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第四章 戦場之姫 – 十

 興の皇帝が、広陵の王と会見する――その事実は既に大陸に広く知られていた。はじめ、伶明は伏せることを望んでいたのだが、張皓はそれに反対した。
「総てを、利用するのです」
 己が目的のために、使えと。張皓はそう言った。
「しかし……」
 渋る伶明に、張皓は告げる。
「何も、陛下が義母上と妹君のお迎えに行くのだと、そう発表する必要はございませぬ」
「何?」
「大切なのは」
 張皓の細い眼が、光った。
「興と広陵の絆を、大陸に広く知らしめること――」
「…………」
 伶明は視線を床に落とした。張皓の言う意味を汲み取ろうと、頭を巡らせる。
「なるほど」
 やがて、彼は小さく笑った。
「周囲の国々への牽制、か」
「左様」
 張皓は恭しくこうべを垂れた。
 大陸一の強大な国であるという立場に胡坐をかいていた興が、四方の国々から一斉に牙を剥かれてから、未だ間がない。その窮地を救ったのは、他でもない広陵の存在であった。広陵には興ほどの国土も、民の数もない。定住を嫌う遊牧の民である彼らは、他の国々の目指す文明の方向とは、少し違う方向を向いて、独自の生活を変えようとしない。それでも、彼らは決してこの大陸の中で無視することのできない存在なのだった。
 今後とも、興は広陵と手を組む。それを明らかにすることは、むしろ広陵にとってではなく、興にとってこそ有益なのかもしれなかった。
「陛下」
 張皓の声に、伶明は顔を上げた。いつの間にか彼は真っ直ぐに伶明の瞳を見つめていた。冷たい情熱を宿した視線が、彼を射る。
「くれぐれも――己を見失いなさいますな。陛下は興の皇帝。そのお立場を、お忘れなさいますな」
「それは、どういう……」
「わたくしからご説明申しあげるまでもありますまい」
 動揺する伶明をよそに、張皓は淡々と言葉を紡いだ。
「今は、我が国にとって大切な時期。揺らぎかけた足場をしっかりと築き直し、近隣との安定した関係を今一度強固なものにせねばなりませぬ」
「……そのとおりだ」
 伶明はうなずいた。
「そんなことは、わかっている」
「そのお言葉を聞き、安心しました――」
 張皓は静かに、言った。
「どうぞ、ご無事で」

 ――車に揺られていた伶明は、ふと目を開けた。
「張皓も、悟っているのだな」
 口元に、寂しい笑みを浮かべる。
 草原之王は戦が終わった後も華星らを送り返さず、逆に皇帝である彼を国境に呼び寄せた。その意味に気がつかぬほど愚かな伶明ではない。

 草原之王は、返したくないのだ。華星を。戦場の女神を。

 晶香の言葉を思い出す――姐姐は、哥哥が思うように無理やり戦場に出されているわけではないと思います。そんな、弱いひとではありません。
「……ああ、知っていたさ」
 伶明は掌で顔を覆った。
「誰よりも、わたしが一番近くにいたのだからな――」
 知らないふりをしていた。気付かないふりをしていた。華星の内に眠る、もうひとりの彼女。真実の彼女。気弱に、控えめに見せる笑顔の裏側には、いつだって鋭く研ぎ澄まされた知性が眠っていた。きっとその存在には、彼女自身もはっきりとは気付いていなかったに違いない。伶明はうすうす感じとっていたが、できることなら眠らせたままでいたかった。華星にはそんなものは必要ないと――しかしあの男は、草原之王は違った。
「わからない……」
 あの男は、華星をどうしたいのだろう。彼女を、どう想っているのだろう。
「確かめなければ」
 伶明はつぶやいた。――今はもう、華星の表情が浮かばない。どんな顔をしているのか、全く想像がつかないのだった。

  × × ×

 そして土毅らに遅れること数日。興からの一行が、国境に到着した。
 空は既に夕暮れ。赤く暮れる空を背景に、烏が声も立てずに飛び交っている。
「…………」
 それをぼうっと見上げていた華星の肩に、土毅の手が触れた。
「どうした?」
「哥哥が……」
 その顔は嬉しそうでもあり、悲しげでもあり、そして何よりも――。
「不安か?」
 尋ねた土毅に、華星は小さくうなずいた。
「何が、不安なんだ」
 土毅は優しく問いかける。華星は俯き、やがて口を開いた。
「……わたし」
 華星の表情は、まるで泣き笑いだった。
「哥哥に、嫌われたくない……」
「…………」
「わたしの願いは、土毅の側にいること。土毅とともに生きること。だけど」
 胸の前で握った拳が、小さく震えている。
「哥哥は、わたしの家族なの。たったひとりの、哥哥なの」
「……ああ」
 土毅は彼女の肩を抱き寄せた。
「わかっているよ」
「土毅、」
「だからこそ、おまえの哥哥をここに呼んだんだろう?」
「…………」
 顔を上げた華星の目の前で、土毅は余裕たっぷりに不敵な笑みを浮かべていた。
「おまえが望むなら――おまえを守るためなら、おれは大陸総てだって敵に回す。だが、おまえはそうは望んでいない。むしろ、おまえは故郷である興を愛している。だからこそ蒐原と闘い、興を護った」
「……本当に、感謝しているわ」
「感謝なんか要らない」
 土毅は首を横に振った。
「おれはただ、したいようにしているだけだ。おまえの為だなんていう気はない。おまえの望みが叶うとおれがしあわせだから……ただ、それだけだ」
「…………」
「けど……」
 突然、土毅はやや歯切れ悪く口ごもった。
「おまえの哥哥とおまえの関係は、おれにはどうしようもない。……おまえが泣くのは嫌だから、仲良くやってくれればいいと思う。でも……」
「でも?」
「仲良くされ過ぎるのも、癪だ」
 言い切った土毅に、華星は驚いたように瞬いた。
「しゃく?」
「妬けるって言ってるんだよ!」
 土毅はくしゃくしゃと華星の髪をかきまわし、ぷいと顔を背けた。
「土毅……」
「きっと、大丈夫だ」
 土毅は華星の顔を見ないまま、言った。
「おまえの哥哥は、おまえを嫌いにはなれねえよ」
「……そう、かしら」
「ああ」
 土毅はうなずく。その眼差しは、まっすぐに興を見つめていた。今まさに伶明がやってきた、その方角。
「同じ男としての、勘だけどな」
「……何それ」
 華星が噴き出して笑う。土毅はくるりと振り返って、口角を上げた。――そうだ、その笑顔。その笑顔を、護りたい。その気持ちは、
「きっと、同じなんだろうな」
 華星の耳元で揺れる、揃いの耳飾り。土毅はそっとそれに唇を寄せた。

