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第四章 戦場之姫 – 五

 草原を、風が吹き渡る。丈の低い若草が、白馬の足元に波となって打ち寄せていた。
 土毅は、深く息をつく。先ほどまで荒くなっていた呼吸も、かなり落ち着いた。背中には、既に慣れ親しんだ温度が寄り添っている。頬を優しく掠める長い髪――華星だ。
「……終わったか」
 つぶやき、首をひねる。至近距離で目が合うと、彼女は少し顔を赤らめた。先ほどまで軍に鋭く檄を飛ばしていた少女と、とても同一人物とは思えない。
 蒐原との戦は、小競り合いをも合わせると既に十回を超えている。今日の戦は、その中でももっとも激しいものであっただろう。機動力を持つ騎馬と長い飛距離を持つ長弓による攻撃を組み合わせ、広陵は波状攻撃を仕掛けた。と同時に絡め手から敵陣へ火を放って食糧などの物資を喪失させ、その結果、蒐原は戦線を大きく後退させることとなったのである。
「土毅」
「ん?」
 華星の声に、土毅は聞き返した。
「一度、蒐原と話し合いを持ってもいいかもしれない」
「…………」
 土毅は地平線を睨み、考えた。――なるほど、既に広陵と蒐原の間でどちらかが優位な立場にあるかは確立している。そもそも広陵は蒐原の領土を得ようとは思っていないわけだから、戦を長引かせることには何の意味もない。ただ蒐原が興への進軍を諦めれば、それでいいのである。
「興は興で、戒絽との和平交渉を進めているらしいな」
「ええ。もしそれが成れば、蒐原の見込みとは大きく外れてしまう――」
 もともとは大国の興を周辺諸国で囲み討つつもりだったのだ。だが、蒐原が広陵によって足止めされたことで、計画は狂った。そのことは蒐原自身が一番よくわかっていることだろう。
「戦は長引かない方がいいに決まっている」
 土毅はうなずいた。
「確かに、引き際だな」
「…………」
 華星は彼の肩口にほっとしたような吐息をこぼし、頭をもたせかけた。
「疲れたのか?」
「いいえ」
 微笑んだのか、わずかに周囲の空気が揺れる。
「ただ、こうしたかったの」
「…………」
 土毅は思わず息を呑む。華星の指が、彼の背中をきゅっと掴んでいた。
「ここが、すきだから」
「…………」
 それは、この草原が好きだという意味か。馬上に慣れ親しんできたという意味か。それとも自分の背中に寄り添うことが、好きだと……? 土毅は顔に血が上るのを感じた。あたりにはまだ兵たちもいる。どうか、夕日がこの色を隠して欲しい。
 土毅は西に顔を向け、目を細めた。沈んでいく太陽。高い空を徐々に覆う夜闇。草波は夕日に向かって打ち寄せ、闇に返す。視線を落とせば、馬上で重なったふたりの影が(あお)い水面で揺れている……。
「土毅?」
「……いや、何でもない。さあ、帰ろう!」
 最後の一声は、広陵の民に対して掛けたものであった。おう、と鬨の声が上がり、騎馬隊はゆっくりと西に向かう。土毅は視線を遠くに投げた。――華星とともに見るこの草原の風景を、自分は何よりも愛している。そう思った。

