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Luna, the cat

 あったかくて、ふわふわしていて。黄金色の毛並みに青い目を持つその生き物は、とてもとても可愛らしかった。
 あたしの手におとなしく抱かれ、小さな声でみい、みい、と鳴いている。
「アンドリュー……」
「……飼いたい、のですか?」
 この屋敷の主はあたしのはずなのだけど、実のところあたしにはなんの力もない。あたしをお嬢様と呼び、あたしに仕えているはずのこの男――アンドリュー・スコットこそが、この屋敷を取り仕切っているのだ。そんなことは、あたしにもちゃあんとわかっている。
 アンドリューはあたしの腕の中のその子を見下ろし、ため息をついた。
「その猫をどこで?」
「庭で見つけたの」
 彼は怒ってはいない。そのことを確信して、あたしはほっとした。
「親は見当たらなかったのですか?」
「そうよ。ひとりで鳴いてたの」
「…………」
「リズにお願いしてホットミルクを作ってもらったらたくさん舐めてたわ。お腹が減っていたのだと思う」
「……そうですね」
 不意に、小さな唸り声が響いた。見下ろすと、やわらかな毛並みが逆立っている。この子、アンドリューを睨んでいるのだわ、と気付いてあたしは慌てた。この屋敷で彼に逆らうなんて、あってはならないことなのだ。
「…………」
 アンドリューは目を細めてあたしと――そして未だ荒い息をついて彼を威嚇しているこの子を見遣った。
「……お好きになさい。ちゃんと、お嬢様自らお世話をなさるのですよ」
「いいの?!」
「捨てて来なさいというのも寝覚めが悪いでしょうが?」
 驚いて叫ぶあたしに、アンドリューは苦笑した。
「ありがとう、アンドリュー!!」
 あたしはその子を床に下ろし、アンドリューに飛びつく。彼はやれやれ、といった様子でいつものようにあたしの髪を撫でてくれた。
 子猫は変わらず――アンドリューに唸り続けていたけれど。

 あたしはその子にルナという名前をつけた。金色の毛並みが丸くなっている様は、まるで月のようだったから。
 ルナはあたし以外の誰にも懐かなくて、ずっとあたしの部屋にいて、あたしにまとわりついて離れない。他の誰かが近付こうものなら、毛を逆立てて飛び離れるのだった。それはアンドリューに対しても同じだったから、彼は苦笑を浮かべてルナを見ていた。
「ルナはお嬢様には気を許しているのですね……」
 アンドリューはつぶやく。あたしの足元ではルナがミルクを舐めていて、あたしはアンドリューの切り分けてくれたガトーショコラを食べていた。このケーキを食べるときは、あたしは必ずホットミルクを飲むことに決めている。ルナと同じものを飲んでいるのが、何だかうれしい。
 あたしはふと思い出して、アンドリューに尋ねた。
「そういえば、ニーナの傷は大丈夫?」
「ええ」
 アンドリューは頷いた。
「そもそもが浅い傷でしたから、跡も残らないでしょう。既に仕事に戻っていますよ」
「良かった」
 あたしはほっと息をついた。数日前、メイドのニーナがあたしの部屋を掃除する時に、ルナを撫でようとして引っかかれたのだ。あたしは慌ててルナを叱り、彼女に謝った。それなのにルナは知らない顔で顔を舐めているのだから、本当に困る。
 ルナに攻撃されたのは、ニーナだけではない。他にも何人かが噛まれたり、引っかかれたりしている。ルナはかわいらしい姿をしているから、つい皆構いたくなるのだろう。でも、ルナの方は、どうやらそれを望んでいない。
「……ルナは、人間が嫌いなのかもしれないな」
 ぽつり、と独り言のようにアンドリューがつぶやいた。あたしはあれ? と思う。あたしだって、人間だ。それとも飼い主だから特別だということなのだろうか。
 不思議そうに彼の顔を眺めていると、アンドリューはちらりとあたしを見遣り、そうしていつものうさんくさい笑みを浮かべて見せた。
「お嬢様も、これで子供を育てるということの難しさがお分かりになるでしょう?」
「……それ、どういうこと?」
 むっとしてあたしは聞き返した。――それって、アンドリューがあたしを育てるのに苦労しているってことなのかしら? 本当に無礼な執事だ。
「失礼」
 アンドリューが目を細め、ナフキンを手にとってあたしの口元を拭いた。
 フウウウウ、とルナが唸る声。アンドリューがルナを見下ろして――すると、ルナはびくりと怯えたような顔をして、部屋の隅に隠れてしまった。やっぱり、ルナもアンドリューが怖いのだと見える。
 
