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第四章 戦場之姫 – 八

 ――興と広陵との国境付近の小さな村。そこで陛下との会談を希望する。
 広陵の王からの返書を目にした伶明は、小さく鼻息を漏らした。
「どういうつもりだ? あの男」
 自分と直接相対して、何を話すつもりだろう。表向きは蒐原との戦のこと、興の内乱のこと、そして今後の大陸の動向についてと書いてはある。しかし、まさかそれが本心ではあるまい。
「華星のこと……か?」
 その名を口にすると、彼の胸に鋭い痛みが走る。――わたしを妃にというお話を、一度白紙に戻していただきとうございます。何度も読み返した、その文。悪い夢であれば良いと願った、しかしそれは彼の前から消え失せることはなかった。華星。おまえがわからない……いや。いつだって彼は彼女がわかっていなかった。わからないまま、時を過ごしていた。その結果が、この別離なのだろうか。
「あの男は」
 伶明はつぶやく。
「華星と、何か……?」
 彼女を戦場へ連れ出したのは、きっとあの草原之王だろう。何のために。何故。
「戦場の女神だと」
 伶明は呻く。
「そんなものになど、ならなくて良いのに」
 血生臭い現世(うつしよ)になど、彼女は関わってはいけない。ただ、彼女はしあわせであればいい。あの笑顔を守るために、彼は皇帝となったのだから。
「…………」
 伶明は己の両の掌を見つめる。その指の隙間から零れ落ちてしまった何か……それの行方を捜すように、伶明はただじっと俯いていた。

  × × ×

 興が、会談を受諾した。その報せを耳にした華星は、土毅のもとを訪ねた。
「哥哥と、会うのね」
「ああ」
 土毅は杯で唇を濡らし、微笑んだ。
「そして、話をする――無論おまえも、な」
「ええ……」
 華星はうなずく。今度こそ、真っ直ぐに話をしよう。興を出る前には言えなかった自分のほんとうの想いを、哥哥に告げよう。
「もうすぐだ」
 土毅は彼女を抱きしめ、つぶやく。
「もうすぐ、おまえの呪いが解ける」
「…………」
 こめかみに唇を寄せ、土毅は歌った。

 還りたい
 還りたい
 風になって
 光になって
 還りたい
 砂になって
 水になって
 還りたい

「『貴方の元へ 還りたい』」

 ふたりの声が、重なる。
「…………」
 華星が見上げ、土毅が見下ろす。大地の色をした、彼の瞳。空を映し込む、彼女の瞳。
「おしえて」
 華星はささやく。
「この詩の、ほんとうの意味を」
 いつか、この詩の本当の意味を教えてやる。それは古い約束――ふたりが交わした、一番最初の約束だ。
「それなら」
 土毅は彼女の胸の真ん中を、とん、と人差指でついた。
「おまえのここが、もう知っているよ」
「……え?」
「憶えているだろう」
 彼の大きな手が、彼女の髪を梳く。
「通り抜けた風。目を灼くまばゆい光。足元を支える大地。手を濡らす水」
「…………」
 彼の言葉はまるでそれすら詩であるかのように、彼女の耳に心地よく響いた。
「それから、還りたい場所」
 吐息が触れ合うほどの至近距離で、彼らはじっと見つめあう。土毅は低く、尋ねた。
「知っているだろう? おまえの還りたい場所は、どこだ?」
「…………」
 華星はうっすらと微笑んだ。
「だめ。土毅」
「何?」
「ちゃんと教えてくれなければ、わからない」
「…………」
 土毅は驚いたように目を瞬かせる。華星はじっと彼の眼を覗き込んだ。
「教えて」
 彼女の瞳は真剣そのものだった。
「もっと、ちゃんと、知りたいの」
「華星……」
「わたしに、おしえて」
 華星は彼の手を取り、ぎゅっと抱きしめた。

「あなたを――おしえて」

「…………」
 土毅は少しだけ黙った後、空気を小さく揺らして笑う。
「ああ」
 ――やはり、彼女には驚かされてばかりだ。だがそういう彼女だからこそ、彼はどうしようもなく惹かれるのだろう。
「無論、教えてやるさ」
 土毅は言い、彼女の肩に頬を凭れさせた。彼女の細い二本の腕が、彼をそっと押し包む。そうしていると、まるで――。
「ああ」
 土毅は小さな吐息を漏らした。
 ――まるで、世界に抱かれているようだ。

