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第四章 戦場之姫 – 十一

「自由に……だと?」
 母の後ろ姿を茫然と見つめていた華星は、伶明の声ではっと我にかえった。伶明は悲哀とも憤怒ともつかぬ複雑な表情で彼女を見つめている。
「血生臭い戦場を駆け回り、人死にの指揮を執る ──それがお前にとっての自由だと言うのか?!」
「哥哥」
「お前が本を読んでいたのは、そんなことのためか?」
「…………」
 土毅は瞑目している。その横顔は静かで、何も語らない。華星は思う──彼は私に委ねているのだ。突き放しているわけではないが、決して干渉しようとはしない。わたしを、信じてくれているから。わたしはもう、自分の脚でしっかりと立つことができる。前に向かって、歩いていくことができる。
 華星は真っ直ぐに伶明を見つめた。
「そんなこと……でしょうか」
 華星は静かに問い返した。
「わが故郷を守るために戦場へ赴くこと。それは、それほどまでに忌むべき行為ですか?」
「何も、お前が行く必要は……」
「それでは、駄目なのです!」
 強い口調で遮った彼女を、伶明は驚いたように見つめた。華星の瞳の奥に、彼の見たことのない光が瞬いている――それが怒りだということに気付くのに、しばしの時間を要した。
「わたしはずっと……自分の居場所が分からなかった。何のために生きているのか、わからなかったのです。令尊には望まれず、母からは皇太后となる機会を奪って、皆からは『呪われた姫』と呼ばれた。わたしは本当に呪われているのかもしれないと、いえ、きっとそうなのだと思っていた」
「…………」
 それは、はじめて聞く言葉だった。華星が生まれて初めて伶明に発した、心の奥底に沈澱していた感情の吐露だった。伶明は息をのんで、聞き入ることしかできなかった。
「確かに哥哥はわたしを大切にしてくれたし、わたしも哥哥が大好きです。でも、それだけに縋るのはあまりにも不確実で、不安なのです。哥哥が皇帝として民に必要とされるように、わたしだって誰かに必要とされたい。自分の生きる意味が欲しい。目的が、欲しかったのです」
「それは、違う」
 伶明は首を横に振った。
「わたしが皇帝になったのは、偶然だ。それこそ、おまえが男でなかったからというだけの理由――わたしでなければならない理由など、ないのだ」
「哥哥……」
 華星はそのおもてに、わずかではあるがはっきりと、失望の色を浮かべた。そのことに気付き、伶明はぞっとする。
「それは、社会が哥哥に役割を与えたということでしょう。果たすべき、役割を」
 華星は静かに言葉をつづる。
「そう――わたしに与えられていたのは、母の娘という役割。哥哥の妹という役割。妹妹たちの姉という役割。だけど、わたしはそれだけじゃだめだった。不安だった」
「わたしは」
 伶明は唇を噛む。
「おまえの言い方を借りるなら――おまえに、わたしの妃という役割を与えようとした。だが、それでは不満だったのか」
「ええ」
 華星ははっきりと言い、うなずいた。
「後宮での生活に、希望など持てません。わたしは幼い頃から、あの場所のことを知っています。世継ぎを生めない女がどのように扱われるか、皇帝の寵愛をめぐってどれほど見苦しい争いが行われているのか、知っているのです」
「…… それなら、おまえは」
 伶明はぐっと硬くこぶしを握った。
「草原での生活に、希望を見たのか。わたしの側ではなく、草原之王のもとになら、奔るというのか――」
「土毅は」
 華星はぽつり、とその名を口にした。
「わたしに新しい役割をくれました」
 顔を上げる。彼女の頬はかすかに紅潮していた。
「わたしの知識が欲しいと言ってくれた。わたしの読んだ書物のことを、教えて欲しいと。そして――軍を導いて欲しいと。ともに戦ってほしいと」
「それを、おまえは望んでいたのか」
 伶明はつぶやく。それは、彼には想像もつかないことであった。伶明は華星に心配などかけたくなかった。皇帝である自分が負う心労とは、無縁のところにいて欲しかった。ただ、彼女には笑っていて欲しくて――それが間違っていたというのだろうか。
「わたしはおまえを世俗の荒波から遠ざけておきたかった……」
「そんなことは、不可能です」
 華星は困ったようにわらった。
「生きていれば、必ず嫌な目には遭う。何の悩みもなく生きていくことなんて、できない。いくら哥哥がわたしを守って下さっても――もしくは哥哥ではない誰であっても、それは同じです」
 彼女の眼差しが痛くて、伶明は目を伏せた。しかし、彼女は言葉を止めない。
「だからこそ、守られるだけではだめ。わたしも誰かを守りたい。誰かの役に立ちたい。誰かに必要とされることで、わたしはわたし自身で自分の生きる意味を見つけなければならない」
 ――わたしはわたしの還る場所を、見つけなければならない。
「この世界の中で、わたしは生きていきたいから」
 草原にわたる一陣の風のように。彼女の言葉は空間を震わせ、やがて減衰して消えた。