  × × ×

 その日の宴の席は、興の皇帝が列するにはふさわしくないほど小さなものだった。広陵からは土毅とその弟である土葉が、そして客人である華星と広妃、興からは伶明と鵬嵩。双方の護衛の兵たちは次の間で待機を命じられた。
「随分大胆ですね? 土毅どの」
「それはこちらの台詞ですが」
 土毅は苦笑して伶明を見遣った。伶明は久しぶりの妹との再会にも、表面的には顔色ひとつ変えていない。だが、その額には一本の青い血筋がくっきりと怒脹していた。
「皇帝陛下をこのような質素な宴でもてなすなど、本来ならば赦されることではないでしょう」
「もし――わたしがここで害されたとしても」
 伶明は不意に、真顔になった。
「我が国は、揺らがないだろう」
「何を……」
 華星が思わず小さくつぶやく。だが、伶明は彼女を見なかった。
「我が国を成り立たせているのは、わたしではない。皇帝はあくまで象徴にしか過ぎない。代わりはいるのだ」
「ほう」
 土毅は肯定するでも否定するでもなく、やや不思議そうな表情で伶明を見ている。
「では、貴国ではどうだろうか」
 彼は雄弁だった。
「今、ここで、土毅どのが害されれば――貴国はどうなる?」
「それは大変だ」
 土毅はあっさりと言った。
「おれは王ですから。草原之民を束ねる、王――それがなくなってしまうのは、ちと困る」
「なるほど」
「ですが」
 土毅は、強い口調で続ける。
「すぐ、新たな王が起つでしょう。おれの父親が死んだときのように。そう、あなたのおっしゃるとおりです。王の代わりはいる」
「…………」
「そう、王の代わりなどいくらでもいるのですよ」
 土毅は盃を舐めた。
「いないのは――おれという人間の、そしてあなたという人間の、代わりだ」
「…………」
「たとえば、ここにいる土葉。こいつにとっての哥哥はおれしかいない」
「そう、たとえば」
 伶明が初めて、華星を見た。その熱っぽい視線に、華星は思わず目を伏せる。
「わたしにとっての彼女が、唯一の妃候補であるように……」
「哥哥」
 華星は思い切ったように顔を上げ、口を開いた。
「わたしは――」
「伶明」
 だが、それを遮った声があった。

「わたしの娘の還る場所は、本当にあなたの側かしら?」

 広妃だった。
 その場にいた誰もが、驚いて広妃を見つめる――否、土毅だけは。ただただ真剣な眼差しで、広妃の横顔を見守っていた。
「義母上……?」
 伶明が思わず聞き返し、華星は言葉も出せずに固唾を飲む。広妃は今一度、繰り返した。

「あなたは――いえ、わたしたちは、この子の呪いを解くことができなかったのではないかしら?」

「…………」
「母上……」
 華星はつぶやいた。広妃はゆっくりと彼女を見つめ、微笑む。
「華星」
 その唇が、やわらかな弧を描いた。
「あなたは今こそ、自由になるのよ」
「……自由に、」
「自由に、歌えばいいの」

 還りたい
 還りたい
 風になって
 光になって
 還りたい
 砂になって
 水になって
 還りたい
 貴方の元へ 還りたい

 広妃はつと卓を立った。
「一度、部屋に戻りますわ」
 慌てて従う侍女を連れ、広妃は扉へと向かった。
「母上!」
 華星が呼ぶ声に、彼女は立ち止まる。
「華星。あなたは――」
 世継ぎになり損なって生まれてきたのではない。彼女から皇太子の母という称号を――第一妃という称号を奪って生まれてきたのではない。呪われた姫君として生まれてきたのではない。彼女はただ、
「しあわせになるために、生まれてきたのよ」
 振り向いた彼女の頬に、一筋の涙が伝う。その涙は、ひどくあたたかかった。