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第四章 戦場之姫 – 四

 戒絽に向かった軍からの戦況の報告を待っていた伶明らにとって、広陵の使者がもたらした蒐原の進軍の知らせは、まさに寝耳に水であった。
「そ、それはまことか?!」
 思わず色をなした伶明に、使者は深くうなずく。
「今頃、我が軍と交戦している頃ではないかと……」
 使者は、土毅が蒐原の動きを知り、興につくことを決意してすぐに派遣したものである。伶明はすぐさま問いを重ねた。
「交戦とは、蒐原は広陵にも進軍したのか?」
「いいえ。蒐原が向かっていたのは興との国境」
「では何故、広陵が……?」
「それは」
 使者はすぐに答えた。あらかじめ回答が用意されていたかのようですらある。
「我が王は、先の皇帝と広妃さまが築かれた絆を大切にしたいとお考えですから」
「…………」
 広妃。その名を聞いた伶明の脳裏に、華星の面影が浮かんだ。伶明はぽつり、と尋ねる。
「我が義母と義妹は――無事に過ごしていますか」
「は……」
 その皇帝らしからぬ様子に、使者が戸惑いながらもうなずくと、伶明はほっとしたように息をついて身を引いた。張皓が場を取り繕うように咳払いをし、口を開く。
「わざわざお伝えいただいたこと、感謝致す。しばしゆるりと旅路の疲れを癒されよ」
 使者が退いた後、伶明は張皓に向き直った。既に、皇帝としての自分自身を取り戻している。
「蒐原のこと。どうする」
「広陵が我らの側に着いたのは不幸中の幸いでしたな」
 張皓は言った。
「広陵の王がどのようなつもりかはわかりませぬが、ひとまず時間稼ぎにはなるでしょう」
「国境に援軍を送り、広陵と共闘するか?」
「いえ……」
 伶明の問いに、張皓は渋い顔で首を横に振った。
「今我が国は戒絽とことを構えている最中。また、蒙當との情勢もいつ変わるかわかりません。同時進行で複数の国々と戦うのは避けたいところ。とはいえ、広陵が負ければ蒐原は予定通り我が国に攻め入ってくるでしょう。兵は送っておかねばならないでしょうな」
「すると、つまり……」
 伶明は色をなした。
「広陵が勝てばよし、負けるようならばそれまでそれを黙って見ていようということか」
「左様」
 張皓は悠然とうなずいた。伶明の怒りの表情を見て、言葉を足す。
「広陵が蒐原と戦になったのは、我らの知るところではありますまい。彼らは彼らの責任で兵を出したのです」
「しかし、先ほどの使者は」
 伶明は膝の上で手を組み、その上に視線を落とした。
「興との義理の為に介入したと――そう言っていたようだったが」
「…………」
 張皓は答えない。言葉に詰まったというよりは、答える必要すらないと感じているようであった。
「それに、広陵には未だ……」
 ――華星がいる。伶明はその言葉を飲み込んだ。
 彼女は今、どうしているのだろうか。無事で、元気でいるだろうか。国境付近で戦が始まってしまっては、しばらくは帰って来られないかもしれない。早く会いたいのに……。
「広陵は小国ですが、昔から戦には強い」
 張皓の声に、伶明は顔を上げた。
「蒐原とて、あの草原之民を簡単には打ち破れますまい。我らと戒絽との戦が終わった後であらば、援軍を送ることも可能かと」
「…………」
 伶明はため息をつく。
「わたしには――皇帝には、愛する者を迎えに行くことすら赦されぬのだな」
 できることなら今すぐ広陵に駆けつけ、この腕でしかと彼女を守ってやりたいというのに。
「国民の大多数は、陛下の施策によって愛する者どころか己の命の行方すら左右されるのです」
 張皓の声は厳かに響いた。
「今、戒絽と戦っている兵士たちも同じこと。……そのことを、ゆめお忘れになりませぬよう」
「……わかっている」
 伶明は勢い良く席を立つ。退き止められるかとも思ったが、張皓は何も言わなかった。
 ――皇帝とは、何だ。自分は、何だ。自分は何の為に存在しているのか。皇帝は何の為に存在しているのか。皇帝とはあくまで自分が務めている役職に過ぎぬのか、それとも自分は皇帝という存在のよりしろに過ぎぬのか。伶明はぎりと歯を食いしばった。
「わたしは……おまえのために皇帝になろうと誓ったはずであったのに……」
 思い描く華星の顔。それはいつも通り、寂しげに――儚げに微笑むだけであった。

