところ好奇心の方が勝ってしまった。本当に危なさそうなら、逃げよう。心に決めて、礼拝堂を抜け出す。
外は真っ暗だった。霧が出ているのか、街灯もひどくぼんやりとしか光っていない。さっきの声はどこから――辺りを見回した時、再び叫び声。おれはその方角に駈け出して――そして、ぴたりと足を止める。
「……うそ、だろ」
目の前の光景が、信じられなかった。狭い路地の奥、石畳の上に、安っぽいドレスを身にまとった女がひとり、倒れている。それはいい。問題は、その隣に立っている黒い影――フードをかぶった、背の高い男のように見える。そいつは手にきらめく透明な瓶のようなものを持っていた。中で揺れているのは、赤い液体。顔を上げた男が、おれを見てにやりと笑った。
「――――!!」
おれは慌てて踵を返して逃げ出す。あの瓶の中に入っていたのは、多分血だ。あいつが、ヴァンパイヤなのだ。女の血を集めて何をしているのかはわからないが、ろくでもないことだってことは馬鹿なおれにもわかる。そして、目撃してしまったおれを逃がしてくれないであろうことも……。
「ぼうや」
声と同時に、おれの身体はがくんと止まった。――足が、動かない。振り返ると、男がおれのすぐ背後に立っていた。足音も気配も、何にもしなかったのに! どっと背中に冷や汗が流れる。
「お、おまえ……」
男が抱えている、おれの腕ほどの大きさのある瓶。中で揺れているのは間違いない、血だ。
「血なんか集めてっ……どうす……」
男はふ、と笑った。
「そうだな、お前も材料に使おうか」
――材料。人間に対して使われるものではないその単語に、おれは総毛立つ。
「ただ殺しはしない――わたしの役に立ってもらおう」
そう告げる男の掌が、眼前に迫って――!!
「よう。久しぶりだな、ヒース・レヴァイン」
鋭い声が、夜を裂いた。男がばっとおれから離れる。
「――おまえか」
苦々しくつぶやかれる声。
「何の用だ」
男とおれに近付いてくる、ひとりの若い青年。場違いな笑みを浮かべ、おれを見つめる。
「おまえを助けてやらないと、お嬢様に恨まれる」
「……は?」
「それと、ヒース。おまえをこれ以上野放しにしておく訳にはいかない」
訳のわからないことを言ったその青年は、男に向かって不敵な笑みを浮かべた。
「ところで、『ゴーレム』は完成したのか? まあ、何度も何度も血を求めている辺りを見ると――駄目なんだな」
「今度はこのがきの臓物も使う! そうすればきっと――」
「おまえには無理だよ、ヒース」
青年は自分よりずっと年上のその男を、馬鹿にしたようにせせら笑った。
「おまえにはそんなだいそれた魔術は使えない。それほどの能力はない」
「――ちっ」
「それに」
彼はぽつり、とつぶやいた。
「魔術の時代は終わる。魔術などという個人の資質に左右される不確定なものじゃなく……いずれ、『科学』とやらに取って代わられるさ」
「諦めんぞ」
ヒース、と呼ばれるその男は、煮えたぎる瞳で青年を睨みつけた。視線で人が殺せるなら何百回でも殺してやる、そんな血走った眼差しだった。
「おれは必ず『ゴーレム』を作り上げる。そうすればもう死ぬことはない。おれは『あいつ』を失わずに済む――!!」
「それは無理だ」
呪詛のようなその言葉を、青年はあっさりと遮った。
「おれたち魔術師には『生命』は作れない。所詮、全ては紛いものに過ぎない」
「おまえにそんなことをいう権利があるのか、アンドリュー・ウィザードリィ」
ヒースは哄笑した。――アンドリュー……ウィザードリィ?
