Lumiere De Elucian II
その方に会うのはまだ二度目なのだけれど、先方はまるでずっと昔からの知り合いみたいにあたしを扱った。
「甘いものが好きだと聞いたから、いろいろ集めたんだよ。好きなだけ食べるといい」
「……でも」
あたしは肩越しにちらりと振り返った。そこには、あたしの執事――という名のお目付け役、アンドリューが佇んでいる。ウィザードリィ家の応接間の、何倍も広くて何倍も豪華なお部屋。あたしは正直少し気圧されてしまっていたのだけど、アンドリューは平然として見えた。
「あんまりたくさん食べたら、ディナーが入らなくなってしまうわ」
「ああ、今日一日くらい」
目の前の彼は、ひらひらと手を振る。繊細な刺繍の施された、ふわりと広がる白い袖。そこから伸びるほっそりとした手は、まるで女の人のもののよう。
「構わないだろう? アンドリュー。せっかくこうやってお会いできたんだもの。な?」
「……お嬢様」
アンドリューは一瞬、苦虫を噛み潰したような顔をしたけれど、すぐにいつもの笑顔を取り戻した。
「今日はディナーのご心配はなさいますな。殿下もああ仰っておいでですから」
「そう?」
あたしはちらちらと、目の前に置かれたケーキやチョコレートのお皿を見ながら、彼に念を押した。
「ほんとうに、ほんとうね? 家に帰ってからお仕置きとか、そんなの嫌よ」
その言葉を聞いた殿下――リュミエール・ド・エルシアン王子は、ぷっ、と噴き出した。
「大した性悪だな、アンドリュー! 傑作だよ」
「セシリアお嬢様……」
アンドリューは嘆息し、そしてにっこりと微笑んだ。だが、その金色の目は笑っていない。
「帰ってから、ゆっくりお話しましょうね。もちろん、お仕置きなど致しません」
「……はい」
あたしは小さく体をすくめ、おとなしく頷いた。
ひと月ほど前、リュミエール殿下からお茶会の招待状が届いた。あたし宛てに、だ。殿下とアンドリューは以前からの知り合いらしいが、詳しくは知らない。あたしはというと、以前晩餐会で簡単なご挨拶をしただけである。今回のお茶会は二人で、とのことだったから、あたしは驚いた。自分でいうのもしゃくだけれど、あたしみたいな子供に殿下は一体何の用があるというのだろう。
「アンドリューを呼びたいのかしら?」
あたしの髪を梳かしていたアンドリューは、まさか、と言った。
「殿下はお嬢様にお会いになりたいのでしょう」
「どうして?」
鏡越しに彼を見上げる。アンドリューは少し困ったように笑っていた。
「お嬢様は――お可愛らしいですからね」
「はっ?」
「リュミエール殿下は今年二十歳。少しばかり年が離れすぎているとは思うのですが……心配です」
「馬鹿なこと言わないで」
あたしはアンドリューを睨んだ。ああ、でもこんなに頬を赤くしてちゃ意味がない。
「そんな下世話なこと、殿下に失礼よ」
「お嬢様が可愛らしいと申し上げることの何が下世話なのでしょう」
「それはもういいから!」
今度こそ真っ赤になったあたしは、目を伏せた。リュミエール殿下のことより、アンドリューに可愛いって言われることのほうが何倍も恥ずかしい。アンドリューはくすくすと笑って、そうしてあたしのブロンドの髪にそっと唇を寄せた。
「ご気分を害されましたか? 決してからかったわけではないのですが……」
あたしは黙って答えない。アンドリューはまるで秘密の呪文でも唱えるように、そっと囁いた。
「貴方をお守りしますよ、お嬢様――わたくしの全てをかけて」
そうして、あたしは殿下のお茶会に出掛けることになったのだった。
リュミエール殿下は上機嫌ににこにこ笑いながら、あたしがチョコレートを頬張るところを眺めている。なんだかペットを見つめる飼い主みたい。あたしは思わず顔をしかめた。
「苦かった? なら、ミルクティーを飲むといい」
屈託なく勧める彼に、あたしは曖昧に微笑む。
「いえ、とても美味しいですわ」
「そう? それならいいけど」
殿下はベリーのたっぷり載ったパイを頬張った。流れるような所作はさすがに上品で、美しい。
「殿下」