 そんな、可愛らしくて困った子猫ルナとの日々は――唐突に終わりを告げた。

 ある朝、あたしが目を覚ますとルナは部屋の隅に縮こまっていた。
「ルナ……?」
 いつもなら、あたしが近付くとすぐに駆け寄ってきて足の指をくすぐったいくらいに舐めるのに。いたずらな爪で、あたしのネグリジェのすそをひっかくのに。
「ルナ、どうしたの?」
 冷たい床に裸足で降りて、あたしはルナに駆け寄った。黄金色の毛並みに手を伸ばして――。
「?!」
 びく、と手を引っ込めた。冷たい。床と同じくらいか、床よりもずっと、冷え切っている。あたしは慌てて腕の中に抱え上げた。何だかいつもよりずっしりと重い。それに、腕の中で揺さぶってもルナはぴくりとも動かない。
 たいへんだ。
 あたしはルナを抱えたまま、アンドリューの部屋に走った。
「アンドリュー、アンドリュー!!」
「お嬢様?」
 彼の自室に駆け込むと、アンドリューは驚いた顔であたしを出迎えた。
「そんな格好で、いったい」
「ルナが……ルナが!」
 あたしはルナをアンドリューに押しつける。彼はルナに視線を落とすと、途端に険しい表情になった。長い指先がルナのあちこちを探る。あたしはただ、それを黙って見ているしかなかった。
「…………」
 ――おかしい、と思った。ルナは、アンドリューに触られているというのにこんなにもおとなしい。普段なら悲鳴を上げて逃げ回るはずなのに……。
「セシリアお嬢様」
 アンドリューはルナを片手に抱え、もう片方の手をわたしの頭上に置いた。
「ルナは……」
 彼の瞳に、あたしのこわばった顔がうつっている。
「神様のもとに、召されたようです」
「え……?」
 ――何を、言っているの?
「お嬢様」
 アンドリューは腰をかがめ、あたしの目を真っ直ぐに見つめた。
「ルナが、し」
 喉が、ぐっとつまった。
「死んでるって、……いうの……?」
「…………」
 アンドリューは――信じられないことに、はっきりと、うなずいた。
「うそ」
「お嬢様」
「うそよ!!」
 アンドリューの手からルナを取り返そうとする――でも、できなかった。手が震えて、ルナを抱いてあげられない……。
「なんで」
 ぽろぽろと、涙がこぼれた。
「なんで……昨日まで、元気で……っ」
「それが」
 アンドリューの声は、厳しくて――でも、やさしくて、あたたかかった。
「いのちというものなのですよ」
「…………っ」
 あたしはアンドリューをじっと見つめた。黄金色の瞳が、瞬きもせずにあたしをうつしている。
 震える唇を無理に開いて、あたしは言った。
「…………せて」
「え?」
 今度は、はっきり言えた。
「ルナを生き返らせて……できるでしょ?」
「…………」
 その瞬間のアンドリューの眼の色を、あたしは忘れないだろう。燃えるような、それでいて凍りついたような、不思議な色であたしを見下ろしていた。
「お嬢様、一体何を……」
「あたし、見たもの。お父さまたちの書斎にたくさんご本があったわ――あれ、魔法のご本でしょ?」
 ひどくこわばった顔であたしを見るアンドリューのことも、今は怖くなかった。だって、あたしはルナを失いたくない。
「何でもするわ。あたし、とびきりいい子になる。アンドリューの言うこと、全部聞く。だから」
「お嬢様」
「おねがい、おねがいよアンドリュー」
 あたしはアンドリューの腕にしがみつく。
「できないの? できないんじゃないわよね? だってアンドリューは魔法使いだもの」
「お嬢様!」
「ローイだって言ってたわ、アンドリューは本当は“まじゅつし”かもしれないんだって。それって魔法使いのことでしょう?」
「――あのくそがき」
「え?」
「いえ……お嬢様」
 アンドリューは大きく息をつき、あたしを優しく見つめた。
「わたしはただの執事ですよ、セシリアお嬢様。魔法使いでも、魔術師でもありません」
「うそ」
