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第四章 戦場之姫 -六

 蒐原との和平をすすめよ。――その命を受けた土葉は、物も言わずに兄をじっと見つめた。土毅はそれに気付き、怪訝そうに眉を寄せる。
「何だ? 何か疑問があるのか?」
「いえ。終戦の兆しが見え始めたこと、とても嬉しく思っています」
 そう言いつつも、土葉は厳しい表情を崩さなかった。土毅は重ねて尋ねる。
「何か、懸念しているのか」
「…………」
 土葉は少し迷った後、やがて口を開いた。
「華星どののことです」
「…………」
 土毅は思わず口をつぐんだ。
「戦が終われば、彼女は興へ帰ることとなる……ふつうはそうですよね」
「……ああ、そうだな」
 土毅は苦しげにつぶやいた。忘れてはいけない。華星はあくまで興から来た賓客で、大国の姫なのだ。しかも皇妃候補ですらある。今離れてしまえば、再びまみえることができるかどうかすらわからない。同じ馬に乗って野を駆けることなど、もう永遠にできない……。
「哥哥は、諦めるのですか」
 その言葉に、土毅の呼吸が一瞬止まった。
「彼女を手放してしまうのですか」
「……手放しはしないさ」
 土毅は笑う。目は伏せられていたが、その奥の光は健在であった。そのことに気付き、土葉はかすかに微笑む。――やはり、この方はわたしの哥哥だ。草原之民を束ねる、草原之王だ。
「さいわい、あいつの存在は既に民にも受け入れられている。類稀なる才能を持つ戦女神として」
「ええ、そうですね」
 土葉はうなずいた。――華星の高貴な姫としての顔と、知性に長けた軍師としての顔。相反した二面性を持つ彼女に誰もが興味を惹かれ、一目を置いている。そもそも、彼女は草原之民の血を引いているのだ。民らが受け入れぬはずなどなかった。彼女の体を作るのはこの大地の土、空を翔る風、野を潤す水――この国そのものなのだから。
 土毅はきっぱりという。
「皇帝どのに、返しはしない」
「……しかし、具体的にはどうなさるのです」
 土葉は尋ねた。
「賓客として迎えた以上、いつかは返さねばなりませんでしょう。そうでなければ、まるで人質にしていると見做されても仕方がない」
「……妹君をくださいと申し出たとしても、あっさりくれるとも思えないしな」
 土毅の口調は冗談交じりであったが、眼差しは真剣だった。
「蒐原の進攻を止めたことを、恩として売りつけるか」
「その程度で諦めてくれるでしょうか?」
「さあな」
 土毅は苦笑した。
「皇帝どのがどの程度華星を想っているのか、おれにはわからん。……わかったとしても、おれ自身は何も変わらないが」
「…………」
「一番大切なのは華星の気持ちだ。彼女が一度国に帰って哥哥を説得したいというのなら、おれは待つ。国に帰って、広陵に戻りたいのに戻らせてくれないというのなら、おれ自らが迎えに行く。どれだけ時間が掛かろうが、どんな方法を使おうが構わない。……だが最後に華星が還ってくるのは――おれの側だ」

 還りたい
 還りたい
 風になって
 光になって
 還りたい
 砂になって
 水になって
 還りたい
 貴方の元へ 還りたい

「我儘を言って、すまない」
 目の前の土葉に、土毅は軽く頭を下げた。
「いいえ……」
 我儘だと悟っていても、譲れない。王になって以来――いや、王になる以前から常にこの国のことを第一に考えてきた土毅であったが、それでも彼女のことだけは譲れないのだ。土葉もそれは良く理解していた。
「もしかすると」
 土葉はぽつりとつぶやいた。
「今この大陸は、華星どのを(めぐ)って動いているのかもしれませんね……」
「…………」
 確かに、そうかもしれない。彼女がいなければ、広陵が蒐原と戦うこともなかっただろう。興は手を結んで立ち上がった周囲の国々によって追い込まれてしまったかもしれない。そのとき広陵はどのような運命を辿ったか……今となっては想像する術もなかった。
「あの方が自分で思っているよりずっと、あの方の存在は大きいのですね」
「…………」
 土毅は小さくうなずいた。