  × × ×

 鵬嵩が戒絽の宰相、愈陶(ユトウ)と会談を持つのは、既に三度目のことであった。素早い講和が望ましいが、同時にできるだけ興に有利な条件で停戦に持ち込みたい。……不慣れな外交ではあったが、鵬嵩は己の持ち味を良く理解していた。すなわち、誠意と理(ことわり)である。
「我らが皇帝陛下は、戦によって双方の人民が傷つくことに心を痛めておられます。決して戦を望んではおられぬのです」
 鵬嵩は繰り返し説いた。
「しかし、近年は蘇曳の民が我らが庇護の下にあったのも事実。その我らに貴国と手を組み卑怯な(たばか)りを弄したこと、いかに陛下の心根が温厚であらせられたとしても、これを(いか)らずにいられましょうや」
「しかし、蘇曳の民には、援けを求められたのですよ」
 兪陶は穏やかな微笑みを浮かべ、言った。
「失礼ながら、貴国の先帝は蘇曳を庇護するどころか搾取しておられたではないか」
「それでは何故」
 鵬嵩は畳み掛けた。
「蘇曳は蒙當のように正々堂々と独立したいと宣言されなかったのですか? 我らは蒙當の独立を認めようとしています。戦になどなることなく、平和的に解決できるでしょう。しかし蘇曳は我らを騙した。嘘をついた。結果的に、貴国を含め多くの民が血を流し、傷つくこととなりました」
「…………」
「その罪は我が国のものでしょうか。あなたは如何お考えになりますか」
「…………」
 険しい顔をして黙り込んでいた兪陶は、不意に話を変えた。
「新しい皇帝陛下には、妹君がおられるそうですな」
「は……」
 鵬嵩は思わず戸惑いの色を見せる。兪陶は笑みを深めた。
「一番上の姫君は、草原之民の血を引いておられるとか」
「…………」
 華星。その名を思い浮かべ、鵬嵩は小さく唾を飲み込む。皇帝の妹であり皇妃候補でもあり、そして――。
「やはり、血が呼ぶのでしょうかな」
 兪陶はまるで独り言のようにつぶやいた。
「噂が聞こえておりますよ。何でも、広陵で戦の指揮を執っておられるとか」
「それは……」
 鵬嵩は口を開きかけたが、止めた。何を言えばいいのかわからなくなったからである。自分も最近になってその噂を耳にし、驚いた。広陵に賓客として招かれていたはずの華星が何故、戦場に。……だが、何度か書庫で会った時の彼女を思い出すと、何となく彼は納得できるような気もしていた。あの理知的な瞳、溢れんばかりの豊かな見識――己の翼の存在すら知らなかった雛が成長し、少しずつ羽ばたきを憶え始めているのかもしれない。しかし、それにしても何故異国で……。
 兪陶がひたり、とした眼差しを鵬嵩に向けた。
「しかし、何故興の姫君が広陵の民を率いて戦場に出ておられるのですかな」
「…………」
 鵬嵩は答えることができなかった。兪陶は目を細める。
「まさか――興と広陵が手を結び、この大陸を手中に収めんと企てているわけではありますまいな」
「まさか、そのような!」
「それでは、一体何故」
「……それは」
 鵬嵩は大きく息を吸った。
「貴国と我が国との関係には関わりのないこと」
「本当にそうですかな?」
「ええ」
 鵬嵩は力強く頷いた。
「陛下は、いかなる戦をも望んでおられぬのですから」
 それに――愛する妹を戦地に送り出すことなど、彼には決してできないに違いない。それが伶明という男の優しさであり、同時に臆病さでもあるのだろう。鵬嵩はそう思った。
「兪陶どの」
 鵬嵩は言った。
「いたずらに時間を費やすことは、のぞむところではありませぬ。そろそろ答えを出していただけませぬかな」
「答え?」
 しらじらしく聞き返す兪陶に、鵬嵩は迫った。
「和平を受け入れるか、否か。……明日は必ず、お返事を」
 相手に何かを言わせる隙を与えず、彼は席を立つ。確かに、華星は伶明の弱点であるかもしれない。しかし、興の弱点となっては困るのだ。

 ――独りになってから、鵬嵩は小さくつぶやいた。
「華星どの……一体何故……」
 今も、彼女は草原を駆けているのだろうか。その瞳は一体何を見据えているのだろう。――その心は、どこにあるのだろう。どことなく、胸騒ぎがした。

  × × ×

「哥哥、正気ですか?!」
 部屋に駆け込んできた晶香の言葉に、伶明は眉をひそめた。
「なんだ、いきなり。わたしはいつでも正気のつもりだぞ」
「いいえ、哥哥は正気ではありません。姐姐が絡むといつもそう」
 姐姐――華星を示すその言葉に、伶明の眉間の皺が深くなる。
「何か、噂を耳にでもしたのか」
「ええ」
 晶香はうなずいた。
「哥哥が広陵を攻める――と」
「先に我らを愚弄したのは先方だ」
 伶明は言い放つ。
「我が妹を戦場に立たせるなど、それこそ正気の沙汰ではない。華星は我が国の姫なのだぞ?!」
「だからと言って、いきなり戦に持ち込むなど……!」
「では、何か先方に正当な理由が存在していると思っているのか」
 強い口調で反問され、晶香は口をつぐんだ。伶明は矢継ぎ早に問いかける。
「お前は華星が危険極まりない戦場に引き出されていても、何とも思わないというのか」
「そういうわけではありません。姐姐の身は心配だし……。でも」
 晶香は目を伏せた。
「姐姐は『戦女神』とまで呼ばれ、広陵の民にも支持されていると聞きました。それは姐姐が何らかの意図で、己の意思で戦場に出ているからではないのでしょうか」
「そんなこと、あるはずがないだろう」
 伶明は眦を裂いた。
「そもそも、華星に戦場で何ができる。あの細腕で刀を持てるわけもないし、そもそもあやつは馬にも乗れない。どうやって戦場に赴いているのだ。……やはり、無理やり連れ出されているとしか考えられぬ」
「…………」
「国を守るため、我らは戒絽と戦ったではないか。華星はこの国の姫、この国の一部だ。彼女を守るために戦うことの、何が間違っている?」
「……姐姐を、守るため?」
「そうだ」
 伶明は大きくうなずいた。
「わたしは華星を守りたいのだ。ただ、それだけだ」
「…………」
 伶明は袖を翻し、窓に歩み寄った。広陵のある、西の空をじっと睨みつける。その背中を見つめ、晶香は小さくつぶやいた。
「違う……」
 伶明は、確かに華星を愛しているのだろう。だが、その愛は彼女を守るためのものではない。彼の手の中に包み込んでおくためのものだ。そのふたつは似ているようで異なっている。
「でも……戦を仕掛けたら、姐姐の身に危険が及びはしませんか……?」
 晶香の言葉に、伶明の肩が跳ねた。
「……もちろん、攻め込む前にまずは華星を返すよう要求する。それを拒めば、力づくでも取り返す。もし、彼女が害されるようなことがあれば――」
 伶明の瞳がぎらりと光った。
「草原を、焼き尽くしてやる」