不意に、アンドリューが声を上げた。
「少し、お暇しても?」
「うん」
殿下はあっさりと言った。
「いいよ。行ってきて」
「アンドリュー?」
あたしは振り返る。アンドリューはあたしを見ると、いつも通りに微笑んでくれた。でも、少しいつもより表情が固いような……。
「少しばかり、離れます。よろしいですね?」
「え、ええ。でも」
どうして先に殿下に声をかけたの? ――とは聞けなかった。貴方はあたしの執事なのに。何故、先に殿下に許可をとったの? 殿下の身分なんて関係ない、アンドリューはあたしの執事なのだ。あたしのものなのに。
「お嬢様」
アンドリューは俯くあたしに歩み寄り、跪いてあたしの両手の甲に順に唇を寄せた。柔らかな、少しだけ冷たい感触。
「すぐ戻りますから」
「……すぐ、よ」
あたしはじっとアンドリューを見つめた。
「でないと、明日の朝ごはんだって食べられないくらい、お腹いっぱいお菓子食べちゃうから」
「はい」
穏やかなアンドリューの笑顔。あたしはほっとして、立ち去る彼の背中を見送るのだった。
その後も、殿下とは他愛ない話をした。好きなお菓子の話とか、音楽のこととか、本のこととか。殿下は驚くほどいろんなことをご存知で、あたしは全然退屈しなかった。時々アンドリューの話も出て、彼が時々お手製のケーキを焼いてくれるのだというと、殿下はその鮮やかな青い目を意外そうにまん丸くして、それから愉快そうに笑っていた。
ローイの話もした。ふとしたきっかけから知り合った、あたしの少し年上の、庭師見習いの男の子。お屋敷にはずっと大人たちしかいなかったから、同年代の存在はあたしにはすごく新鮮だった。
殿下はそれを聞いて優しく笑った。
「その少年は、まるで君のお兄さんのようだね」
「お兄さん?」
聞き慣れない言葉だった。
「そう」
殿下は目を細め、どこか遠くを見つめている。何かを、思い出そうとするかのように。
「僕にもね、兄がいたんだよ。今はもう、いないけれど……」
「…………」
それはどういう意味だろう。あたしは戸惑って殿下を見つめる。言葉通りに受け取れば、何か不幸があった、ということだろう。病気だとか、怪我だとか……? 不躾なことを尋ねるわけにはいかないから、あたしはただ黙って、目の前のミルクティーをすすった。
「君はいい子だね、セシリア」
殿下はやがてぽつりとそう言った。
「アンドリューの教育の賜物かな?」
「あたし、そんなにいい子じゃないと思います」
別に悪いことをしているつもりはないから、悪い子ではないとは思うけれど。そもそもいいも悪いも、誰と比べればいいのかわからない。あたしはただ、普通にしているだけだから。
「あたしは、普通です」
「……そっか」
殿下はあっさりと頷き、そうして言葉を続けた。
「また、ちょくちょく遊びに来てよ。セシリア。君と話していると退屈しないし、楽しい」
あたしは澄ましてお返事をした。
「あたしで良ければいつでも、殿下」
「何なら、今度はその、庭師見習いの子も連れてきて」
「……殿下にお会いするなんて、ローイ卒倒しちゃうかも」
あたしはくすりと笑った。ローイは明るくて物知りで、あたしなんかよりずっと頭の回転も早いから、きっと殿下の話し相手にもいいだろう。彼はきっとものすごく緊張するだろうけれど。
「そんなに畏まる必要はない。よろしく伝えておいて」
あたしはうなずいた。
そういえば、アンドリューはまだ戻らないのだろうか。一体、どこで何をしているのだろう。
こんなにも長い時間あたしを放ったらかしにするなんて、執事としてあるまじきことだと思う。――帰ってきたら叱らなくちゃ。少なくとも、あたしがうっかりお菓子を食べ過ぎたことくらいはちゃらにしてもらわないと困る。
ああ、でも本当に――早く帰ってきて欲しい。
× × ×
「全く、人使いの荒い王子様だ」
おれはため息をつき、ひとりごちた。おれの足元には縛りあげた男女が数人――格好は皆、城の使用人である。正真正銘、今の今までこの城に仕えていた者たちだ。無論縛ったのはおれで、ついでに手足がやや妙な方向に曲がっていたり、顔が腫れたりしているのも、おれの仕業である。咬ませている布の隙間から何かしら呻いているが、おれは無視した。聞かなくともだいたい何が言いたいかはわかるし、わかったところでおれに何の感慨ももたらさないだろうからだ。