  × × ×

 ふと気付くと、包の中に璃春の姿がなかった。驚く華星の背後で、外と包の中を隔てている布が開く。振り返った彼女の目に、良く見知った姿が映った。
「よう」
「……土毅」
 つぶやき、微笑む。彼の顔を目にするたび、彼女は言い知れぬ安堵をおぼえるのだった。立ち上がり、彼をじっと見上げる。土毅は口元を緩め、彼女の頭を撫でた。大きな掌に、彼女は目を細める。
「明日、蒐原に使者を送る。おそらく、国境付近で会談を持つことになるだろう」
「はい」
 顔を引き締め、華星はうなずいた。――蒐原が兵を退()く、その日は近い。胸を満たした喜びが、しかしすぐに不安に取って代わった。
「戦が終われば、わたしは……」
 それ以上は口から出なかった。興へ、帰らなければならない。その言葉を口にするのが怖かった。耳で聞いてしまえば現実になるのではないかと、そんな気がした。
 だが、土毅は彼女にその続きを促そうとはしなかった。わかっている、というようにうなずいて、
「ああ。おれは、その話をしに来たんだ」
 土毅は彼女の手を引き、側に座らせた。彼女の瞳が曇っていることに気付き、頬に掌を滑らせる。
「どうした?」
「…………」
 華星はためらいがちに視線を揺らし、土毅を見ない。彼は彼女の両頬を手で押さえた。
「華星。おれを見ろ」
「……土毅、」
「おれは、おまえを見ているから」
「…………」
 華星は大きく目を見開き、土毅を見つめた。その瞳の中に彼自身の姿がくっきりと映る。
「おれは、いつだっておまえを見ているから」
「…………」
 彼女の唇が吐息に濡れ、小さく震える。
「だから、おまえもおれを見ていてくれ。……いいな?」
「……わかった」
 華星はうなずき、彼をしっかりと見つめ返した。その力ある眼差しに、彼は満足する。戦場で見せる彼女の強さの片鱗が、そこにはあった。
 土毅は話を元に戻す。
「この大陸での戦闘が終わって状況が落ち着いたら、確かにおまえがこの国にとどまる理由はなくなる」
「……ええ」
 華星の唇が、わずかに震える。
「おまえは、帰りたいか」
 土毅の問いに、彼女は答えなかった。ただ黙って、苦しげに彼を見つめている。
 彼女の答えを待つことなく、土毅は言った。
「おれは――おまえを帰したくない」
「土毅」
「おまえと離れたくない」
 華星は手を伸ばし、彼の袖をつかんだ。
「わ――わたしも」
 細い指が、彼の腕を求めて這い上がる。
「帰りたくない……」
 帰った先の宮殿で待ち受けているのは、あの閉塞感だ。慣れてはいるが、決して心地良くはない。広陵での暮らしとは正反対の、窮屈な毎日。ただ同じ日々を繰り返すだけの、自らの存在意義を自問するだけの――。
 華星はつぶやいた。
「母国を愛していないわけではないの。でも、あの国はわたしを必要としてはいない。わたしを――わたしという人間を必要としてくれるひとは、いない」
 伶明は彼女を愛しているという。だが、彼にとって自分が必要な人間なのか、華星にはわからない。 彼が自分を必要としているのだと、感じたことはない。
「わたしは、ここにいたい」
 華星はその身を彼の腕の中に投げ出した。彼はしっかりと彼女を受け止める。
「あなたの、側にいたい……」
「華星」
「あなたがいれば、わたしは」
 華星は顔を上げ、微笑んだ。
「わたしはわたしになれるから――」
「…………」
 土毅は彼女を強く抱きしめた。何も言わなかった。言う必要はなかった。ただ互いの温もりと、鼓動と、吐息と。それらを重ね合わせて、彼らはただじっとそうしていた。

 夜が更けるまで、土毅がその包から立ち去ることはなかった。

  × × ×

「ねえ、璃春」
 広妃に突然話し掛けられ、璃春は体を強張らせた。彼女に呼ばれたときから覚悟はしていた――きっと、広妃は華星のことを尋ねるのに違いない。
「あの子は、本当に戦場に出ているの?」
 それはあまりに今更過ぎる質問だった。璃春が拍子抜けしたほどだ。
「はい」
 短い答えを返す。すぐに次の質問が飛んだ。
「何故そんなことをあの男は許しているのかしら。彼は、あの子をしあわせにしたいと、守りたいと言ったはずよ」
「…………」
「それなのに、そんな危険な場所にあの子を連れ出して……」
 璃春は黙り込んだ。――ここで自分が広妃を納得させられるとは思えなかった。彼女自身は、華星の友としてふたりの決断を理解しているつもりだし、心から支持してもいる。だが、あくまで広妃にとって彼女は華星の侍女に過ぎない。出過ぎた真似をすれば、かえって華星に迷惑が掛かってしまう。
「ひとつ、聞いておきたいことがあるのだけど」
「はい」
 璃春は姿勢を正した。広妃は疲れた表情を浮かべ、卓に体を預けている。
「あなたの目から見て、華星はどう? しあわせそうにしているのかしら?」
「……はい」
 わずかにためらったあと、璃春はしっかりとうなずいた。
「華星さまは、この国の民からも慕われていらっしゃいます。わたしは幼い頃からずっとあの方が大好きでしたけれど」
 璃春は知らず知らずのうちに微笑みを浮かべている。
「今のあの方は、わたしの――いえ、興の誇りだと思います」
「…………」
 広妃は目を閉じた。薄い色の唇が、ほとんど動くことなく音を刻む。
「わたしたち親子は、この世でたったふたりきり……かけがえのない絆だと思っていたわ」
「…………」
「だけど、今のわたしには何も見えないの」
 ――華星が今浮かべているであろう表情が、脳裏に見えてこない。
「わたしはどこで間違えたのかしら。どこで離れてしまったのかしら……」
 璃春は何も言えなかった。華星の苦しみを一番近くで見ていた彼女だからこそ、何も言えない。広妃が夫はじめ周囲に向けた愛憎が、どれほど華星の中に暗い影を落としたか。「呪われた姫」と呼ばれることが、どれほど彼女を傷つけてきたか。何故母であるあなたが守ってやらなかったのか、なじれるものならなじりたい。……しかし、華星はきっとそんなことを望んではいない。彼女は母親のしあわせを何より祈っていたのだから。そしてその妨げになっているのが自分の存在なのだと、強く強く思い込んで生きてきたのだから。
「璃春」
 名を呼ばれ、顔をあげる。だが、広妃は彼女を見ていなかった。
「華星がしあわせにしているのなら、わたしは嬉しいはずなのに」
 独り言のようにつぶやく。
「どうして今……こんなに気持ちが沈むのかしら……」
「…………」
「わたしは、あの子のしあわせを何より願っているはずなのに……」
「…………」
「どうしてこんなに寂しいのかしら……」
 璃春は凍りついたように動けない。
 広妃の問いの答えは、探してはならないものだと思った。それはきっと、華星を傷つける。そして同時に、広妃をも傷つけるだろう。見てはならない闇の深遠……その淵から遠ざかろうとするように、璃春はびくりと体を退かせた。