「嘘ではありません。わたしはお嬢様に嘘をつきませんよ」
「……うそ」
「お嬢様」
 アンドリューはあたしの濡れた頬をハンカチで拭った。おだやかな微笑みが、あたしの気持ちを少し、落ち着かせてくれる。
「生命あるものはみな、いずれ死ぬ運命なのです。誰も、その運命から逃れることはできません。わたしも、そしてお嬢様も」
「…………」
「でなければ、わたしはあなたのご両親を生き返らせていましたよ?」
 それに――あなたをわたしの呪いに巻き込むわけにはまいりませんし。
 後半がよく聞こえなかったのだけれど、アンドリューの声があまりに苦しそうだったから、聞き返せないままにあたしは目を伏せた。そうか、アンドリューはあたしのお父さまやお母さまを知っているんだ……。
「…………」
「お嬢様」
 うつむいたあたしの頬を両手で包み、アンドリューはあたしの顔をのぞきこむ。
「ルナは我々には決して懐かなかった……もしかしたら人間にひどい目に遭わされて、それで人間のことが嫌いだったのかもしれません。そんなルナが、お嬢様にだけは心を開いた。その事実を、大事に心にとめておいてくださいね」
 ――あたたかい手。あたしはまた、泣いてしまう。
「……あの、……あのね」
 腕を広げて抱きつくと、アンドリューは優しくあたしを抱きしめてくれた。
「ルナ、……ルナだけだったの。あたしがいないとだめだって、ルナは、……ルナだけは」
 ――この世界で、この子だけはあたしがいないと生きていけないのだと。あたしはそう思っていた。あたしが皿を差し出してあげなければルナはミルクを飲まなかったし、あたしの近くでしかルナは眠らなかった。だから、ルナにはあたしが必要なのだと――ルナだけは。
 わかっているのだ。あたしがいなくなったって、この屋敷は何も困らない。アンドリューさえいれば大丈夫なんだって、ちゃんと知っている。それでいい。あたしは何も知らない、できない、ただの子供だから。ちゃんと、わかっている。
 だけど――ううん、だからこそ、あたしを必要としてくれるルナがかわいらしくて、いとしくて。
「お嬢様」
 耳元で低く響く、アンドリューの声。
「ルナは確かに、あなたを必要としていたでしょう。でも」
 大きな手が、あたしの背中をゆっくりと撫でている。
「ルナだけがあなたを必要としているわけでは、ないのですよ……?」
「え?」
「お嬢様、お忘れですか?」
 アンドリューがあたしの肩に手を置き、あたしをじっと見つめた。
「わたしは、お嬢様の執事ですよ? お嬢様がいなくては、つとまりません」
「…………」
 あたしはぽかんとした。――アンドリューは、一体何を言って……?
「お嬢様あってのわたしであることを、お忘れになりませんように」
 アンドリューの唇があたしの手に落ちる。それを、あたしはびっくりしながら眺めていた。

 庭師見習いのローイにお願いして、ルナのお墓を作ってもらった。そういえば、最近ローイはアンドリューにやたらと怯えているようだけれど……何故なのかしら。
「薔薇を植えたよ」
 ローイはお墓を指差し、そういった。
「どんな色の薔薇が咲くかは、お楽しみだ」
「青よ」
「あお?」
 すぐに答えたあたしに、ローイは目を白黒させた。
「青い薔薇なんて、そんなの……」
「だって、ルナの目はきれいなきれいな青い色だったもの」
「…………」
「だから――」
「そうだな」
 ローイはほほえんで、うなずいてくれた。
「きっと、そうだ」
「……ありがとう」
 ルナは、天国で誰かの隣に寄り添っているだろうか。もう、誰かを唸ったり、ひっかいたりはしていないだろうか。ひとりぼっちではいないだろうか。そして……ママには、会えただろうか。
 ママ。あたしにはいない。でも、いなくたっていい。さびしくなんてない。
 突然、あたしはアンドリューに会いたくなった。アンドリュー。あたしの執事に。