  × × ×

 華星の立てた作戦が実行された、次の日の晩。濁流でもって蒐原の兵を押し流した川は、何事もなかったかのように静けさを取り戻している。
 不意を衝かれた蒐原は、一時退却した。しかし、再び進軍を開始するかもしれない――次は興に向かってではなく、広陵に向かって。
「華星」
 地図を睨んでいた彼女に、土毅は苦笑して声を掛けた。
「そんなに焦らなくてもいい。明日はまた会議を開く。何もおまえひとりがこの戦を背負うわけじゃないんだから」
「ええ……でも」
 振り向かぬ華星にため息をつき、土毅はそっと彼女を背中から抱き締める。
「土毅……?」
「ともあれ、おまえの策は上手くいった。ありがとうな」
「ま、まだ勝ったわけじゃないし」
 華星は頬を紅潮させ、目を伏せた。
「それに、わたしは何も……。本当に戦ったのは、土毅とか、広陵の方たちだもの」
「おまえだって、戦場に来たじゃないか」
 土毅の顎が、彼女の肩に触れる。
「皆、びっくりしていたぞ」
 華星は馬に乗れない。そんな彼女を土毅は己の馬に乗せ、背後に紐でくくりつけた。華星は彼の肩越しに戦場を俯瞰し、細々とした指示を出す。――兵たちもやがて気が付いた。戦を指揮しているのは、彼らの王だけではない。異国の小姫もまた、彼らを率いているのだということに。
「怒られなくて、良かった」
「怒られるわけないだろ」
 土毅は笑った。
「おまえ、意外に戦場が似合うみたいだな」
 振り向いた華星と、目が合う。
「次も、頼むぞ」
「…………」
 華星は微笑み、うなずいた。自分は必ず、広陵に勝利をもたらしてみせる。土毅を守るため。広陵を守るため。そして――哥哥を、故郷を、守るために。
「華星」
 気が付くと、土毅の顔が間近に迫っていた。身じろぎすらできないでいるうちに、唇が重なる。一瞬の接触の後、土毅はすぐに身を引いた。
「…………」
 再び、華星の顔が赤く染まる。土毅はそんな彼女を優しい眼差しで見つめていた。
「おまえは、かわいいな」
「な……っ……」
 俯いた彼女を抱き締め、土毅は耳元で低く囁く。
「おまえの哥哥には、返さねえ」
「…………」
 どきり、とした。哥哥を守りたいと――そう願っている胸の内を見透かされたようで、苦しくなる。
 しかし、彼女の髪に触れた土毅の手は、驚くほど優しかった。
「勘違いするなよ。おまえの大切なものなら全部、おれにとっても大切だ。皇帝も、広妃も、興も、全部。……だけど」
 華星は目を閉じ、彼の声に聞き入る。
「それは、おまえにしあわせでいて欲しいから。おまえのしあわせそうな顔を、おれが一番近くで見ていたい」
 彼の掌が、彼女の頬を包んだ。
「それが――おれのしあわせだからだ」
「……土毅」
 顔を上げ、間近で見つめ合う。彼の強い眼差しに、華星は視線を剥がせない。
 ――やがて、土毅は表情を緩めた。
「もう、今日は寝た方がいい。しっかり疲れを取らないと、頭が回らなくなる」
「あ……う、うん」
「璃春が待ってるぞ。ほら」
 土毅は先に立ち上がり、座り込んでいた彼女に手を差し伸べる。華星は大人しく彼に手を引かれ、立ち上がった。
「おやすみ」
 額に優しい口付けが降って来る。華星は目を閉じ、それを受け止めた。
「おやすみなさい……」
 目を開けると、土毅は少しだけ困ったように微笑んでいた。そっと彼女の背中を押す。
「じゃあ、また明日な」
「……うん」
 華星はうなずいた。
「また、明日」
 
「…………」
 己の包に帰って行く華星の背中を、土毅はただじっと見送っていた。

  × × ×

 広陵からの特使が来てから、半月――興と戒絽との戦は、思いのほか長引いていた。伶明は和平の道を画策するため、側近の文民である鵬嵩を派遣することを決めた。一方で、独立を宣言した蒙當との話し合いも続いている。恐らく、蒙當の独立を認めることになるだろう。あとはいかにこちらが優位に立てるように話を進めるか、だ。
 無論、広陵や蒐原の動静についても情報を集めている。攻め入ろうとする蒐原と、鉄壁の守りでそれを防ぐ広陵。勝利しても広陵は決して深追いをせず、非常に慎重な姿勢を見せていた。――確かに、広陵にとっては何の利点もない戦である。草原之民を称する彼らが、蒐原の領土を欲しているわけではないのだろう。ただ興と蒐原の戦を防ぐ、それだけの目的のようにも見えた。
 華星が広陵にいる――そのことが、伶明はずっと気に掛かっていた。いくら母の故郷とはいえ、彼女にとっては異国である。どのように過ごしているのか。どのような立場におかれているのか――。
 
 ある日、伶明に驚くべき情報がもたらされた。
「戦場に、だと……?」
 伶明は唖然とした。広陵との国境付近から戻ったその役人は、跪いたまま繰り返す。
「はい。華星さまが、広陵の王とともに戦場にて指揮を取っておられるとのことです。広陵の民からも、常勝をもたらす戦女神だと支持されているとか」
「馬鹿な!」
 伶明は思わず声を荒げていた。
「あの子は我が国の姫だぞ?! 広陵の王は一体、何を考えているんだ!」
「陛下、落ち着かれませ」
「これが落ち着いていられるか! 広陵は我が国を愚弄している!」
 口を挟んだ張皓を一喝し、伶明は拳を握り締める。
「戒絽との和平案をさっさとまとめろ。それから」
 何か言おうとした張皓を制し、伶明は宣言した。

「次の敵は、広陵だ――!」