こいつらは皆、協会の手のものである。つまりは――魔術師だ。
王家は、一部の血筋の間で密やかに伝えられてきた魔術を禁じようとしている。魔術師を罰するのではない。ただ、魔術の使用を禁じているのだ。魔術師の特権階級を剥奪し、あくまで一市民としての扱いにする。魔術の使用痕跡が認められれば、その使用した魔術に応じて罰金や禁錮刑が下される。やや煩雑ではあるが、魔術を封じる術というものや、その人物から記憶から魔術に関することを消し去るような術を掛けることもできる。まあ、それはほとんどがおれの仕事だ。ひどく疲れるから、あまり好んでやりたくはないのだが。
まあ、大多数の市民にとってはなんの関係もない話だ。彼らにとって、魔術など伝承の中のお伽話に過ぎない。ここ何世紀も魔術師は表立って歴史に登場していない。彼らはその時々の権力者に追従したり敵対したりしながら、自分たちの地位を守ってきたのである。王家にとって、それが面白いものかどうかというと――無論、否だ。特に、リュミエールには個人的にも魔術師への怨みが……。
「ウィザードリィ……!」
ひとりの男のさるぐつわが外れたらしい。地を這うような、低い呪詛の声が響いた。
「裏切り者め……ただで済むと思うな」
その男は料理人の格好をしていた。おれはそれを見下ろし、うっすらと笑う。
「へえ? おれを、どうしてくれるって?」
「お前がお前以外の魔術師を根絶やしにしたとして――」
男は赤と青のまだらな色に腫れ上がった瞼の下から、おれをじっと睨みあげる。
「最後に残るお前を、やつらがそのままにしておくか? お前がいる限り、やつらの目的は達成されないのだから、きっと生かしてはおかないぞ――」
おれは鼻で笑った。
「おれはもう、一度死んでいる」
アンドリュー・ウィザードリィは死んだ。今ここにいるのは彼の亡霊――「セシリア・ウィザードリィ」のためにだけ存在している、亡霊。
「詭弁だな、ウィザードリィ」
「かもな」
おれはあっさりと告げ、そうしてふ、と鋭く息を吐いた。
この者たちから魔力を吸い出し、封じるのだ――セシリアの中へ。魔力を封じるより、そのほうが確実だし効率もよい。
そのために――城に入り込んでいる魔術師たちを一網打尽にするために、王子はおれたちを城に呼んだのだから。
城からの帰り道、私はセシリアに尋ねた。
「楽しかったですか? お嬢様」
「そうね。ケーキも美味しかったし」
馬車に揺られながら、彼女は眠たくなったのか私の肩にもたれかかった。疲れたのかもしれない。王子の前で、気を張っていたのだろう。
「でもね、あたし……」
長いまつ毛の下で、ルビーのような瞳が瞬く。
「アンドリューのケーキが一番好きよ」
「……光栄です、お嬢様」
「アンドリュー」
セシリアは、甘えるように私の名を呼ぶ。小さな手が、私の袖をぎゅっと掴んでいた。
「アンドリューは厳しいし、時々すごく意地悪だし、あたしを子供扱いするし。でも」
彼女は顔をあげない。
「でもね、アンドリュー。絶対にあたしを見捨てないでね。ずっとずっと、側にいてね」
「……もちろんですよ、お嬢様」
私は微笑んだ。
「私のこの命が尽きるまで、お嬢様にお仕え致しましょう」
「あたしはアンドリューがいなくちゃ生きていけないわ」
セシリアはつぶやく。
「わかるもの」
「…………」
私はセシリアの髪を優しく撫でた。――この子がどの程度自分の運命について悟っているか、実のところ私にはわからない。いつか、すべてを明かすべき時が訪れるのかもしれない。
その時が来ても、彼女はやはりこうして私を慕ってくれるだろうか。私を拒絶しないでいてくれるだろうか。
「私の、親愛なるセシリア」
私はつぶやく。これから何があっても変わらない。貴方は、私のセシリアだ。
いつか、貴方が私を憎むようになったとしても――それだけは、変わらない。