  × × ×

 夕闇が徐々に辺りを浸し始める頃、土葉は紅の光を引き連れて広妃の包を訪れた。
「二日後の朝。興との国境に向かって出発します。ご準備を」
 淡々と告げた彼に、広妃は目を見開く。
「興に――帰るの?」
「ええ。あなたは興からの客人ですから」
 微笑む土葉。広妃は立ち上がった。
「で、ではあの子も? 華星も一緒よね?」
「もちろん」
 ほっと安堵のため息をついた広妃だが、やがて探るような視線を土葉に向けた。
「何か?」
 土葉はしらじらとした笑顔を浮かべ、広妃を見つめる。彼女は少し迷ったように視線を揺らし、唇をゆっくりと開いた。
「……華星も、そのことは知っているのかしら?」
「ええ、哥哥からお伝え致しました」
「そう……」
 広妃は眉を寄せる。
 わたし――土毅のことが、好きなのです。華星はたしかにあの日、そう言った。彼の側にいたい、と。そして土毅もまた、華星とともに生きたいと、自分にとって唯一無二の女性(ひと)なのだと。そう、口にした。そして――広妃がふたりの仲をみとめること、それが蒐原の攻撃から興を援けるための条件なのだと。
 あのとき、祖国の――今では異国の――王に娘を奪われようとしている、その事実に彼女は激高して話を打ち切り、以来華星を遠ざけ続けた。彼女の口から、あの男への想いなど聞きたくなかった。興を離れる、すなわち自分から離れていってしまう、そんな話など耳にしたくはなかったのだ。しかし……。
「その、程度なの?」
 目の前にいる王の弟には聞こえぬように、広妃はつぶやいた。所詮戯れの恋に過ぎなかったと、一時的な気紛れだったのだと、そういうことなのだろうか。あのときのふたりの瞳は真摯なものだった。だからこそ広妃は動揺したのだが……。
「国境で」
 土葉の声が、広妃の思考を打ち破る。
「興の国王陛下と哥哥の会談が行われる予定になっておりますので」
「何ですって?」
 広妃は顔を上げた。土葉は落ち着き払った様子で彼女を見つめている。
「一体、それは――」
「何が話し合われるのか、ぼくは存じません。それにもし存じ上げていたとしても、あなたに言うわけにはいかない」
「…………」
「叔母上」
 黙り込んだ広妃に、土葉は優しい声を掛けた。
「『土と空は、いつも我らのそばに』」
「…………」
 それは、草原之民に伝わる口伝のひとつ。広妃は口をつぐんだまま彼を見返した。
「『我らを支える大地、我らを見守る天』――時間(とき)空間(ばしょ)も超えて、ぼくらすべてを包み込み」
 土葉の奏でる深い音が、辺りに静かに沁み込んでいく。
「だからこそ、たとえ離れていてもぼくらの生きる世界はひとつなのだと――」
「……何がおっしゃりたいの?」
 土葉は目を細めた。
「華星どのは、草原之民だ。ぼくと、哥哥と、そしてあなたと同じ」
「いいえ、あのこは――」
「血は、欺けませんよ」
「…………」
 広妃は再び言葉を失った。土葉は穏やかに、それでいて鋭く言葉を紡ぐ。
「あの方は、故郷(くに)でしあわせでしたか?」
「…………」
 呪われた姫、と。そう陰口を叩かれ、父である皇帝からも無視され続けた彼女――しあわせであったと、言い返すことは広妃にはできなかった。
「では今、あの方はしあわせではありませんか?」
「…………」
 広妃は沈黙し、やがて言葉を絞り出した。
「わからない……」
 ――わたしは、わたしのしあわせを見つけました。あのとき、華星はたしかにそう言った。草原之王にひたりと寄り添い、そう言った。それなら、彼とともに在る今、華星はしあわせなのだろうか。しあわせなのだとしたら……それならば……。

「では――あなたのしあわせは?」

「…………」
 土葉の問いに、広妃は震える手で口元を押さえた。
「……お、お話はわかりました。ですから」
 目をきつく瞑る。
「もう……もう」
「不躾なことを申しました」
 土葉はすっと気配を引いた。
「お許しを」
「…………」
 広妃は青ざめた唇を小さく動かす。
「わたしの、しあわせですって?」
 ――赤子の華星が、あどけない幼子の華星が、そして成長した華星が。彼女を見て、微笑む。
「ほかに、あるわけないじゃない……」
 その微笑みが、他の誰かに向けられたとしても。それでもいい。ただ彼女が笑っていられるのなら、それで、いい。そうだった。それこそが、わたしの願い。祈り。
「――いま、あの子は笑っているのかしら?」
 まるで自問のようなその問いに、土葉はすぐに答えた。
「ええ、勿論」
「……そう……」
 その言葉には何の根拠もないはず。だが、広妃は何も言わなかった。