  × × ×

「伶明どの」
 黙っていた土毅が、口を開いた。
「広妃どのと華星どのを帰国させるようにと―― そう、ご連絡をいただきました」
「無論だ」
「賓客をお返しするのは当然のことです。しかし、こちらからもひとつお願いがある」
「何だろうか」
 伶明は土毅をじっと見つめる。内心渦巻いている感情を必死で押し殺しているのは、誰の目にも明らかだった。
「華星を、おれの妃にしたい」
「…………!!」
 あまりにもあっさりと言い放たれたその言葉に、伶明は息を飲んだ。土毅は真剣だったが、その表情はあまりにも平静である。――伶明が華星を妃にと望んでいたことを、この男は知らないのだろうか。伶明はそう思った。
 彼が何も言い返せずにいるうちに、土毅は言葉を継いだ。
「無論、何かと準備もお有りであろうし、一度華星どのにはご帰国頂く必要があるかとは存じます。できることなら、この場で伶明どのにも我らの婚約の儀をおみとめいただき……」
「ま、待ってくれ」
 伶明は片手を上げて土毅を遮った。
「それは、本気か」
「勿論です」
「華星」
 伶明はかすれた声で妹妹の名を呼ぶ。
「おまえも、それを望んでいるのか」
「――はい」
 華星はうなずいた。
「おまえは、わたしの妃にはなりたくないと言った。後宮には入りたくないと。皇帝の妃には、なりたくないと」
「はい」
「草原之王の妃になら、なるというのか」
 問い詰めるような伶明の言葉に、華星は首を緩く横に振った。
「妃になるだけ――というのなら、わたしは同じように躊躇ったでしょう。特に、広陵は異国。いくら母の故郷であるとはいえ、わたしにとっては見知らぬ土地であることに変わりはない」
「それなら、何故」
「広陵の民は、わたしを呪われているなどと言いません」
 華星はふわりと微笑んだ。
「わたしを慕って下さる。必要だと、言ってくれるのです」
「…… くにを、捨てるのか」
「いいえ」
 華星は再び、首を横に振る。
「わたしは、興のことを愛しています。わたしの生まれ育った土地ですもの。哥哥も、妹妹たちもいる。わたしの大切なひとたちが、住むくにです」
「では、なぜだ。何故、くにを離れたいなどと言う……」
 伶明は呻くように言う。
「哥哥」
 華星は立ち上がり、彼にすっと手を差し伸べた。その指先は、少しだけ震えている。
「哥哥……ごめんなさい」
「…………」
「だけど、わたし」
 華星の頬を、涙がひとつぶ伝った。

「しあわせに、なりたい」

 ――土毅とともに馬上にあるとき、自分は間違いなくしあわせだった。風に煽られ、土に塗れ。ひとの命の散る戦場は、ひどく恐ろしい場所ではあった。しかし、彼女の思索が、言葉が、守りたいものを守る腕(かいな)となる。そのことに気付いた時、胸に込み上げた感情は、間違いなく「しあわせ」だった。
「はなれていても、わたしは興を守ると誓います。……いいえ、興だけじゃない。この大陸の平和を、わたしにできる限りの力をもって――」
「華星」
 伶明は彼女の名を呼んだ。差し伸べられた手を、そっと降ろさせる。
「もう、いい」
「哥哥……?」
「もう、いいんだ」
 伶明は目をそらした。
  ――しあわせに、なりたいと。彼女はそう言った。もし今彼女を無理に連れて帰っても、彼女はしあわせにはなれない。それでは、彼が彼女の側にいる意味がない。
「わたしは、おまえをしあわせにしてやりたかったのだよ……」
 たとえその方法が結果的に間違っていたのだとしても。その想いは誰にも負けないほど強く、長く、深かったのだと。それだけは、自信を持って言える。
「土毅どの」
「はい」
 伶明はやや赤みを帯びた目で、彼を見つめた。
「妹妹を、たのむ」
「……はい」
 土毅は微笑んだ。まるで少年のような、無垢な笑みだった。
「華星は、きっとしあわせになる」
 ――自分がしあわせにするのだとは言わなかった。何故なら、華星には自分でしあわせになる、そのための力があるから。
「しあわせに――」
 華星は、真っ直ぐに立っていた。自分の足で、誰にも寄りかかることなく、静かに前を見据えて。伶明は、そんな彼女をうつくしい、と思った。今まで見たどんな彼女よりもうつくしく――そして愛おしい。
「土毅どの」
 伶明はく、と顎を引いて表情を引き締めた。自分は興の皇帝だ。興の国民を束ね、導いていくという役割がある。数多の民のしあわせは、彼の双肩に掛かっている。――妹妹には、負けられない。
「今後とも両国の交流を活発にしていきましょう。大陸の安定のために、尽力したい」
「無論です」
 土毅はうなずき、伶明に手を差し出す。
「宜しく」
「…………」
 伶明はしばしの間土毅の手を見つめていたが、やがてぎくしゃくとした動きで腕を動かし、その手を握った。彼の掌は、温かい。やがて、伶明の手から次第に力が抜けていった。

 大陸に、新たな風が(わた)った。