「『人形使い』のおまえに、おれは責められん――!!」
「少なくとも、おれはそんな野蛮なやり方はしないぜ」
彼は平然と返した。
「まあいい。さっさとけりをつけようぜ、ヒース。おれに勝てると思うのなら」
――闇の中で黄金がふたつ、ぎらりと光った。彼の、目だ。
「やってみるがいい」
――何が何だか分からないうちに、決着がついていた。ヒースという男はそこでぐったりと伸びているし、アンドリューとかいう若いのは、男が持っていた瓶を取り上げて中身を川にぶちまけてしまった。赤い液体が川面に吸い込まれ、広がり溶けていく。そして何事か囁いたかと思うと、瓶がぱっと細かい破片に変わって、そしてそれらはきらきらと石畳の上に降り注いだ。
「……あんた」
ようやく、声が出る。
「何者だ……?」
アンドリューは静かに微笑んだ。
「ウィザードリィって、言ってたよな? セシリアの家族なのか? あいつの言ってた執事のアンドリューってのはおまえのことか? それに魔術って、おまえら」
「ローイ・ハウエル」
アンドリューはおれを遮った。
「質問が多すぎる」
「…………」
何故、おれの名前を? 気圧されたおれに、アンドリューは軽く手を振った。
「気にするな。おまえは悪夢を見たんだ、それだけだ」
「気にするなって言っても」
「忘れさせてやってもいいんだが――」
アンドリューはふ、と笑った。
「お嬢様のことまで忘れさせては、彼女が寂しがるしな」
「――あんた、セシリアの」
アンドリューは突然、優雅に一礼してみせた。顔を上げた時には、まるで別人のように穏やかに微笑んでいる。
「わたしはただの執事ですよ、ローイ・ハウエル。ウィザードリィ家に仕える、アンドリュー・スコットと申します」
けろりと、彼は今までと全く違う口調でそう言った。その変わり身の速さに――こいつは悪党だ、とおれは確信する。ストリートチルドレンの勘を舐めてもらっては困るのだ。
それに、彼の名乗った名前は男が先程呼んだそれとは姓が違う。だが、おれはそのことについては触れなかった。なんとなく、その方がいいような気がして。
「助けてくれて、ありがとう」
セシリアにはこの話はしないよ、というと彼は苦笑して頷いた。
「魔術って……本当にあるんだな」
つぶやくと、アンドリューはおれを見下ろして微笑んだ。
「夢ですよ」
「…………」
答えないおれに、アンドリューは言う。
「ローイ、きみが望むなら、だけれど……うちの庭師がひとり、見習いを探していた。きみを推薦してあげようか?」
「庭師?」
「ええ。住み込みで、弟子入りしてくれる子を探していました」
「…………」
口封じとしては、最高の申し出だ。おれは頷いた。
「お願いします。……ミスター・スコット」
おれの返事を聞いた彼は、満足げに笑った。
夜更け前の街を、おれたちは並んで歩く。アンドリューは小柄なおれに合わせるように、ゆっくりと歩んでくれた。
「……お嬢様に近付くなって、言わないのか」
おれの問いに、アンドリューは別に、と首を横に振った。
「きみはお嬢様にとって初めての友人だ。屋敷には大人しかいないからね」
「友人?」
驚いて声を上げたおれに、アンドリューは不思議そうに言った。
「違うのかい?」
「……あんたがそう言うなら、そうなんだろう」
おれは照れくさくなってそっぽを向く。横顔に、少し鋭い、探るような視線を感じた。――大丈夫だよ、おれは分を弁えている。彼女が「あんたのお嬢様」だってことは、わかっているさ。それに、たぶん彼女は……。
ヒースは言った。アンドリュー・ウィザードリィは、「人形遣い」だと。
少しずつ、霧が晴れていく。
「聡いがきだな」
不意に、アンドリューが言った。執事の仮面の裏の顔が垣間見える。
こうして、おれの淡い初恋は始まることもなく終わった。
セシリア・ウィザードリィ。
人為らぬ存在である彼女のしあわせを、おれはこれからも願い続けるだろう。